第二章 デートではない休日 五
五
帰りの電車は、行きより混んでいた。
私たちは二人掛けの席へ並んで座った。窓の外には夕方の光が残り、遠くの山が薄い紫色に見える。
葉子は図録を膝の上に置き、何度かページをめくっていた。
しばらくすると動きが止まる。
横を見ると、眠っていた。
朝早く起きたせいだろう。窓へ寄りかかった頭が、電車の揺れに合わせて少しずつこちらへ傾く。
次のカーブで、葉子の頭が私の肩へ載った。
今までなら、そのままにしていた。
葉子は電車ですぐ眠る。私の肩を枕にすることも、一度や二度ではない。重いと言いながら、駅へ着くまで支えていた。
今日は、身体が固くなった。
葉子の髪が頬へ触れる。石鹸と、美術館の売店で試した香水の紙の匂いが、わずかに混じっている。
葉子は私とキスをしたいと思っている。
その言葉が頭へ浮かぶ。
眠っている葉子の唇を見そうになり、私は窓の外へ目を向けた。
田んぼと家並みが流れていく。
肩へかかる重みは、以前と何も変わらない。
変わったのは私のほうだった。
葉子が好きだと告げたことで、私は初めて、隣にいる人の体温を意識している。
それを恋だとは、まだ思えない。
ただ、葉子の頭をどかそうとは思わなかった。
町の駅が近づくまで、私は姿勢を変えずに座っていた。
到着を告げる放送が流れる。
「葉子、着くよ」
肩を軽く揺らすと、葉子は目を開けた。
「寝てた?」
「ずっと」
「ごめん。重かった?」
「今さら聞く?」
葉子は髪を整え、図録を鞄へしまった。
立ち上がるとき、少しだけ名残惜しいと感じた。
ホームへ降り、改札を出る。
外はもう暗くなり始めていた。朝より冷たい風が吹き、葉子はコートの前を閉じた。
町の道を並んで歩く。
途中で、私たちの家へ向かう道が分かれる。いつもなら短く手を振り、そのまま別れる場所だった。
今日は葉子が立ち止まった。
「今日はありがとう」
「私も。スパイク選んでくれて」
「楽しかった」
「うん」
葉子は少し迷ったあと、私を見る。
「桜にとっては、デートだった?」
朝から何度も考えてきたことだった。
私は正直に答えた。
「まだ分からない」
葉子は頷いた。
「そっか」
「でも、楽しかった。葉子と行けてよかった」
「それなら十分」
葉子は笑った。
その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。
十分だと言わせてよいのだろうか。
葉子は私の答えを待っている。そのあいだ、自分が望むものを小さくして、私が渡せるものだけで足りると言っている。
「葉子」
「なに?」
「次は、私が美術館に誘ってもいい?」
葉子が目を見開いた。
「桜から?」
「今日、思ったより面白かったから。葉子の説明も聞きたいし」
半分は本当だった。
もう半分は、次も二人で出かける約束が欲しかった。
葉子は嬉しそうに頷いた。
「うん。行く」
「じゃあ、今度」
「それもデート?」
私は少し考えた。
「葉子にとっては」
「桜にとっては?」
「そのとき考える」
葉子は笑った。
「分かった。考えておいて」
別れ道で手を振り、それぞれの家へ向かう。
何度か歩いたあと、私は振り返った。
葉子もこちらを見ていた。
目が合うと、今度は二人とも少し大きく手を振った。
帰宅して、新しいスパイクの箱を開ける。
白地に青い線の入った靴は、店で見たときより明るく見えた。
携帯電話には、葉子から美術館で撮った写真が届いている。入口の前に立つ私と、葉子の影。ガラス扉へ映った二人は、少し離れて並んでいた。
その下に、短い文章が添えられていた。
――今日は半分じゃなくて、一日楽しかった。
私はしばらく画面を見た。
それから、同じだった、と返した。
デートという言葉は使わなかった。
使わなくても、今日がこれまでの休日とは少し違っていたことだけは分かっていた。




