第二章 デートではない休日 四
四
店を出たあと、私は駅へ戻るつもりだった。
スパイクを買うという目的は終わっている。葉子もほかに行きたい場所はないと言っていた。
歩き始めたところで、葉子の鞄から紙が落ちた。
拾い上げると、市立美術館の案内だった。
県内の若手作家を集めた企画展。会期の最終日は今日になっている。
「これ、見たかったの?」
葉子は少し迷ってから頷いた。
「でも、もういいよ」
「何で」
「桜の買い物が終わる時間、分からなかったから。美術館まで行くと帰り遅くなるし」
「最初から言えばよかったのに」
「今日は桜のスパイクを買う日でしょ」
「そんなの一時間で終わったじゃん」
葉子は案内を受け取り、鞄へ戻そうとした。
「本当にいいよ。また別の展示あるから」
「今日までなんでしょ」
「うん。でも」
「行こう」
私は携帯電話で時間を確認した。閉館まで二時間半ある。美術館まではバスで十五分ほどだ。
「間に合うよ」
「桜、絵は退屈じゃない?」
「葉子が説明してくれるなら」
葉子は私を見た。
「説明、長いよ」
「電車の時間までに終わるくらいでお願い」
葉子の顔に、ゆっくり笑みが広がった。
その笑顔を見ただけで、美術館へ行くと決めてよかったと思った。
バス停まで急ぎ、到着した車内へ乗り込む。
休日のバスは混んでいた。二人並んで立ち、揺れるたび吊り革につかまる。葉子の肩が私の腕へ触れた。
私は少しだけ身体を寄せ、後ろを通る人のために場所を空けた。
葉子との距離が近くなる。
朝の電車では、触れることを気にしていた。
今は、葉子が離れないことへ安心している。
美術館へ着くと、葉子は受付を済ませる前から嬉しそうだった。
展示室には、絵画だけでなく、写真や立体作品も並んでいた。
私は美術に詳しくない。
きれいだと思うものはある。何を描いたのか分かる絵と、分からない絵もある。それ以上の見方を知らなかった。
葉子は、一つの作品の前で長く立ち止まる。
古い住宅街を描いた油絵だった。夕方の道に、誰もいない。窓の明かりだけが、いくつか灯っている。
「これ好き?」
聞くと、葉子は頷いた。
「人が描かれてないのに、誰かがいた感じがするから」
「家があるからじゃなくて?」
「それもあるけど、ほら、手前の自転車。前輪だけ少し道へ出てるでしょ。さっき誰かが置いたみたいに見える」
言われて初めて、自転車の存在に気づいた。
葉子は、絵の端にある小さなものまで見ていた。
次の展示室では、何本もの線だけで人物を描いた作品の前に止まった。私には途中の下描きに見えたが、葉子はしばらく動かなかった。
「どこが好きなの」
「ちゃんと描いてないところ」
「ちゃんと描いてないのがいいの?」
「見てる人が足りないところを考えられるから」
葉子は、自分の好きなものを話しているとき、普段より言葉が多くなる。
私は二年間、葉子が美術部にいることを知っていた。展覧会へ出すときには見に行ったし、描き終えた絵を見せてもらったこともある。
でも葉子が何を見て、何を好きだと思うのか、きちんと聞いたことはなかった。
私の知らない葉子が、展示室を進むたびに増えていく。
それは寂しいことではなかった。
もっと見たいと思った。
最後の展示室を出るころには、閉館を知らせる放送が流れていた。
葉子は売店で図録を買った。厚い本を両手で抱え、何度も表紙を眺めている。
「来てよかった?」
聞くと、葉子はすぐに頷いた。
「桜、ありがとう」
「私はついてきただけ」
「それでも。今日、諦めるつもりだったから」
昼間、私がスパイクを選ぶとき、葉子は付き合ってくれた。
その代わりに美術館へ来たのだから、礼を言われるほどではない。そう思ったけれど、葉子が嬉しそうなので、否定するのはやめた。
「じゃあ、今日の後半は葉子のデートってことにしよう」
葉子は笑った。
「前半は?」
「私の買い物」
「それなら、一日全部デートじゃない?」
「何で」
「お互いの行きたいところへ行ったから」
私は言い返せなかった。
葉子は図録を抱えたまま、先に歩き始める。
その背中を追いながら、今日一日を振り返った。
待ち合わせをした。買い物をした。向かい合って昼食を取り、美術館を歩いた。
デートと呼ばなければ、今までにもしてきたことばかりだ。
名前をつけた瞬間に何かが変わるのなら、変わるのは出来事ではなく、私たちの見方なのかもしれなかった。




