第九話 日露戦争(三)
辰次の遺品が届いたのは、二月になってからだった。
小さな包みだった。万年筆が一本と、手帳が一冊。手帳には何も書いていなかった。白紙のまま持っていたらしい。書く暇がなかったのか、書くことが見つからなかったのか。
万年筆のインクは乾いていた。
弥一はそれを自分の荷物の中にしまった。辰次の家族に届けるべきものだが、京都に戻る予定はない。戦争が終わるまで届けられない。
戦争がいつ終わるのかは、壁にも分からなかった。
◇
明治三十八年、二月二十一日。
奉天会戦が始まった。
弥一は宮中の廊下に立っていた。この日から十八日間、侍従武官府の空気が、一度も緩むことはなかった。
◇
──幕僚。
弥一が廊下で聞いた断片を、つなぎ合わせるとこうなる。
日本軍は二十五万。総司令官は大山巌元帥。実際の作戦を動かしているのは児玉源太郎。旅順から解放された乃木の第三軍を右翼に回し、ロシア軍の背後に出て包囲する。
対するロシアは三十四万。クロパトキン大将。数は向こうが上だ。
この作戦には致命的な前提があった。
侍従武官が、声を落として別の武官に言った一言を、弥一は聞いた。
「砲弾が、あと二週間分しかない」
弥一は息を止めた。
二週間。それ以上戦えない。二週間で決着がつかなければ、日本軍は弾切れで止まる。
児玉はそれを知った上で、包囲を仕掛けている。勝つか、弾が尽きるか。その二つに一つの賭けだった。
天皇にこの事実が伝えられたのかどうか、弥一は知らない。侍従武官が奥の間に入るとき、手に持っていたのは薄い書類一枚だった。あの一枚に何が書いてあり、何が書かれていなかったのか。
◇
──陣中。
奉天の戦場がどんな場所だったかを、弥一が知ったのは戦後、帰還した兵から聞いた話による。
だがその話は、弥一の中に石のように残った。
奉天の二月は、氷点下二十度を下回る。
土は凍りついて、スコップが刺さらない。塹壕を掘れない。掘れないから、地面に伏せるしかない。伏せた体の下から冷気が這い上がってくる。指が動かなくなる。引き金が引けなくなる。銃の機関部に油を差しても、油ごと凍る。
ある兵はこう言った。
「夜が怖かった。寝たら死ぬと思った。凍死するんやない。寝てるあいだに露助が来る。起きとかなあかん。でも起きとったら凍える。どっちにしても死ぬんや。それでも朝が来たら嬉しかった。生きとるいうだけで嬉しかった」
別の兵はこう言った。
「砲弾が残り少ないのは、前線にも分かっとった。今日撃てる弾の数が、昨日より減るんや。上から何発と指示が来る。その数が毎日減っていく。十発、八発、五発。五発で一日を持たせろ言われたときは、もう負けるんやないかと思った」
弥一は聞きながら、辰次のことを思った。辰次は旅順で死んだ。奉天にはいなかった。だが辰次が生きていたら、この凍った地面に伏せていたかもしれない。五発で一日を持たせろと言われていたかもしれない。
◇
──御前。
三月に入った。戦闘は二週間を超えていた。弾の期限が迫っている。
弥一は天皇の姿を廊下の隙間から見た。
天皇は椅子に座っていた。机の上に地図が広げてある。侍従武官が何かを説明している。天皇は微動だにしなかった。
だが弥一が見たのは、天皇の右手だった。
机の縁を握っていた。指の関節が白くなっていた。
地図の上の矢印がどう動いているのか、弥一には見えなかった。だが天皇の指が白いということは、地図の上で何かが起きているということだった。
その夜、侍従武官が廊下で別の武官に一言だけ言った。
「乃木が回り込んだ」
三月四日。乃木の第三軍が右翼から迂回を開始した。旅順で兵を使い果たし、補充を受けた軍。足りない兵力で、吹雪の中を歩いている。
◇
三月十日。
侍従武官が走った。
また走った。この建物では走ることは、よほどのことだ。旅順が落ちたときと同じだ。
弥一は壁として立っていた。だが心臓が鳴っていた。
侍従武官が奥の間から出てきた。
今回は、泣いてはいなかった。だが顔が赤かった。
「クロパトキン、退却を命じた」
廊下で、その声を聞いた。
ロシア軍が退いた。三十四万が北へ退いた。
奉天が落ちた。
日本軍の死傷は約七万。戦死だけで一万六千。ロシア側は約九万。合わせて十六万。
この数字を天皇に伝えるとき、侍従武官は最初に何を言ったのだろう。「勝ちました」か。「奉天を占領しました」か。それとも七万という数字が先だったのか。
弥一には分からない。分からないが、天皇の軍服の肩がまた少し余っていることは、翌日確認できた。
◇
だが弥一が宮中で聞いた数字のなかに、戦場とは別の死が混じっていた。
脚気。
足が痺れる。膝に力が入らなくなる。心臓が弱る。ひどくなれば死ぬ。
この病気が、陸軍の兵を大量に倒していた。
弥一は侍従武官府の廊下で、軍医に関する話の断片を聞いた。
「陸軍の脚気患者が二十五万を超えた。死者は二万七千に迫る」
二万七千。
弥一はその数字を聞いて、一瞬、聞き間違いかと思った。日露戦争全体の戦死者が約一万六千だ。脚気の死者はそれを超えている。
敵に殺された兵より、飯に殺された兵のほうが多い。
原因は白米だった。
兵の飯は白い米だ。精白した白米を腹いっぱい食わせる。それが陸軍の誇りだった。農村の貧しい徴兵にとって、白い飯は贅沢だ。軍に入れば白い飯が食える。それが徴兵のせめてもの見返りだった。
だが白米にはビタミンが足りなかった。糠を削り落とした白米だけを食べつづけると、体が壊れる。
海軍はそれを知っていた。海軍軍医の高木兼寛が、十年以上前に麦飯を混ぜることで脚気を劇的に減らしていた。結果は明白だった。海軍では脚気はほぼ消えた。
だが陸軍は麦飯を拒んだ。
陸軍軍医総監の森林太郎──のちの文豪森鷗外──が、「脚気は細菌が原因である」と主張して譲らなかった。麦飯で治るのは偶然だと。科学的に証明されていないと。
海軍が実際に証明した結果を、陸軍が「科学的でない」と退けた。
証拠がある。結果が出ている。目の前で人が治っている。それでも認めない。組織の面子と、軍医総監の権威が、二万七千の命より重かった。
弥一はこの話を聞いて、構造の既視感を覚えた。
届いているのに、届かない。
旅順の虐殺は外国の新聞に出たが、日本の新聞が書かなかった。情報がなかったのではない。あったのに見なかった。
脚気も同じだ。海軍が答えを出している。目の前にある。だが陸軍は見ない。見ることを拒んでいる。
情報が届かないのではなく、届いた情報を受け取らない。
この国の病は、脚気だけではなかった。
◇
──廟堂。
勝った。だが追撃はできなかった。
砲弾が本当に尽きかけていたのだ。ロシア軍は壊滅していない。秩序を保ったまま退いた。
中山家経由で源太が書いてきた手紙に、こうあった。
「政府は早く戦争をやめたがっとるらしい。金がないんや。弾もないんや。このまま続けたら負ける。勝っとるうちにやめなあかん。それが分かっとるのは政府と軍の偉いさんだけで、新聞も町の人も知らんのや」
源太の字はもう、読むのがやっとだった。筆の力がない。最後の行だけ少しだけ太くなっていた。力を入れて書いたのだろう。
「はよ戦争やめてくれ。弥一を返してくれ」
弥一は手紙を懐に入れた。辰次の万年筆の隣に。
◇
──巷。
京都の源太は、奉天の勝利を新聞で聞いた。
近所の若者が読み上げる声は高かった。
「奉天大勝利! 皇軍、露軍を撃破!」
提灯行列の準備が始まっている。町は沸いていた。
源太は縁に座って、空を見ていた。
隣では吉田のおかみさんが洗濯物を干していた。黙っていた。息子の戦死から四か月が過ぎていた。おかみさんは泣かなくなっていた。泣かなくなったことが、源太にはいちばんつらかった。
「吉田さん」
「はい」
「提灯行列、行きますか」
おかみさんは洗濯物を干す手を止めなかった。
「行きません」
それだけだった。
源太は何も言えなかった。
町が勝利で沸いている。その同じ町に、提灯を持たない家がある。万歳を叫ばない家がある。
提灯の明かりは、その家の前だけ通り過ぎていく。
◇
五月二十七日。対馬海峡。
この日の朝、宮中の空気が変わった。
弥一は日の出前から配置についていた。昨夜のうちに、バルチック艦隊が対馬海峡に向かっているという情報が入っていた。
ロシアがヨーロッパから送った本国艦隊だ。七か月かけて三万キロを航海してきた。戦艦八隻を含む三十八隻。これを東郷の連合艦隊が迎え撃つ。
宮中のすべてが、対馬を向いていた。
天皇は朝から奥の間にいた。出てこなかった。侍従武官が出入りするたびに、廊下の空気が張りつめた。
弥一は壁として立っていた。だが足の裏が汗で滑りそうだった。
もしこの海戦に負けたら。
制海権を失う。大陸への補給路が断たれる。二十五万の陸軍が孤立する。日本は終わる。
奉天で勝った意味も、旅順で六万を失った意味も、辰次の死も、全部消える。
弥一は右手が震えるのを、左手で抑えた。
◇
午後、最初の電報が来た。
侍従武官が走った。奥の間に入った。
弥一は廊下で聞こえた一言だけを、死ぬまで忘れなかった。
「敵艦見ユ」
それだけだった。そのあとは沈黙だった。
弥一は立ちつづけた。一時間。二時間。電報が来るたびに侍従武官が走る。出てくる。また走る。
だが中身は弥一には分からなかった。勝っているのか、負けているのか。三笠は浮いているのか。東郷は生きているのか。
何も分からないまま、時間だけが過ぎた。
京都で源太がいつ手紙の返事が来るかを待っているように。吉田のおかみさんが郵便屋を待っていたように。
弥一もまた、ただ待っていた。
壁として。
◇
翌日の午前、結果が届いた。
弥一はその瞬間を、音で覚えている。
廊下の奥で、誰かが息を吸った。大きく吸った。それだけだった。歓声ではなかった。拍手でもなかった。ただ誰かが息を吸って、吐いた。
それで分かった。
勝ったのだ。
あとから届いた詳報を、弥一は侍従武官府の廊下で断片的に聞いた。
東郷は賭けに出ていた。ロシア艦隊の前で連合艦隊を大きく旋回させた。敵前回頭。回頭中は同じ場所を通る。狙われたら終わる。
だが東郷は回った。ロシア艦隊の頭を押さえた。全艦の砲を片舷に集中させた。
三笠の砲術長がのちに語った言葉が、宮中にも流れてきた。
「撃ち始めたとき、敵艦が燃え始めた。甲板に火がついたんやない。船全体が燃えたんです。下瀬の弾が当たると、鉄が燃えるんです」
旗艦クニャージ・スヴォーロフが炎に包まれた。ロジェストヴェンスキー長官が負傷した。指揮が途絶えた。
戦艦オスラービャが沈んだ。アレクサンドル三世が沈んだ。ボロジノが沈んだ。
夜になると駆逐艦と水雷艇が群がった。暗い海を魚雷が走った。
翌朝、残ったロシア艦隊は降伏した。
沈没二十一隻。拿捕七隻。ロシアの戦死四千三百八十。捕虜五千九百十七。ロジェストヴェンスキー自身も捕虜になった。
日本側。沈没は水雷艇三隻のみ。戦死百十七。
海戦史上、百年前のトラファルガー以来の完全勝利だった。
◇
弥一は自室に戻って、畳の上に座った。
勝った。
海も勝った。陸も勝った。旅順も奉天も対馬も勝った。
辰次は死んだ。
吉田のおかみさんの息子は死んだ。
一万五千四百が旅順で死んだ。一万六千が奉天で死んだ。
勝った。
弥一は辰次の万年筆を取り出した。インクの乾いた万年筆を。
紙を広げて、万年筆を紙に当てた。何も出てこなかった。当たり前だ。インクがない。
弥一はしばらくそうしていた。インクのない万年筆で、白い紙の上に、何かを書こうとしていた。
何を書こうとしていたのか、自分でも分からなかった。
◇
京都の源太のもとに号外が届いた。
「日本海海戦大勝利! 東郷大将、敵艦隊を全滅!」
町が揺れた。万歳の声が地鳴りのように響いた。
源太は縁に座って聞いていた。ハナが横にいた。
「勝ったて」ハナが言った。「弥一も、もう帰ってくるんやろか」
「分からん」
「もう勝ったんやろ。帰してくれてもええやないの」
「勝ったからいうて、すぐ帰れるもんやないやろ」
ハナは黙った。源太も黙った。
通りでは提灯行列が始まっていた。子どもが走り回っている。旗を振っている。
吉田のおかみさんの家は、戸が閉まっていた。
第九話 了




