第十話 日比谷焼打
戦争が終わる気配は、宮中の廊下にいれば分かった。
六月に入って、アメリカのルーズベルト大統領が講和の仲介を申し出た。日本はすぐに受けた。
弥一は侍従武官の会話を聞いた。
「全権は小村になる」
外務大臣、小村寿太郎。この男がアメリカのポーツマスに渡って、ロシアと交渉する。
弥一が廊下で感じたのは、安堵ではなかった。
焦りだった。
宮中の全員が焦っていた。侍従武官も、出入りする参謀も、書記官も。笑っている者が一人もいない。勝っている国の中枢が、勝利を喜んでいない。
理由は弥一にも分かっていた。
砲弾は尽きかけている。金はない。兵は疲弊している。ロシアの陸軍はまだ三十万が健在で、本国からシベリア鉄道で増援を送れる。
時間はロシアの味方だ。
一日でも早く止めなければ、勝ちが消える。
◇
──廟堂。
小村寿太郎は七月末にポーツマスに着いた。
相手はセルゲイ・ウィッテ。ロシアの全権。切れ者だった。
弥一が宮中で聞いた断片を重ねると、交渉は最初から苦しかった。
日本が要求したのは三つだった。朝鮮の支配権。満洲の利権。そして賠償金。
ウィッテは最初の二つには応じる姿勢を見せた。だが賠償金だけは拒んだ。
「ロシアは負けていない」
ウィッテはそう言ったという。
旅順は落ちた。奉天は取られた。バルチック艦隊は消えた。それでもロシアは「負けていない」と言った。
弥一はその報告を聞いて、拳を握った。壁が拳を握ってはならない。だが握らずにいられなかった。
辰次が死んだ旅順で、六万が倒れた旅順で、日本が勝ったのに、ロシアは負けていないと言う。
だが宮中の空気は、弥一の怒りとは違うところにあった。
侍従武官のあいだで交わされた言葉は、こうだった。
「賠償金を取れなくても、やむを得んかもしれん」
「国民が納得するだろうか」
「……しないだろうな」
弥一はその二言目を聞いて、背筋が冷えた。
政府は知っている。賠償金を取れないかもしれないと。そしてそれを国民が許さないだろうと。
知っていて、止められない。
止められないのは、国民に本当のことを言っていないからだ。砲弾が残り少ないことを。金庫が空であることを。もう一度大きな会戦をやる体力がないことを。
新聞が書いてきたのは「連戦連勝」だけだ。国民はそれを信じた。旅順も奉天も対馬も勝った。完勝だ。当然、莫大な賠償金を取れるはずだ。日清のときは取れたではないか。
日清の賠償金は二億両だった。今度はもっと大きいはずだ。
国民はそう信じている。
その信仰を、政府が作った。新聞に勝利だけを書かせ、弱さを隠し、強さだけを見せた。
その嘘が、今、政府自身の首を絞めようとしていた。
◇
八月。
交渉が難航しているという報道が出始めた。
京都の源太のもとにも新聞の話が届いた。
「ロシアが賠償金を払わんて言うとるらしいですわ」
近所の若者が読み上げた。源太は縁に座って聞いていた。足はもうほとんど動かない。
「払わんて……あんだけ勝ったのに?」
「そうですわ。旅順も取った。奉天も取った。バルチック艦隊も沈めた。それで払わんいうのは筋が通りませんわ」
若者は怒っていた。源太は黙っていた。
源太は中山家で聞いた話を覚えている。金がない。弾がない。もう戦えない。
それを知っているのは、政府と軍と、ごく一部の宮中の人間だけだ。
この若者は知らない。吉田のおかみさんも知らない。提灯を振った町の人たちも知らない。
知らない人たちが、怒り始めている。
源太はそれが怖かった。禁門の変のときに感じた、あの空気を覚えている。人が怒ると、町が燃える。
◇
九月五日。
ポーツマス条約が調印された。
弥一は宮中でその速報を聞いた。
朝鮮における日本の優越権。遼東半島の租借権。南満洲鉄道の利権。樺太の南半分。
そして賠償金は──なし。
弥一は壁として立っていた。
廊下で侍従武官が目を伏せていた。別の武官がため息をついた。
勝った戦争の講和条約が結ばれた日に、宮中の誰一人として喜んでいなかった。
喜べないのだ。これから何が起きるか、全員が分かっている。
◇
同じ日の午後、東京で集会が開かれた。
日比谷公園。講和条約反対国民大会。
弥一は宮中にいたが、宮城の門の外から聞こえてくる音で、何かが起きていることは分かった。
最初は遠い地鳴りのような音だった。人の声が重なっている。一つ一つの言葉は聞き取れない。ただ、怒りの音がする。
夕方、音が変わった。
ガラスが割れる音がした。遠くで何かが弾ける音がした。そのあとに、叫び声が混じった。
宮城の門衛に詰めていた弥一は、門の隙間から外を見た。
煙が見えた。
宮城の東の方角だ。一筋ではない。あちこちから立ち昇っている。
弥一は煙の匂いを嗅いだ。
知っている匂いだった。
旅順の報告で聞いた、砲弾が街を焼く匂いではない。もっと身近な匂いだ。木が燃えている。家が燃えている。
門の外から、歓声ともつかない叫び声が聞こえた。
「ぶっ壊せ!」
弥一は門の内側に立っていた。門の外で、日本人が日本の街を壊している。
三日前まで万歳を叫んでいた人たちが。
◇
日比谷焼打事件。
弥一があとから知った全容はこうだった。
日比谷公園の集会は数万人に膨れ上がった。講和反対の演説が行われ、群衆は興奮した。警察が公園を封鎖しようとして、衝突が起きた。
群衆は公園を出て、街に流れた。
最初に襲われたのは交番だった。東京中の交番が壊された。焼かれた。
次に国民新聞社が焼かれた。この新聞が講和を支持する社説を書いていたからだ。勝利を報じてきた新聞社が、講和を認めた途端に焼かれる。
内務大臣官邸が焼かれた。
キリスト教会が焼かれた。なぜ教会が焼かれたのか、明確な理由はない。外国への怒りが、手近な外国風の建物に向かったのだろう。
路面電車がひっくり返された。
火は夜通しつづいた。
翌日、戒厳令が敷かれた。
軍が東京の街に出た。
天皇の軍が、天皇の民を鎮めるために出動した。
死者十七人。負傷者五百人以上。逮捕二千人以上。
弥一は宮城の門の内側で、一晩中立っていた。煙の匂いがずっとしていた。
禁門の変のとき、京都が燃えた。源太がそう語ってくれたことがある。あのときは長州と薩摩の戦いで町が焼けた。
今度は違う。
国民が、自分の街を焼いている。
勝ったのに怒っている。勝ったのに足りないと言っている。
そしてその怒りは、正しいのだ。少なくとも彼らが知っている情報の中では、正しい。
あれだけ勝ったのに賠償金がない。ふざけるな。政府は弱腰だ。軍はもっとやれたはずだ。
彼らはそう信じている。砲弾が二週間分しかなかったことを知らない。金庫が空だったことを知らない。あと一戦やったら負けていたかもしれないことを知らない。
知らないのは彼らのせいではない。教えなかった側のせいだ。
弥一は門の内側で、初めてそう思った。
政府は国民に勝利だけを見せた。弱さを隠した。それは戦争を続けるために必要なことだったのかもしれない。だがその代償が、今、煙になって返ってきている。
嘘をつきつづけた国が、嘘の報いを受けている。
そしてこの構造は、これからもっと大きくなる。
弥一にはそれが見えていた。壁は見ているだけだ。だが見えていることが、このときほど苦しいことはなかった。
◇
京都の源太は、焼打の話を近所の若者から聞いた。
「東京が燃えたて。暴動や。講和に怒った人らが街を壊しとる」
源太は咳き込んだ。最近、咳が止まらない。話を聞きながら、何度も咳をした。ハナが背中をさすった。
咳が収まってから、源太はゆっくり言った。
「蛤御門や」
「は?」
「昔、京で同じことがあったんや。帝の取り合いで、門の前で戦になって、町が焼けた。わしは二十七やった」
若者はぽかんとしていた。四十年も前の話だ。
「あのときはな、帝を取り合う侍が町を焼いた。今度は、勝った戦の報酬が足りんいうて、町の人間が町を焼いとる」
源太は庭を見た。崩れかけた塀。ハナが干した洗濯物。吉田のおかみさんの家の閉まった戸。
「焼けるのはな、いつも同じもんや。偉い人の家やない。町や。普通の人間が暮らしとる町や。御所は焼けん。宮城も焼けん。焼けるのは、いつも外や」
若者は何も言わなかった。
源太はまた咳をした。長い咳だった。ハナが水を持ってきた。源太はそれを飲んで、少し落ち着いた。
「わしはな、あの赤ん坊が生まれた夜から、ずっと見てきた。天皇が何もできん時代も、何でもできるようになった時代も。戦に勝って国が広がるのも見た。兵が死ぬのも聞いた」
源太は水の入った茶碗を見つめた。
「分かったことが一つだけある。誰かが嘘をつくと、あとで必ず燃える。何がいつ燃えるかは分からん。けど燃える。必ず燃える」
若者は帰った。ハナは台所に戻った。
源太は一人で縁に座って、京都の空を見ていた。
東京は燃えているらしい。京都は静かだ。虫の声がする。
あの産屋の夜から五十三年。源太は六十八歳になっていた。
◇
弥一は戒厳令が解かれたあと、宮城の外を歩いた。
交番の焼け跡があった。壁だけが残っている。路面電車の残骸が道を塞いでいた。焦げた新聞紙が風に転がっている。
その新聞の見出しが読めた。
「奉天大勝利」
勝利を報じた新聞が、勝利に怒った群衆に焼かれた街に、散らばっている。
弥一は立ち止まった。
辰次の万年筆が懐にある。
辰次は何のために死んだのか。旅順の六万は何のために倒れたのか。勝つためだ。勝つために死んだ。
勝った。
そして街が燃えた。
勝利のために死んだ者と、勝利に怒って街を焼いた者。どちらも同じ国の人間で、同じ天皇の臣民だ。
弥一は焼け跡の中に立って、宮城の方を振り返った。
門の向こうに天皇がいる。この街が燃えたことを、天皇はどこまで知っているのだろう。六万の兵が倒れたことを、どこまで感じているのだろう。
壁は聞けない。壁は問えない。
弥一はただ、焼け跡を見ていた。
禁門の変で京が焼けたとき、源太は二十七だった。日比谷で東京が焼けたとき、弥一は三十四だった。
父と息子が、四十年の距離を挟んで、同じものを見ている。
焼けるのは、いつも外だ。
第十話 了




