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第七話 日露戦争(一)


 日清の戦から戻った弥一(やいち)は、しばらく眠れない夜を過ごしていた。

 それを変えたのは、中山家だった。

 源太(げんた)は中山家の屋敷勤めをやめていなかった。祐宮(さちのみや)が天皇になってから、中山家の格(かく)は上がった。天皇の母方の実家(じっか)だ。忠能(ただやす)は維新の功臣(こうしん)として明治政府の中枢(ちゅうすう)に入り、屋敷の出入りにも宮中の人間が増えた。源太は下働きとして残りつづけ、御所の空気を断片(だんぺん)的に吸える立場にいた。

 明治二十九年の春、忠能の孫にあたる中山家の若い当主が、源太を呼んだ。

「おまえの倅(せがれ)、軍におったな」

「はい。日清で歩兵をやりました」

「近衛(このえ)に入れてやろう」

 近衛師団(このえしだん)。天皇を直接護衛(ごえい)する部隊だ。普通の徴兵兵が配属されることはまずない。だが中山家の口利きなら話は別だった。

 弥一は近衛歩兵(このえほへい)として再び軍に入った。二十五歳だった。

 配属先は皇居(こうきょ)の警備(けいび)だった。

◇

 近衛に入って、弥一の世界は変わった。

 まず、天皇を見た。

 遠くからだった。御料車(ごりょうしゃ)に乗り込む後ろ姿。軍服を着た中年の男。背は高くない。だが背筋が真っ直ぐだった。

 源太から聞いていた「あの赤ん坊」が、ここにいる。

 弥一は声を出さなかった。近衛兵は天皇の前で声を出してはならない。目を合わせてもならない。存在を消して、壁のようにそこにいる。

 壁だからこそ、見える。

 大臣が来る。軍の将官(しょうかん)が来る。侍従武官(じじゅうぶかん)が廊下を早足で歩く。電報(でんぽう)が届く。表情が変わる。

 弥一は壁として、それを見ていた。

◇

 明治三十三年。北清事変(ほくしんじへん)。

 清で義和団(ぎわだん)という民衆の集団が外国人を襲(おそ)い、各国の公使館(こうしかん)が北京で包囲された。日本を含む八カ国が連合軍を送って鎮圧(ちんあつ)した。

 日本は最大の陸兵を出した。八千人。他国の兵を合わせた総数が約二万だから、四割(わり)が日本兵だ。

 このとき名を上げたのが柴五郎(しばごろう)という陸軍中佐(ちゅうさ)だった。公使館区域の防衛を指揮し、五十五日間の籠城(ろうじょう)を耐(た)え抜いた。各国の外交官が柴を絶賛(ぜっさん)した。「日本軍は規律(きりつ)正しく、勇敢(ゆうかん)で、信頼できる」と。

 宮中にもその報告が上がった。弥一は侍従武官が天皇に奏上(そうじょう)する前に、控(ひか)えの間(ま)で断片を聞いた。

「列強(れっきょう)と肩を並べた」

 その言葉が、廊下のあちこちで囁(ささや)かれていた。

 日本は列強と同じ側に立って戦った。同じ戦場で、同じ敵を倒した。もう極東(きょくとう)の小国ではない。

 弥一はそのとき、別のことを考えていた。

 列強と肩を並べたということは、列強と利害(りがい)がぶつかるということでもある。

 そして利害がいちばんぶつかる相手は、遼東半島(りょうとうはんとう)を取り上げたあの国だった。

◇

 ロシアは満洲(まんしゅう)から退(ひ)かなかった。

 北清事変のどさくさに大兵力を満洲に送り込み、事変が終わっても撤兵(てっぺい)しなかった。それどころか、日本が三国干渉で返した遼東半島に要塞(ようさい)を築いている。旅順(りょじゅん)に太平洋艦隊(たいへいようかんたい)を置き、大連(だいれん)を商港(しょうこう)にした。

 日清戦争で日本の兵が血を流して取った土地を、ロシアが横から奪(うば)った。

 臥薪嘗胆(がしんしょうたん)。あの四文字が、十年をかけてゆっくりと国を膨(ふく)らませていた。

 日清の賠償金で造った軍艦が、続々と完成していた。

 戦艦(せんかん)六隻。三笠(みかさ)、朝日(あさひ)、敷島(しきしま)、初瀬(はつせ)、八島(やしま)、富士(ふじ)。いずれも排水量(はいすいりょう)一万二千トン級、三十センチ連装砲塔(れんそうほうとう)を備える。英国で造られた。黄海で定遠(ていえん)の装甲に苦しんだ記憶が、この六隻を生んだ。

 装甲巡洋艦も六隻。浅間(あさま)、常磐(ときわ)、出雲(いずも)、磐手(いわて)、八雲(やくも)、吾妻(あづま)。戦艦六隻と合わせて六・六艦隊(ろくろくかんたい)と呼ばれた。さらに開戦直前、イタリアから春日(かすが)と日進(にっしん)の二隻を買い足している。

 陸軍は師団を十三に増やした。砲兵と工兵を充実させた。すべて、来るべき日のために。

 だが軍艦と師団だけでは足りなかった。ロシアと戦うなら、背中を守ってくれる味方がいる。

 明治三十五年、日英同盟(にちえいどうめい)が結ばれた。

 世界最強の海軍を持つイギリスと、極東の新興国が手を組んだ。弥一は宮中で、この同盟の意味を将校たちの会話から断片的に学んだ。

 ロシアにはフランスという同盟国がいる。日本がロシアと戦えば、フランスがロシアを助けに来るかもしれない。だが日英同盟があれば、フランスは動けない。イギリスを敵に回すことになるからだ。

 つまりこの同盟は、日本がロシアと一対一で戦える環境を作るものだった。

 しかもイギリスの軍港は世界じゅうにある。日本の艦隊が燃料や修理を必要としたとき、イギリスの港が使える。ロシアのバルチック艦隊が極東に来ようとしても、途中のイギリスの港には入れない。七か月もかけてアフリカを回るしかなくなる。

 六・六艦隊の軍艦はイギリスで造られた。戦費の外債もロンドンで調達する。日英同盟がなければ、日露戦争は始めることすらできなかった。

 弥一はこの同盟のことを聞いて、戊辰(ぼしん)の錦旗(にしきばた)を思い出した。旗がある側が勝つ。イギリスという旗が日本の側にある。

 来るべき日。

 宮中では誰もその言葉を口にしなかった。だが弥一は壁として、空気を読んでいた。

 戦争になる。ロシアと。

 問題は、勝てるかどうかだった。

◇

 明治三十七年二月四日、御前会議(ごぜんかいぎ)が開かれた。

 弥一は会議の部屋には入れない。だが侍従武官府(じじゅうぶかんふ)の廊下に立っていたとき、部屋から出てきた将官(しょうかん)の顔を見た。

 青かった。

 誰の顔も青かった。拳(こぶし)を握りしめている者がいた。目が赤い者がいた。

 開戦が決まったのだと、弥一は理解した。

 二月六日、日本はロシアに国交断絶(こっこうだんぜつ)を通告した。

 二月八日、夜。連合艦隊の駆逐艦(くちくかん)十隻が旅順港(りょじゅんこう)外のロシア艦隊に奇襲(きしゅう)をかけた。

 魚雷(ぎょらい)が三本命中した。戦艦ツェサレーヴィチ、戦艦レトヴィザン、巡洋艦パルラーダが大破(たいは)。

 宣戦布告(せんせんふこく)は二月十日だ。攻撃のほうが二日早い。

 弥一は宮中でその速報を聞いた。侍従武官が早足で天皇のもとへ向かう背中を、壁として見送った。

 日露戦争(にちろせんそう)が始まった。

◇

 翌日、もうひとつの戦闘があった。

 仁川沖海戦(じんせんおきかいせん)。朝鮮の仁川港(じんせんこう)に停泊(ていはく)していたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを、日本の巡洋艦六隻が攻撃した。

 ヴァリャーグは脱出を試みたが、集中砲火を浴びて港に引き返し、自沈した。コレーエツも爆破された。

 日本は黄海と朝鮮沿岸の制海権を確保した。これで陸軍を大陸に送れる。

◇

 陸の戦争は朝鮮半島から始まった。

 第一軍、黒木為楨(くろきためもと)大将が率いる四万二千が鴨緑江(おうりょくこう)を渡った。四月三十日。

 対するロシア軍は東部シベリア軍の一部、およそ二万。ザスーリチ中将(ちゅうじょう)が守る。

 鴨緑江の戦いは二日で決まった。日本軍は夜陰(やいん)に乗じて渡河(とか)し、砲兵が対岸のロシア陣地を叩いた。ロシア軍は後退した。日本側の死傷(ししょう)は約千、ロシア側は約二千四百。

 近代において、日本がヨーロッパの大国の正規軍に勝った初めての戦闘だった。

 宮中に報告が届いたとき、弥一は侍従武官の声を聞いた。

「鴨緑江を渡りました」

 天皇が何と答えたかは聞こえなかった。壁は声を聞くが、奥の間の言葉は届かない。

 だが廊下に出てきた侍従武官の足取りは、少しだけ軽かった。

◇

 五月、南山(なんざん)の戦い。

 第二軍、奥保鞏(おくやすかた)大将の指揮下、三万六千が遼東半島を南下して旅順への道を切り開こうとした。南山はその途上にある丘だ。

 ロシアは三千の兵で丘を要塞化していた。塹壕(ざんごう)を掘り、機関銃(きかんじゅう)を据(す)え、鉄条網(てつじょうもう)を張った。

 機関銃。

 弥一はその名前を宮中の報告で初めて聞いた。一分間に数百発を撃てる銃。一人の兵士が引き金を引いているだけで、突撃してくる歩兵の列をなぎ倒す。

 南山の日本軍は正面から丘を攻めた。

 結果は凄惨(せいさん)だった。第一波が倒れた。第二波が倒れた。第三波も。死体が斜面(しゃめん)に重なっていった。

 最終的に日本は丘を取った。だが死傷者は四千三百を超えた。守っていたロシア兵三千のうち死傷は約千百。攻める側が四倍の損害を受けた。

 この数字が宮中に届いたとき、弥一は侍従武官の顔を見た。

 顔色が変わっていた。

 四千三百。たった一つの丘を取るのに、四千三百人が倒れた。日清の平壌の戦い全体の死傷が七百だったことを思えば、桁(けた)が違う。

 弥一は壁として立ちながら、思った。

 機関銃が戦争を変えた。突撃すれば死ぬ。だが突撃しなければ丘は取れない。この矛盾(むじゅん)が、これから何千人を殺すのか。

 その答えは、旅順で出ることになる。

◇

 源太は京都にいた。

 六十七歳。もう屋敷の仕事は軽いものしかできない。だが中山家を離れなかったおかげで、宮中から降りてくる話の断片を聞くことができた。

 忠能はすでに亡くなっていたが、中山家の者は今も宮中と行き来している。時おり、誰かが漏(も)らす一言がある。

「大変なことになっとるらしい」

 そのひと言で、源太には十分だった。

 源太はハナと二人で暮らしている。弥一は東京の宮中にいて、手紙はめったに来ない。書けないことが多いのだろう。近衛の兵が宮中で見聞きしたことを外に漏らすのは禁じられている。

 だから源太は新聞を読んだ。近所の若い者に読んでもらった。

 新聞は威勢(いせい)がよかった。「皇軍連勝(こうぐんれんしょう)」「露軍敗走(ろぐんはいそう)」。見出しはいつも勝っている。

 だが源太は西南戦争の新聞を覚えていた。日清の新聞も覚えていた。新聞はいつも勝っている側を大きく書く。負けている部分は小さく書くか、書かない。

 南山の四千三百は、新聞のどこに書いてあったか。源太には分からなかった。読んでもらった若者も、そこは読み飛ばしたのかもしれない。

◇

 六月、旅順の包囲(ほうい)が始まった。

 第三軍、乃木希典(のぎまれすけ)大将。兵力五万一千。

 旅順要塞(りょじゅんようさい)にはロシア軍四万四千が立てこもっている。永久築城(えいきゅうちくじょう)された近代要塞だ。コンクリートと鋼鉄(こうてつ)で固められた砲台が山の上に並び、塹壕(ざんごう)と鉄条網と機関銃が斜面を覆(おお)っている。南山の比(ひ)ではなかった。

 ここを落とさなければ、旅順港のロシア艦隊が背後から日本の海上輸送を脅(おびや)かしつづける。

 落とさねばならない。

 だが、どうやって。

 その問いの答えが出るまでに、何万という若者が死ぬことになる。

 弥一は東京の宮中で、届く電報の数字を壁として聞いていた。

 源太は京都の小さな家で、新聞の読み聞かせを待っていた。

 父と子のあいだに、旅順という名前が横たわっていた。

第七話 了

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