第四話 旗が関ヶ原を繰り返した
慶応二年の暮れ、孝明天皇が死んだ。
天然痘だと発表された。
源太は台所でその知らせを聞いた。屋敷中が静まり返っていた。女中が泣いていた。忠能さまは御所に駆けつけたまま三日戻らなかった。
佐吉は何も言わなかった。ただ一度だけ、誰にも聞こえない声で呟いた。
「三十六やぞ」
三十六歳。若すぎる死だった。
噂は当然のように流れた。毒を盛られたのではないか。攘夷を叫ぶ天皇が邪魔になった者がいたのではないか。
源太はその噂を佐吉に聞いた。佐吉は首を振った。
「真相なんか俺らには分からん。分かるのは結果だけや」
結果。
十五歳の少年が、天皇になった。
祐宮。睦仁。あの夜、借金の産屋で泣いていた赤ん坊が、日本の頂点に立った。
源太は三十歳だった。あの子が生まれた夜から、十五年が経っていた。
◇
翌年。慶応三年の秋。
将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返した。大政奉還という。
二百六十年つづいた幕府が、自分から降りた。
──降りたように見えた。
だが実際は降りていなかった。政権は返しても、兵も金も土地も徳川のものだ。名目を捨てて実を取る腹だった。
それを許さなかったのが薩摩と長州だ。
十二月、王政復古の大号令。天皇の名で幕府を完全に潰すと宣言した。慶喜の官位を剥ぎ、領地を召し上げると言い渡した。
十五歳の天皇がそれを自分の意志で決めたのか。
源太にはもちろん分からない。誰にも分からなかった。分かっていたのはたぶん、薩摩の西郷と大久保、長州の木戸、それに岩倉の数人だけだ。
天皇の言葉は、天皇が考えた言葉とは限らない。
これもまた、九十三年間変わらない構造のひとつだった。
◇
慶応四年、正月三日。
鳥羽と伏見で戦が始まった。
源太はそのとき京都にいた。中山家の使いで伏見街道の近くまで荷を届けに出ていた。
最初に聞こえたのは、遠くの銃声だった。
禁門の変のときと同じ音だ。乾いた音が連続する。だが今回は数が違った。何百発、何千発と重なって、地鳴りのように聞こえる。
源太は荷を放り出して走った。どこに逃げればいいのか分からなかった。道を行く人々もみな走っていた。方角が分からない。銃声があちこちから聞こえて、どちらが安全なのか判断がつかない。
辻で倒れている男を見た。着物が赤く染まっている。侍だった。どちらの側かは分からない。顔が土に埋まっていて、動かなかった。
源太は初めて、人が戦で死んでいるのを見た。
吐きそうになった。足が動かなくなった。道の端にしゃがみこんで、頭を抱えた。
◇
戦は三日で決まった。
決めたのは、旗だった。
錦の御旗。
赤地に金の菊と桐の紋を描いた旗で、これを掲げた軍が天皇の軍である。天皇の軍に逆らう者は賊になる。朝敵になる。
鳥羽伏見の初日、薩長の軍にこの旗が立った。
それを見た瞬間、幕府側の藩がつぎつぎと戦うのをやめた。寝返った藩もあった。一万五千の幕府軍が、五千の薩長軍に負けた。数で勝っていたのに負けた。
旗一枚で、ひっくり返った。
源太はあとからそれを聞いて、背筋が寒くなった。
二百六十年前の関ヶ原と同じだ。あのときも、戦の最中に旗がどちらにつくかで勝敗が決まった。
旗の持ち主である天皇は、戦場にいない。刀も振るわない。銃も撃たない。
なのに、旗だけが戦場を支配している。
「なあ佐吉さん」源太は聞いた。「あの旗は、誰が出したんです」
「岩倉さまやろな」
「帝が出せと言うたんですか」
「さあな」
佐吉は庭を見ていた。
「十五の子どもにそんなこと決められるか。周りの大人が決めたんやろ。帝の名前を使って」
天皇の名前で旗を出す。天皇の名前で戦をする。天皇の名前で勝つ。
天皇自身は何も決めていない。
それでも、天皇の軍が勝った。天皇の名を使った者が勝った。
◇
鳥羽伏見のあと、源太の生活が変わった。
中山家は天皇の外戚だ。新政府の側の家である。そして新政府は兵がいくらでも必要だった。
二月、源太は呼ばれた。
「荷駄隊に入れ」
断れるような言い方ではなかった。荷駄隊というのは、兵糧や弾薬を運ぶ部隊だ。戦う兵ではない。だが戦場にはいく。
「銃は持たされるんですか」
「持てるか、おまえに」
持てない。持ったこともない。
「なら荷を担げ。それがおまえの戦や」
佐吉が予言した通りだった。侍でない者が、侍の戦のために使われる。
◇
源太は東へ向かった。
江戸に向かう官軍の後ろを、米俵と弾薬箱を背負って歩いた。
街道の両側に、田んぼが広がっている。農民が畦道から軍を見ていた。歓迎する者もいた。怯えた顔で見ている者もいた。
源太は歩きながら思った。
この行列の先頭に、錦の御旗がある。あの旗のおかげで、行く先々の藩が道を開ける。抵抗する者はほとんどいない。旗を見ただけで降参する。
便利なものだ、と思った。
そして、怖いものだ、とも思った。
あの旗に逆らえない。誰も逆らえない。逆らったら賊になる。賊になったら殺される。
旗の持ち主である天皇は、この街道を歩いていない。御所の奥にいる。十五歳の少年が、何千人もの兵を動かしている。いや、動かしているのは周りの大人だ。少年の名前を使って。
源太の背中で弾薬箱が揺れた。この弾が誰かを殺す。殺すのは天皇の名においてだ。
だが天皇はこの弾を見たことがない。
◇
江戸は戦わずに開城した。
勝海舟と西郷隆盛の会談で、江戸城が無血で明け渡された。百万の民が焼け出される寸前だったと、あとで源太は聞いた。
だが戦はまだ終わらなかった。
幕府に最後まで従う者たちが、北へ逃れていく。会津。庄内。箱館。新政府軍はそれを追った。
源太は会津まで歩いた。
会津の城下で、焼けた家を見た。京都の禁門の変のあとと同じ景色だった。焦げた柱。散らばった日用品。座り込んだ女。泣いている子ども。
勝った側が官軍で、負けた側が賊軍。
その違いを決めたのは旗だ。旗の名義人は天皇だ。天皇は会津を見ていない。
源太は会津で、佐吉に手紙を書こうとした。だが字があまり書けない。中間は読み書きを習わない。筆を持って、何も書けないまま、紙を畳んだ。
代わりに声に出して言った。誰にも聞こえない声で。
「焼けるのは、やっぱり外ですわ。佐吉さん」
◇
明治二年、箱館の五稜郭が落ちて、戊辰戦争は終わった。
源太は京都に帰った。三十二歳になっていた。
中山家の屋敷は変わっていなかった。塀は崩れたままだし、屋根もまだ雨漏りする。だが佐吉が門の前で待っていた。
「生きて帰ったか」
「帰りました」
「何か変わったか」
源太はしばらく考えた。
「俺は何も変わっとりません。でも国が変わりました」
天皇は京都から東京へ移った。祐宮はもう祐宮ではない。明治天皇だ。十七歳で、東の都にいる。
源太がもう一度あの顔を見ることは、たぶんない。
だが源太の背中で揺れた弾薬箱は、あの少年の名前で戦場に届けられた。殺す側も殺される側も、あの少年の名前のもとで死んだ。
旗と、名前。
それだけで国が動く仕組みが、この戦争で完成した。
これから先、この仕組みは七十七年間動きつづける。
止める者は、最後まで現れなかった。
第四話 了




