第三話 京が焼けた日、あの子は御所の中にいた
十年が経った。
源太は二十五になっていた。中間のまま歳だけ重ねて、相変わらず中山家で桶を運んだり庭を掃いたりしている。
変わったのは、京都のほうだった。
町が荒れていた。
あの黒船は数日で去った。だが置いていった波紋は消えなかった。あれから十年のあいだに、日本じゅうの侍が京都に集まってきた。長州、薩摩、土佐、水戸。それぞれが刀を差して、それぞれの正義を叫んでいる。
攘夷だ。いや開国だ。幕府を倒せ。いや守れ。
そして、人が斬られるようになった。
夜道で斬られる。橋の上で斬られる。旅籠で寝ているところを襲われる。「天誅」と書いた紙が死体のそばに置いてある。天の罰という意味だ。
源太は町に出るのが怖くなった。
買い物に行くだけで、血の匂いがする路地を通らなければならない。ある朝、三条の橋のたもとに生首がさらされているのを見た。何をした人かは知らない。源太は走って屋敷に帰った。
「佐吉さん。京はどうなるんですか」
佐吉は五十を過ぎていた。白髪が増えた。
「分からん。分からんけどな、源太。天子さまの取り合いになっとるんや」
「取り合い」
「みんな、帝の味方やと言いたいんや。帝の側におるほうが正しいことになる。だから京に来る。だから斬り合う」
二百年間、何の力もなかった天皇。
それが今、全員が欲しがるものになっている。
力がないからこそ、旗印になった。自分では何も決められない人だからこそ、誰もが「帝の御意志」を自分の都合のいいように語れる。
源太はそのとき初めて、佐吉が十年前に言った言葉を思い出した。
──あの子が関係ない世の中は、もう終わったんやろな。
あの子。祐宮。
もう御所に入っている。親王宣下を受けて睦仁の名を賜り、二年前に立太子して皇太子になった。十二歳だ。
源太が最後に見たのは、産屋の隙間から覗いた一瞬きりだった。あの拳ほどの顔がどんな少年になったのか、中間の源太が知る術はなかった。
◇
元治元年、七月十九日。
朝から空気がおかしかった。
源太が水を汲みに出ようとしたら、佐吉に止められた。
「出るな」
「なんでです」
「長州が動くかもしれん」
長州藩。攘夷をいちばん強く叫んでいた連中だ。去年、京都から追い出された。それが兵を連れて戻ってきたという噂が、昨夜から流れていた。
目的はひとつ。御所だ。
帝を取り戻す。帝のそばに戻って、自分たちこそが帝の味方だと天下に示す。
そのために、武器を持って御所の門を攻める。
嘘のような話だった。
だが嘘ではなかった。
◇
昼前、音がした。
最初は遠雷かと思った。空を見たが、雲はなかった。晴れている。
もう一度。今度はもっと近い。
銃声だった。
源太は生まれて初めて銃の音を聞いた。乾いた音が続けざまに鳴る。一発、二発ではない。何十発も重なって、途切れなく響いている。
そこに、もっと重い音が混じった。
大砲だ。
地面が揺れた気がした。屋敷の戸がガタガタと鳴る。奥で女中が悲鳴を上げた。
「蛤御門や」佐吉が言った。顔が白かった。「御所の門で撃ち合うとる」
御所の門で。
あの子がいる御所の門で、大砲が鳴っている。
源太は庭に飛び出した。屋根の向こう、御所のある方角に、煙が立ち昇っていた。黒い煙だった。
◇
戦闘は一日で終わった。
長州藩は負けた。薩摩と会津の兵が御所を守り、長州の兵を追い返した。
だが、それで終わりではなかった。
火が出た。
戦闘の最中に上がった火が、風に乗って町に広がった。京都の町家は木と紙でできている。一軒燃えれば隣も燃える。
中山家の屋敷から見える空が、夕方には赤くなった。夕焼けではない。町が燃えている赤だった。
「どんどん焼け」と、あとで人々はそう呼んだ。
二万七千戸が焼けた。
源太は屋敷の屋根に上がって、燃える京都を見た。あちこちで火柱が立っている。煙の向こうに御所の屋根がかすかに見えた。御所そのものは焼けていない。門の前で戦って、町が焼けて、御所だけが残った。
あの中に、十二歳の皇太子がいる。
砲声を聞いたのだろうか。煙の匂いがしたのだろうか。怖かったのだろうか。
源太には分からない。御所の中のことは、永遠に分からない。
ただ、屋根の上から見えた光景だけが、目に焼きついて離れなかった。
帝を守るために人が死んで、帝のために町が焼けた。
帝自身は、何もしていない。何もできない。
◇
三日後、源太は焼け跡を歩いた。
買い出しに行かなければ、屋敷の人間が飢える。
焼けた町は静かだった。黒く焦げた柱が並んでいる。壁はない。家があった場所に、燃え残った鍋や茶碗が転がっている。
道端に女が座っていた。子どもを抱いている。二人とも煤で真っ黒だった。女は源太を見たが、何も言わなかった。
源太も何も言えなかった。
この人たちの家を焼いたのは、帝の取り合いだ。
帝を守ると言った側も、帝を取り戻すと言った側も、この女の家のことなど考えてはいなかった。
源太は鼻の奥が熱くなった。
怒りなのか悲しみなのか、自分でも分からなかった。
◇
屋敷に戻ると、佐吉が縁に座って煙管をふかしていた。
「どうやった」
「ひどいもんです」
「そうか」
しばらく煙管の音だけがした。
「源太。おまえ、この先どうする」
「どうするって……ここで働きつづけますよ。ほかに行くとこなんかないですし」
「そうやない」佐吉は煙管を膝の上に置いた。「戦が来るで。もっとでかいのが」
「もっと」
「今日のは前触れや。長州は負けたけど、終わらへん。幕府もぐらついとる。どっちかが倒れるまでやる。そうなったらな、おまえみたいな若いもんは使われる」
「使われるって、戦にですか。俺は侍やないですよ」
「侍やないから使われるんや」
佐吉の目は笑っていなかった。
「足軽は昔から、おまえみたいなもんがやらされてきた。侍の下で走って、侍の代わりに死ぬ仕事や」
源太は何も言い返せなかった。
焼け跡で見た女の顔が浮かんだ。あの女も、誰かの戦のために家を失った。源太も同じだ。自分では何も決められない場所にいて、誰かが始めた戦に巻き込まれていく。
天皇と、同じだ。
──いや、違う。天皇は御所の中にいる。御所は焼けなかった。
焼けるのは、いつも外だ。
◇
その年の暮れ、源太は佐吉にひとつだけ聞いた。
「佐吉さん。あの子は──祐宮さまは、町が焼けたこと、知ってるんですかね」
佐吉は長いこと考えてから答えた。
「知らされてへんやろな」
「なんでです」
「知らせてどうなる。十二のお子に、おまえのせいで町が焼けました、言うんか。言うてどうなる」
源太は黙った。
「それにな」佐吉は煙管の灰を落とした。「知らせんほうが楽や。上の人間にとっては」
知らせない。
その言葉が、源太の中に残った。
このときはまだ、それがどれほど大きな意味を持つか、分かっていなかった。御所に届く情報と、届かない情報。その差が何を生むのか。
九十三年のうちの、最初の十二年が終わろうとしていた。
第三話 了




