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第二話 黒い船が関係ないはずだった


 祐宮さちのみやは、よく泣く子だった。

 夜中に泣く。朝に泣く。湯を使わせても泣く。乳母うばが抱いても泣きやまないことがある。

 源太は産屋を取り壊す作業をしながら、奥の部屋から聞こえてくるその声を毎日のように聞いていた。

 生まれてから半年ほど経っていた。赤黒かった肌は白くなり、閉じていた目は開いて、こぶしほどだった顔も少しだけ丸くなった。

 源太が直接その顔を見たのは、産屋の夜の一度きりだ。中間ちゅうげんの身分では、皇子おうじのいる部屋に近づくことは許されない。

 だがこの屋敷にいる限り、泣き声だけは毎日聞こえる。

 あの声を聞くたびに、源太は思う。

 よく泣くということは、元気だということだ。

 元気なら、育つかもしれない。

 嘉永かえい六年、六月。

 その知らせが京都に届いたのは、し暑い夏の盛りだった。

 異国いこくの軍艦が四隻せき浦賀うらがに来た。

 源太が最初に聞いたのは、台所でめしを食っているときだった。屋敷に出入りする商人あきんどが、息を切らして話していた。

「黒い船やて。けむりを吐いて走るらしい。がないのに動くんや」

「帆がなくて動く船なんかあるかいな」

「あるから来とるんやろ」

 蒸気船じょうきせんという言葉を、源太はそのとき初めて聞いた。意味は分からなかった。煙を吐いて走る船。想像しようとしたが、うまくいかない。

「で、何しに来たんです」佐吉さきちが聞いた。

「開国せえ、言うとるらしい」

「開国」

「港を開いて商売させろと。断ったらいくさになるかもしれん、て江戸えどは大騒ぎや」

 源太ははしを止めた。

 戦。

 その言葉には現実味がなかった。源太が生まれてから、日本のどこでも戦は起きていない。源太の父も祖父も戦を知らない。二百年以上、この国では誰も戦をしていないのだ。

 だから怖いというより、不思議だった。

 外国が来て、戦になるかもしれない。

 それは源太にとって、かみなりが降ってくるのと同じくらい、自分とは関係のない話に思えた。

 ところが、関係のない話ではなかった。

 数日後、屋敷の空気が変わった。

 当主の中山忠能なかやまただやす御所ごしょから戻ってきたとき、その顔が青かったのを源太は見ている。

 佐吉に聞いた。

「何があったんです」

「幕府が、朝廷ちょうていに相談してきよった」

「……え?」

「黒船のことで、どうしたらええかと聞いてきたんや。朝廷に」

 源太は意味が分からなかった。

 政治は幕府がやるものだ。朝廷に相談するなど、二百年以上なかったことだと佐吉は言った。

「それ、えらいことなんですか」

 佐吉は腕を組んで、長いこと黙っていた。

「えらいことや」

 そう言った。

「幕府が自分だけで決められへんいうことやろ。それを天下に見せてしもたいうことや」

 源太にはまだよく分からなかった。

 だが屋敷の公家たちが、急にそわそわし始めたのは分かった。今まで政治の話などしなかった人たちが、廊下ろうかで声をひそめて何かを話し合っている。

 二百年間、何もしなくてよかった人たちが、急に呼ばれた。

 それがどういうことか、源太はまだ分からない。だが佐吉の顔を見て、これはただごとではないのだろうと思った。

 御所の奥では、孝明天皇こうめいてんのうが怒っていた。

 源太がそれを知ったのは、忠能のそばに仕えるさむらいかられ聞いた話による。

 孝明天皇は、異国が嫌いだった。

 嫌い、という言い方では足りないかもしれない。異国のものを近づけたくなかった。異国と関わること自体が、この国をけがすと考えていた。攘夷じょうい。外のてきを追い払うべきだという思想だ。

みかどは、追い払えとおっしゃっとる」

 侍はそう言った。

「追い払えって……。あの黒い船をですか」

「さよう」

「どうやって」

 侍は答えなかった。答えられなかったのだと思う。

 蒸気で動く軍艦を、どうやって追い払うのか。大砲たいほうはあるのか。そもそも戦って勝てるのか。

 天皇にはそれを判断する情報がなかった。幕府から届くのは文書もんじょだけだ。黒船が実際にどれほど大きいのか、大砲が何門もんあるのか、天皇は見たことがない。見に行くこともできない。御所の外に出られないのだから。

 情報がないまま、怒っている。

 正しいか間違っているかではない。それしかできないのだ。

 源太は夕暮れの庭で、水をいていた。

 奥の部屋から、祐宮の泣き声が聞こえてくる。今日もよく泣いている。

 佐吉が横に来て、同じように水を撒き始めた。

「なあ源太。おかしいと思わへんか」

「何がです」

「幕府は二百年、朝廷のことなんか気にせんとまつりごとをやってきた。天皇は関係ないもんやった」

「はい」

「それがな、黒い船が四隻来ただけで、急に関係あるようになった」

 佐吉は水桶の底をのぞき込んだ。

「つまりな。幕府が関係ないことにしとっただけで、もともと関係あったんや。天皇は」

 源太は庭に目をやった。崩れたままのへい。雨漏りの染みがある屋根。給金は相変わらず遅れている。

 この貧しい屋敷の奥で泣いている赤ん坊が、日本に関係がある。

 そう言われても、まだ実感がなかった。

「佐吉さん」

「ん」

「あの子は、どうなるんですかね」

「分からん」

 佐吉は水を撒く手を止めなかった。

「分からんけどな。あの子が関係ない世の中は、もう終わったんやろな」

 奥の部屋で、祐宮がまた泣いた。

 嘉永六年の夏だった。

 源太はこのとき、まだ何も分かっていなかった。

 黒船が来たことで何が変わるのか。幕府が朝廷に頭を下げたことが、この先どこにつながるのか。

 十年後、この国で戦が始まる。

 二百年ぶりの、本物の戦だ。

 そのとき源太は二十代の半ばになっていて、刀ではなくじゅうを持たされることになる。

 だがそれは、もう少し先の話だ。

第二話 了

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