第二話 黒い船が関係ないはずだった
祐宮は、よく泣く子だった。
夜中に泣く。朝に泣く。湯を使わせても泣く。乳母が抱いても泣きやまないことがある。
源太は産屋を取り壊す作業をしながら、奥の部屋から聞こえてくるその声を毎日のように聞いていた。
生まれてから半年ほど経っていた。赤黒かった肌は白くなり、閉じていた目は開いて、拳ほどだった顔も少しだけ丸くなった。
源太が直接その顔を見たのは、産屋の夜の一度きりだ。中間の身分では、皇子のいる部屋に近づくことは許されない。
だがこの屋敷にいる限り、泣き声だけは毎日聞こえる。
あの声を聞くたびに、源太は思う。
よく泣くということは、元気だということだ。
元気なら、育つかもしれない。
◇
嘉永六年、六月。
その知らせが京都に届いたのは、蒸し暑い夏の盛りだった。
異国の軍艦が四隻、浦賀に来た。
源太が最初に聞いたのは、台所で飯を食っているときだった。屋敷に出入りする商人が、息を切らして話していた。
「黒い船やて。煙を吐いて走るらしい。帆がないのに動くんや」
「帆がなくて動く船なんかあるかいな」
「あるから来とるんやろ」
蒸気船という言葉を、源太はそのとき初めて聞いた。意味は分からなかった。煙を吐いて走る船。想像しようとしたが、うまくいかない。
「で、何しに来たんです」佐吉が聞いた。
「開国せえ、言うとるらしい」
「開国」
「港を開いて商売させろと。断ったら戦になるかもしれん、て江戸は大騒ぎや」
源太は箸を止めた。
戦。
その言葉には現実味がなかった。源太が生まれてから、日本のどこでも戦は起きていない。源太の父も祖父も戦を知らない。二百年以上、この国では誰も戦をしていないのだ。
だから怖いというより、不思議だった。
外国が来て、戦になるかもしれない。
それは源太にとって、雷が降ってくるのと同じくらい、自分とは関係のない話に思えた。
◇
ところが、関係のない話ではなかった。
数日後、屋敷の空気が変わった。
当主の中山忠能が御所から戻ってきたとき、その顔が青かったのを源太は見ている。
佐吉に聞いた。
「何があったんです」
「幕府が、朝廷に相談してきよった」
「……え?」
「黒船のことで、どうしたらええかと聞いてきたんや。朝廷に」
源太は意味が分からなかった。
政治は幕府がやるものだ。朝廷に相談するなど、二百年以上なかったことだと佐吉は言った。
「それ、えらいことなんですか」
佐吉は腕を組んで、長いこと黙っていた。
「えらいことや」
そう言った。
「幕府が自分だけで決められへんいうことやろ。それを天下に見せてしもたいうことや」
源太にはまだよく分からなかった。
だが屋敷の公家たちが、急にそわそわし始めたのは分かった。今まで政治の話などしなかった人たちが、廊下で声をひそめて何かを話し合っている。
二百年間、何もしなくてよかった人たちが、急に呼ばれた。
それがどういうことか、源太はまだ分からない。だが佐吉の顔を見て、これはただごとではないのだろうと思った。
◇
御所の奥では、孝明天皇が怒っていた。
源太がそれを知ったのは、忠能のそばに仕える侍から漏れ聞いた話による。
孝明天皇は、異国が嫌いだった。
嫌い、という言い方では足りないかもしれない。異国のものを近づけたくなかった。異国と関わること自体が、この国を穢すと考えていた。攘夷。外の敵を追い払うべきだという思想だ。
「帝は、追い払えとおっしゃっとる」
侍はそう言った。
「追い払えって……。あの黒い船をですか」
「さよう」
「どうやって」
侍は答えなかった。答えられなかったのだと思う。
蒸気で動く軍艦を、どうやって追い払うのか。大砲はあるのか。そもそも戦って勝てるのか。
天皇にはそれを判断する情報がなかった。幕府から届くのは文書だけだ。黒船が実際にどれほど大きいのか、大砲が何門あるのか、天皇は見たことがない。見に行くこともできない。御所の外に出られないのだから。
情報がないまま、怒っている。
正しいか間違っているかではない。それしかできないのだ。
◇
源太は夕暮れの庭で、水を撒いていた。
奥の部屋から、祐宮の泣き声が聞こえてくる。今日もよく泣いている。
佐吉が横に来て、同じように水を撒き始めた。
「なあ源太。おかしいと思わへんか」
「何がです」
「幕府は二百年、朝廷のことなんか気にせんと政をやってきた。天皇は関係ないもんやった」
「はい」
「それがな、黒い船が四隻来ただけで、急に関係あるようになった」
佐吉は水桶の底を覗き込んだ。
「つまりな。幕府が関係ないことにしとっただけで、もともと関係あったんや。天皇は」
源太は庭に目をやった。崩れたままの塀。雨漏りの染みがある屋根。給金は相変わらず遅れている。
この貧しい屋敷の奥で泣いている赤ん坊が、日本に関係がある。
そう言われても、まだ実感がなかった。
「佐吉さん」
「ん」
「あの子は、どうなるんですかね」
「分からん」
佐吉は水を撒く手を止めなかった。
「分からんけどな。あの子が関係ない世の中は、もう終わったんやろな」
奥の部屋で、祐宮がまた泣いた。
嘉永六年の夏だった。
◇
源太はこのとき、まだ何も分かっていなかった。
黒船が来たことで何が変わるのか。幕府が朝廷に頭を下げたことが、この先どこにつながるのか。
十年後、この国で戦が始まる。
二百年ぶりの、本物の戦だ。
そのとき源太は二十代の半ばになっていて、刀ではなく銃を持たされることになる。
だがそれは、もう少し先の話だ。
第二話 了




