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第一話 その赤ん坊は、借金で建てた小屋で生まれた


 みやこの九月の夜は、もう冬のにおいがする。

 柏木源太かしわぎげんたおけいっぱいの湯を両腕で抱えて、暗い庭を走っていた。

 こぼすな。こぼすな。

 十五の中間ちゅうげんにとって、湯をこぼすのはなぐられる理由になる。中間というのはさむらいですらない召使いのことで、この屋敷では人間の一番下だ。刀は差せない。名字みょうじだって、本当は名乗れない身分である。

 裸足はだしの足が冷たい土を蹴る。桶の湯が揺れて、指にかかった。熱い。

 なんでこんな夜中に湯がいるんだ──と思いかけて、源太は思い出した。

 今夜、この屋敷で子どもが生まれるのだ。

 ここは中山家なかやまけ。京都の公家くげの屋敷である。

 公家というのは天皇に仕える貴族きぞくのことだが、立派なのは名前だけだった。屋根には雨漏りのみがある。庭のへいは去年の台風で崩れたまま放ってある。源太たち使用人への給金きゅうきんは、もう三月も遅れている。

 中山家の禄高ろくだか二百石にひゃっこくほどだ。田舎の大名だいみょうが家来一人に出す程度の金で、一つの家をまるごと回している。

 だが中山家だけが貧しいわけではなかった。この時代、朝廷ちょうていそのものに力がない。

 国を治めているのは江戸えど徳川幕府とくがわばくふだ。天皇は京都の御所ごしょに暮らしている。暮らしている、というより閉じ込められている。御所の外に出ることを幕府が認めていないのだ。軍はない。ぜいを取る権限もない。

 天皇とは何か。

 京の奥に静かに座っている、とてもとうといが何の力もない人。

 それが二百年以上つづいた常識だった。源太もそう思っていたし、佐吉さきちも、この屋敷の誰もが、そう思って暮らしていた。

 庭の奥に、まだ木の香りがする小屋があった。

 先月、源太も材木ざいもくかついで建てるのを手伝った。産屋うぶやという。子を産むためだけに建てて、産み終わったら取り壊す。そういう決まりだった。

「あの産屋な」

 背中から声がした。振り向くと佐吉が立っている。四十過ぎの中間で、この屋敷で一番の古株ふるかぶだ。

「借金で建てたんや」

「借金」

「先月、門のとこで金貸かねかしが怒鳴どなっとったやろ。覚えてへんか。あれや。あの金で建てた」

 源太は黙って産屋を見た。

 貴族の家が金を借りて小屋を建てる。しかもその小屋は、天皇の子を産むために建てた。

 笑い話のようだが、笑える者はこの屋敷にいなかった。

 産屋の中にいるのは中山慶子なかやまよしこ。この屋敷の当主とうしゅである中山忠能なかやまただやすの娘で、年は十六。源太より一つ上なだけだ。

 慶子は権典侍ごんのてんじとして御所にがっていた。天皇のそば近くに仕える女官にょかんくらいである。そして、今の天皇──孝明天皇こうめいてんのうの子をごもった。

 皇子おうじは母の実家じっかで産んで、幼いうちはそこで育てる。古くからの決まりだった。だから中山家は、金がなくても産屋を建てなければならない。なければ借りる。借りてでも建てる。

「なあ源太」

 佐吉の声が低くなった。

「みんな祈っとるんや。今夜は」

「そりゃそうでしょう。無事に生まれますようにって」

「ちゃう」

 佐吉は産屋のほうを見ていた。障子しょうじの向こうであかりが揺れている。

「生まれたあと、育つかどうかや」

 源太は口をつぐんだ。

 孝明天皇にはすでに子がいた。だが育たなかった。この時代、赤ん坊は驚くほどあっけなく死ぬ。御所の奥であっても、それは変わらない。

跡継あとつぎがおらんようになったら、どうなる」

 佐吉は源太の顔を見た。

「困るのはお公家さんだけやないで。日本じゅうが困る」

 源太にはぴんとこなかった。天皇がいなくても政治は幕府がやっている。何かが変わるとは思えない。

 そう口に出しかけて、やめた。佐吉の横顔がいつになく厳しかったからだ。

 湯を届け終えて、やることがなくなった。

 源太はえんはしに腰を下ろして、産屋のほうをながめた。障子に人の影がいくつも映っては動く。ときおり低い声が聞こえるが、何を言っているのかまでは分からない。

 夜が深くなっていく。虫の声が遠い。

 ひざを抱えたまま、源太はうとうとした。

 どれくらい時間がたったか分からない。

 ──声がした。

 細い。かすれている。ねこが鳴いたのかと思った。

 違った。

 赤ん坊の泣き声だった。

「源太! 湯、もういっぺん持ってき!」

 怒鳴られて飛び起きた。桶を抱えて走った。

 産屋の前で足が止まった。戸が少しだけ開いている。

 のぞくつもりはなかった。

 でも見えた。ほんの一瞬だった。

 白い布の中に、赤黒くて、しわだらけで、信じられないくらい小さなものがあった。

 こぶしほどの顔。目はまだ開いていない。何も見えていないし、何も分かっていない。自分がどこにいるのかも。自分が何者なのかも。

 ちいさい──。

 源太の頭にかんだのは、その一語だけだった。

 戸が閉まった。

 その子は祐宮さちのみやと名づけられた。

 のちの明治天皇めいじてんのうである。

 だがこの夜、そのことを知っている人間は屋敷に一人もいない。

 嘉永かえい五年九月二十二日。西洋のこよみでは一八五二年十一月三日。

 それから八か月が過ぎた。

 浦賀うらがの沖合に、黒い船が四隻せき現れる。アメリカ合衆国の軍艦ぐんかんだった。

 日本は、そこから坂道を転がるように変わっていく。

 幕府が倒れる。京の奥に座っていただけの少年が、この国のてっぺんにえられる。軍を持つ。戦争をする。勝つ。もう一度戦争をする。また勝つ。

 勝ちつづける。

 ──この夜から九十三年後。

 祐宮の孫が、マイクの前に立つ。

 戦争が終わったことを、自分の声で、国民に伝えるために。

 だが、それはまだずっと先の話だ。

 今はただ、京都の貧しい公家屋敷の、借金で建てた産屋の中で、赤ん坊が一人泣いている。それだけである。

 庭の隅では十五の中間が、からになった桶を抱えたままぼうのように突っ立っていた。

 これから自分が何を見ることになるのか。

 柏木源太もまた、まるで知らなかった。

第一話 了

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