第一話 その赤ん坊は、借金で建てた小屋で生まれた
京の九月の夜は、もう冬の匂いがする。
柏木源太は桶いっぱいの湯を両腕で抱えて、暗い庭を走っていた。
こぼすな。こぼすな。
十五の中間にとって、湯をこぼすのは殴られる理由になる。中間というのは侍ですらない召使いのことで、この屋敷では人間の一番下だ。刀は差せない。名字だって、本当は名乗れない身分である。
裸足の足が冷たい土を蹴る。桶の湯が揺れて、指にかかった。熱い。
なんでこんな夜中に湯がいるんだ──と思いかけて、源太は思い出した。
今夜、この屋敷で子どもが生まれるのだ。
◇
ここは中山家。京都の公家の屋敷である。
公家というのは天皇に仕える貴族のことだが、立派なのは名前だけだった。屋根には雨漏りの染みがある。庭の塀は去年の台風で崩れたまま放ってある。源太たち使用人への給金は、もう三月も遅れている。
中山家の禄高は二百石ほどだ。田舎の大名が家来一人に出す程度の金で、一つの家をまるごと回している。
だが中山家だけが貧しいわけではなかった。この時代、朝廷そのものに力がない。
国を治めているのは江戸の徳川幕府だ。天皇は京都の御所に暮らしている。暮らしている、というより閉じ込められている。御所の外に出ることを幕府が認めていないのだ。軍はない。税を取る権限もない。
天皇とは何か。
京の奥に静かに座っている、とても尊いが何の力もない人。
それが二百年以上つづいた常識だった。源太もそう思っていたし、佐吉も、この屋敷の誰もが、そう思って暮らしていた。
◇
庭の奥に、まだ木の香りがする小屋があった。
先月、源太も材木を担いで建てるのを手伝った。産屋という。子を産むためだけに建てて、産み終わったら取り壊す。そういう決まりだった。
「あの産屋な」
背中から声がした。振り向くと佐吉が立っている。四十過ぎの中間で、この屋敷で一番の古株だ。
「借金で建てたんや」
「借金」
「先月、門のとこで金貸しが怒鳴っとったやろ。覚えてへんか。あれや。あの金で建てた」
源太は黙って産屋を見た。
貴族の家が金を借りて小屋を建てる。しかもその小屋は、天皇の子を産むために建てた。
笑い話のようだが、笑える者はこの屋敷にいなかった。
◇
産屋の中にいるのは中山慶子。この屋敷の当主である中山忠能の娘で、年は十六。源太より一つ上なだけだ。
慶子は権典侍として御所に上がっていた。天皇のそば近くに仕える女官の位である。そして、今の天皇──孝明天皇の子を身ごもった。
皇子は母の実家で産んで、幼いうちはそこで育てる。古くからの決まりだった。だから中山家は、金がなくても産屋を建てなければならない。なければ借りる。借りてでも建てる。
「なあ源太」
佐吉の声が低くなった。
「みんな祈っとるんや。今夜は」
「そりゃそうでしょう。無事に生まれますようにって」
「ちゃう」
佐吉は産屋のほうを見ていた。障子の向こうで灯りが揺れている。
「生まれたあと、育つかどうかや」
源太は口をつぐんだ。
孝明天皇にはすでに子がいた。だが育たなかった。この時代、赤ん坊は驚くほどあっけなく死ぬ。御所の奥であっても、それは変わらない。
「跡継ぎがおらんようになったら、どうなる」
佐吉は源太の顔を見た。
「困るのはお公家さんだけやないで。日本じゅうが困る」
源太にはぴんとこなかった。天皇がいなくても政治は幕府がやっている。何かが変わるとは思えない。
そう口に出しかけて、やめた。佐吉の横顔がいつになく厳しかったからだ。
◇
湯を届け終えて、やることがなくなった。
源太は縁の端に腰を下ろして、産屋のほうを眺めた。障子に人の影がいくつも映っては動く。ときおり低い声が聞こえるが、何を言っているのかまでは分からない。
夜が深くなっていく。虫の声が遠い。
膝を抱えたまま、源太はうとうとした。
どれくらい時間がたったか分からない。
──声がした。
細い。かすれている。猫が鳴いたのかと思った。
違った。
赤ん坊の泣き声だった。
◇
「源太! 湯、もういっぺん持ってき!」
怒鳴られて飛び起きた。桶を抱えて走った。
産屋の前で足が止まった。戸が少しだけ開いている。
覗くつもりはなかった。
でも見えた。ほんの一瞬だった。
白い布の中に、赤黒くて、しわだらけで、信じられないくらい小さなものがあった。
拳ほどの顔。目はまだ開いていない。何も見えていないし、何も分かっていない。自分がどこにいるのかも。自分が何者なのかも。
ちいさい──。
源太の頭に浮かんだのは、その一語だけだった。
戸が閉まった。
◇
その子は祐宮と名づけられた。
のちの明治天皇である。
だがこの夜、そのことを知っている人間は屋敷に一人もいない。
嘉永五年九月二十二日。西洋の暦では一八五二年十一月三日。
◇
それから八か月が過ぎた。
浦賀の沖合に、黒い船が四隻現れる。アメリカ合衆国の軍艦だった。
日本は、そこから坂道を転がるように変わっていく。
幕府が倒れる。京の奥に座っていただけの少年が、この国のてっぺんに据えられる。軍を持つ。戦争をする。勝つ。もう一度戦争をする。また勝つ。
勝ちつづける。
──この夜から九十三年後。
祐宮の孫が、マイクの前に立つ。
戦争が終わったことを、自分の声で、国民に伝えるために。
◇
だが、それはまだずっと先の話だ。
今はただ、京都の貧しい公家屋敷の、借金で建てた産屋の中で、赤ん坊が一人泣いている。それだけである。
庭の隅では十五の中間が、空になった桶を抱えたまま棒のように突っ立っていた。
これから自分が何を見ることになるのか。
柏木源太もまた、まるで知らなかった。
第一話 了




