第二十六話 玉音放送
昭和二十年八月。
修は南方の基地にいた。三十四歳になっていた。
広島と長崎の報告は届いていた。新型爆弾。一発で街が消える。
だが修の基地では、まだ戦争がつづいていた。飯は足りない。弾薬も足りない。蚊が多い。マラリアの熱が出たり引いたりする。
修は毎朝、自分が生きていることを確認するのが習慣になっていた。目を開ける。天井がある。息ができる。手足が動く。
生きている。
弥一が最後の手紙に書いた言葉が、毎朝、頭の中で鳴った。
──見届けてくれ。この戦争がどう終わるか。
◇
──御前。
修はこのとき宮中にいない。弥一ももういない。
だが修がのちに知った宮中の出来事を、ここに記す。弥一の代わりに。壁がいなくなった御前の記録を、修は戦後、断片的に集めて繋ぎ合わせた。
昭和二十年八月、首相は鈴木貫太郎だった。
修はその名前を聞いたとき、息が止まった。
鈴木貫太郎。二二六事件で撃たれた男だ。頭と胸に銃弾を受けて、妻のたかに守られて、死の淵から生き還った男だ。弥一が「穏やかな目をした人」と言っていた男だ。
あのとき死にかけた男が、九年後、日本の最後の戦時首相になっている。
運命は、ときどき辻褄を合わせにくる。
◇
八月九日、御前会議が開かれた。
広島に新型爆弾が落ちたのが六日。ソ連が参戦したのが九日。長崎に二発目が落ちたのも九日。
三つの破局が、三日間に重なった。
御前会議では意見が割れた。
ポツダム宣言を受け入れるか。受け入れるなら、条件をつけるか。
陸軍大臣の阿南惟幾は本土決戦を主張した。一億玉砕。国民すべてが死ぬまで戦う。
外務大臣の東郷茂徳は即時受諾を主張した。これ以上戦えば国が消える。
意見は三対三で割れた。
鈴木が立ち上がった。
鈴木はこう言った。
「意見の一致を見ることができません。まことに畏れ多いことでありますが、聖断を仰ぎたいと存じます」
聖断。天皇の判断を求める。
鈴木は知っていた。天皇が自ら判断を下すことがどれほど異例かを。田中義一のとき怒って、怒るなと言われたことを。二二六で声を出したのが、あの日限りだったことを。
だがもう他に方法がなかった。
三対三で割れた会議を動かせるのは、天皇だけだった。
天皇が三度目の意志を示す時が来た。
◇
天皇が口を開いた。
修がのちに記録から読んだ天皇の言葉は、こうだった。
「自分は外務大臣の意見に賛成である」
受諾する。戦争を終わらせる。
天皇は続けた。
「国民が戦争で斃れていくのを、これ以上見ることは忍びない。自分の身はどうなってもよい」
修はこの言葉を読んだとき、弥一のことを思い出した。
弥一が宮中の廊下で見つづけた天皇。軍服の肩が余っていく天皇。「兵は、どれほど死んだ」と問うた天皇。二二六で「反乱軍である」と声を上げた天皇。
その天皇が、三度目に声を上げた。
一度目は怒りだった。田中を叱った。
二度目も怒りだった。反乱軍を断じた。
三度目は、違った。
三度目は、止めるための声だった。
機械が壊れる日が来た。弥一が予言した通りだった。天皇が声を出すのは機械が壊れるときだと。
機械は壊れた。天皇が自分の手で止めた。
九十三年間、動きつづけた機械を。
◇
だが止まったはずの機械の中で、最後の歯車が軋んだ。
八月十四日の夜。
陸軍の若い将校たちが宮城を占拠しようとした。
宮城事件。
天皇は「聖断」のあと、自らの声でラジオ放送を行うことを決めた。その録音盤がNHKに渡される前に奪い、放送を阻止しようとした。
戦争を終わらせたくない者たちがいた。降伏は天皇の真意ではない。君側の奸が天皇を惑わせているのだ。だから録音を奪い、放送を止めれば、戦争はつづけられる。
二二六と同じ論理だった。天皇の名前で、天皇の意志に逆らう。天皇を「救う」と称して、天皇が止めようとしたものを動かしつづけようとする。
宮城の近衛師団長、森赳中将が殺された。偽の命令書が作られた。一時、宮城は反乱軍に占拠された。
だが録音盤は見つからなかった。宮内省の職員が隠していた。
壁の中の誰かが、最後の仕事をした。
弥一がいたら、その壁の一人だっただろうか。修にはそう思えた。
反乱は夜明けまでに鎮圧された。首謀者は自決した。
録音盤は無事だった。
◇
昭和二十年八月十五日。正午。
修は南方の基地で、兵たちとともにラジオの前に集められた。
暑い日だった。蝉が鳴いていた。空は青かった。
ラジオが鳴った。雑音が混じっている。聞き取りにくい。
そして声が流れた。
高い声だった。独特の抑揚があった。文語体の言葉が、ラジオの雑音の向こうから届いた。
「朕、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み……」
天皇の声だった。
修は生まれて初めて、天皇の声を聞いた。
弥一は宮中の壁として四十年間、天皇の声をほとんど聞けなかった。二二六の日にだけ、はっきりと聞いた。
修は壁ではない。南方の基地の砂の上に立って、ラジオの前で、天皇の声を聞いている。
言葉の意味は、すぐには分からなかった。文語体が難しすぎた。周りの兵も同じだった。首をかしげている者がいた。
放送が終わった。
しばらく沈黙があった。
小隊長が言った。
「……負けたんや」
誰かが膝をついた。誰かが泣き始めた。誰かが空を見上げたまま動かなくなった。
修は立っていた。
立ったまま、考えていた。
あの赤ん坊が声を出した。
嘉永五年の秋、借金で建てた産屋で泣いた赤ん坊。源太が桶を抱えて走った夜の赤ん坊。拳ほどの顔。目はまだ開いていなかった。
あの赤ん坊ではない。あの赤ん坊の孫だ。だが同じ血が、九十三年の時間を渡って、ラジオの向こうで声を出した。
戦争が終わったと言っている。
もうこれ以上、人を死なせたくないと言っている。
源太が見た一代目の天皇は、何もできなかった。京の御所から出られなかった。
弥一が見た二代目の天皇は、笑うことはできたが、歴史から降ろされた。
修が聞いた三代目の天皇は、声を出すことができた。ただし三度しか出せなかった。一度目は怒り。二度目も怒り。三度目は、降伏。
三度目の声で、九十三年が終わった。
◇
修は兵舎に戻って、引き出しを開けた。
松田の手紙。弥一の最後の手紙。キヨからの訃報。
その紙の束を、修は手に取った。
弥一の懐にあった辰次の万年筆と源太の手紙は、東京のキヨが守っている。
修はいつか東京に帰る。帰って、全部を受け取る。三代ぶんの紙と万年筆を。
そのとき、修は何を思うのだろう。何を言うのだろう。
源太は最後に何か言いかけて、聞き取れなかった。弥一も最後に何か言いかけて、聞き取れなかった。
修は生きている。まだ声が出る。
だが何を言えばいいのか、まだ分からなかった。
空は青かった。蝉は鳴いていた。戦争は終わった。
終わったが、まだ何も終わっていなかった。
第二十六話 了




