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第二十六話 玉音放送


 昭和二十年八月。

 おさむは南方の基地にいた。三十四歳になっていた。

 広島と長崎の報告は届いていた。新型爆弾。一発で街が消える。

 だが修の基地では、まだ戦争がつづいていた。飯は足りない。弾薬も足りない。蚊が多い。マラリアの熱が出たり引いたりする。

 修は毎朝、自分が生きていることを確認するのが習慣になっていた。目を開ける。天井がある。息ができる。手足が動く。

 生きている。

 弥一やいちが最後の手紙に書いた言葉が、毎朝、頭の中で鳴った。

 ──見届けてくれ。この戦争がどう終わるか。

 ──御前ごぜん

 修はこのとき宮中にいない。弥一ももういない。

 だが修がのちに知った宮中の出来事を、ここに記す。弥一の代わりに。壁がいなくなった御前の記録を、修は戦後、断片的に集めてつなぎ合わせた。

 昭和二十年八月、首相は鈴木貫太郎すずきかんたろうだった。

 修はその名前を聞いたとき、息が止まった。

 鈴木貫太郎。二二六事件で撃たれた男だ。頭と胸に銃弾を受けて、妻のたかに守られて、死のふちから生きかえった男だ。弥一が「穏やかな目をした人」と言っていた男だ。

 あのとき死にかけた男が、九年後、日本の最後の戦時首相になっている。

 運命は、ときどき辻褄つじつまを合わせにくる。

 八月九日、御前会議が開かれた。

 広島に新型爆弾が落ちたのが六日。ソ連が参戦したのが九日。長崎に二発目が落ちたのも九日。

 三つの破局が、三日間に重なった。

 御前会議では意見が割れた。

 ポツダム宣言を受け入れるか。受け入れるなら、条件をつけるか。

 陸軍大臣の阿南惟幾あなみこれちかは本土決戦を主張した。一億玉砕いちおくぎょくさい。国民すべてが死ぬまで戦う。

 外務大臣の東郷茂徳とうごうしげのり即時受諾じゅだくを主張した。これ以上戦えば国が消える。

 意見は三対三で割れた。

 鈴木が立ち上がった。

 鈴木はこう言った。

「意見の一致を見ることができません。まことにおそおおいことでありますが、聖断せいだんあおぎたいと存じます」

 聖断。天皇の判断を求める。

 鈴木は知っていた。天皇が自ら判断を下すことがどれほど異例いれいかを。田中義一のとき怒って、怒るなと言われたことを。二二六で声を出したのが、あの日限りだったことを。

 だがもう他に方法がなかった。

 三対三で割れた会議を動かせるのは、天皇だけだった。

 天皇が三度目の意志を示す時が来た。

 天皇が口を開いた。

 修がのちに記録から読んだ天皇の言葉は、こうだった。

「自分は外務大臣の意見に賛成である」

 受諾する。戦争を終わらせる。

 天皇は続けた。

「国民が戦争でたおれていくのを、これ以上見ることはしのびない。自分の身はどうなってもよい」

 修はこの言葉を読んだとき、弥一のことを思い出した。

 弥一が宮中の廊下で見つづけた天皇。軍服の肩が余っていく天皇。「兵は、どれほど死んだ」と問うた天皇。二二六で「反乱軍である」と声を上げた天皇。

 その天皇が、三度目に声を上げた。

 一度目は怒りだった。田中を叱った。

 二度目も怒りだった。反乱軍を断じた。

 三度目は、違った。

 三度目は、止めるための声だった。

 機械が壊れる日が来た。弥一が予言した通りだった。天皇が声を出すのは機械が壊れるときだと。

 機械は壊れた。天皇が自分の手で止めた。

 九十三年間、動きつづけた機械を。

 だが止まったはずの機械の中で、最後の歯車はぐるまきしんだ。

 八月十四日の夜。

 陸軍の若い将校たちが宮城きゅうじょうを占拠しようとした。

 宮城事件きゅうじょうじけん

 天皇は「聖断」のあと、自らの声でラジオ放送を行うことを決めた。その録音盤ろくおんばんがNHKに渡される前に奪い、放送を阻止そししようとした。

 戦争を終わらせたくない者たちがいた。降伏は天皇の真意ではない。君側くんそくかんが天皇をまどわせているのだ。だから録音を奪い、放送を止めれば、戦争はつづけられる。

 二二六と同じ論理だった。天皇の名前で、天皇の意志に逆らう。天皇を「救う」と称して、天皇が止めようとしたものを動かしつづけようとする。

 宮城の近衛師団長このえしだんちょう森赳もりたけし中将が殺された。にせの命令書が作られた。一時、宮城は反乱軍に占拠された。

 だが録音盤は見つからなかった。宮内省の職員が隠していた。

 壁の中の誰かが、最後の仕事をした。

 弥一がいたら、その壁の一人だっただろうか。修にはそう思えた。

 反乱は夜明けまでに鎮圧ちんあつされた。首謀者しゅぼうしゃは自決した。

 録音盤は無事だった。

 昭和二十年八月十五日。正午。

 修は南方の基地で、兵たちとともにラジオの前に集められた。

 暑い日だった。せみが鳴いていた。空は青かった。

 ラジオが鳴った。雑音が混じっている。聞き取りにくい。

 そして声が流れた。

 高い声だった。独特の抑揚よくようがあった。文語体ぶんごたいの言葉が、ラジオの雑音の向こうから届いた。

ちん、深く世界の大勢たいせいと帝国の現状とにかんがみ……」

 天皇の声だった。

 修は生まれて初めて、天皇の声を聞いた。

 弥一は宮中の壁として四十年間、天皇の声をほとんど聞けなかった。二二六の日にだけ、はっきりと聞いた。

 修は壁ではない。南方の基地の砂の上に立って、ラジオの前で、天皇の声を聞いている。

 言葉の意味は、すぐには分からなかった。文語体が難しすぎた。周りの兵も同じだった。首をかしげている者がいた。

 放送が終わった。

 しばらく沈黙があった。

 小隊長が言った。

「……負けたんや」

 誰かがひざをついた。誰かが泣き始めた。誰かが空を見上げたまま動かなくなった。

 修は立っていた。

 立ったまま、考えていた。

 あの赤ん坊が声を出した。

 嘉永五年の秋、借金で建てた産屋うぶやで泣いた赤ん坊。源太げんたおけを抱えて走った夜の赤ん坊。こぶしほどの顔。目はまだ開いていなかった。

 あの赤ん坊ではない。あの赤ん坊の孫だ。だが同じ血が、九十三年の時間を渡って、ラジオの向こうで声を出した。

 戦争が終わったと言っている。

 もうこれ以上、人を死なせたくないと言っている。

 源太が見た一代目の天皇は、何もできなかった。京の御所から出られなかった。

 弥一が見た二代目の天皇は、笑うことはできたが、歴史から降ろされた。

 修が聞いた三代目の天皇は、声を出すことができた。ただし三度しか出せなかった。一度目は怒り。二度目も怒り。三度目は、降伏。

 三度目の声で、九十三年が終わった。

 修は兵舎に戻って、引き出しを開けた。

 松田の手紙。弥一の最後の手紙。キヨからの訃報。

 その紙の束を、修は手に取った。

 弥一の懐にあった辰次の万年筆と源太の手紙は、東京のキヨが守っている。

 修はいつか東京に帰る。帰って、全部を受け取る。三代ぶんの紙と万年筆を。

 そのとき、修は何を思うのだろう。何を言うのだろう。

 源太は最後に何か言いかけて、聞き取れなかった。弥一も最後に何か言いかけて、聞き取れなかった。

 修は生きている。まだ声が出る。

 だが何を言えばいいのか、まだ分からなかった。

 空は青かった。蝉は鳴いていた。戦争は終わった。

 終わったが、まだ何も終わっていなかった。

第二十六話 了

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