表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/28

第二十五話 インパール・サイパン・東京・沖縄・広島


 ここから先、壊れる速度が上がる。

 弥一が生きていたころは、戦争のあいだに季節があった。手紙を待つ時間があった。提灯行列のあとに静けさがあった。

 弥一が死んでから、時間の刻みが変わった。

 破局はきょくが重なる。がなくなる。一つの悲報を飲み込む前に次が来る。

 おさむはそれを、南方の基地で体ごと浴びた。

 昭和十九年三月。インパール作戦。

 ビルマから国境を越えてインドに侵攻しんこうする。目標はインド北東部のインパール。ここを押さえれば、連合国の援蒋えんしょうルートを完全に断てる。

 作戦を立案りつあんし、押し通したのは牟田口廉也むたぐちれんや中将だった。第十五軍司令官。

 修はインパールにはいなかった。だが南方の将校のあいだで、作戦開始前から不穏ふおんな話が回っていた。

「牟田口中将の補給計画がひどいらしい」

「どうひどいんです」

「牛を連れていくと言っとる」

「牛」

「三万頭の牛と水牛を兵と一緒に歩かせて、途中でほふって食糧にするんやと。ジンギスカン作戦と呼んどるらしい」

 修は最初、冗談だと思った。

 冗談ではなかった。

 インパールへの道は密林みつりんと山岳地帯だ。川がある。がけがある。雨季うきになれば道が泥に沈む。そこを牛に荷を載せて歩かせ、途中で殺して食う。

 牛は山道を登れなかった。川を渡れなかった。砲撃で逃げた。死んだ。腐った。

 食糧にするはずの牛が、食糧にならなかった。

 兵は飢えた。

 作戦は最初から破綻はたんしていた。

 三個師団を投入した。第十五師団、第三十一師団、第三十三師団。総兵力約九万。

 だが補給ほきゅうが続かなかった。牛がだめなら他に何があるか。何もなかった。弾薬も食糧も、後方から運ぶ道がない。雨季が来て道が消えた。

 イギリス軍は航空補給こうくうほきゅうを受けていた。空から物資が降ってくる。日本軍には空からは何も降ってこなかった。爆弾だけが降ってきた。

 師団長しだんちょうたちが反対した。

 第三十一師団長の佐藤幸徳さとうこうとく中将は、補給が来ないことに激怒し、独断で撤退を命じた。命令違反(いはんだ。軍法会議ぐんぽうかいぎものだ。

 だが佐藤は言った。「い所があったら連れていけ」。軍法会議に出てやる。そこでこの作戦の無謀むぼうさを全部喋しゃべってやる、と。

 牟田口は佐藤を更迭こうてつした。

 第十五師団長の山内正文やまうちまさふみ中将も更迭された。第三十三師団長の柳田元三やなぎだげんぞう中将も更迭された。

 三人の師団長が全員、作戦の中止を求めた。三人とも退しりぞけられた。

 牟田口だけが残った。

 誰も手綱を持っていない。持とうとした三人は切られた。

 明治憲法の欠陥が、密林の中で最悪の形をとっていた。命令を出す者を止める仕組みがない。止めようとした者が罰される。

 七月、作戦は中止された。

 中止されたとき、すでに手遅れだった。

 退却路たいきゃくろは地獄だった。

 のちに「白骨街道はっこつかいどう」と呼ばれた。

 修はその道を歩いた者ではない。だが南方の基地で、帰還きかんした兵から話を聞いた。

 その男は痩せていた。肋骨ろっこつが浮いていた。目がくぼんで、別人のようだった。

「道の両側にな、人が倒れとんのや」

「死んどるんですか」

「死んどる者もおる。まだ息がある者もおる。息がある者が手を伸ばすんや。助けてくれと。でも助けられん。自分が歩くだけで精一杯や。足を止めたら自分も倒れる。倒れたら起き上がれん。雨が降っとる。泥の中で、手を伸ばしとる奴の横を通り過ぎるんや」

 男は話しながら手が震えていた。

「何日も何も食うてへん。草を食った。靴のかわを煮て食った奴がおった。煮ても食えたもんやないが、腹の中に何か入れんと気がくるう。川の水を飲んだら赤痢せきりになった。赤痢になったら歩けん。歩けんかったら死ぬ。そういう順番や」

 修は聞きながら、ガダルカナルのことを思い出した。

 同じだ。また同じことが起きている。

 補給がない。食糧がない。弾がない。戦闘で死ぬ者より、飢えと病気で死ぬ者が多い。

 日露戦争の脚気。ガダルカナルの餓死。インパールの白骨街道。

 この軍は同じ失敗を繰り返している。敵に殺されるのではなく、自分たちの構造に殺されている。補給を軽視けいしし、兵站へいたんを考えず、精神力で乗り越えろと言う。乗り越えられずに、飢えて死ぬ。

 インパール作戦の死者は約三万。そのうち戦闘による死者は一万に満たず、残りの大半は餓死・病死だった。

 牟田口廉也は生きて帰った。責任を問われなかった。

 三人の師団長は更迭された。牟田口は生き残った。

 やっても罰されない。また、罰されない。

 張作霖の河本大作。五一五の将校たち。そして牟田口。

 この国は、止めるべき人間を止められず、止めようとした人間を罰する。

 昭和十九年七月。サイパン島が陥落した。

 修はその報告を基地で聞いた。

 サイパン。マリアナ諸島しょとう

 ここを失うということは、日本本土がアメリカの爆撃機の射程しゃていに入るということだ。B29が、サイパンから日本の都市を爆撃できる。

 大本営が「絶対国防圏ぜったいこくぼうけん」と呼んでいた防衛線が、破られた。

 サイパンの日本軍守備隊は約三万。ほぼ全滅した。民間の日本人居留民も多くが死んだ。崖から海に身を投げた女や子どもがいた。

 東条英機とうじょうひでき内閣が倒れた。

 だが戦争は止まらなかった。

 機械は壊れかけているが、まだ回っている。止める者がいないから、壊れながら回りつづけている。

 九月。ペリリュー島。

 パラオ諸島の小さなサンゴの島に、アメリカ海兵隊が上陸した。

 修はペリリューにいなかったが、この戦いの話はあとから南方の将校のあいだに広まった。異質いしつな戦いだったからだ。

 守備隊長は中川州男なかがわくにお大佐。約一万一千の兵を率いていた。

 中川はそれまでの日本軍と、まったく違うことをした。

 海岸で迎え撃たなかった。万歳突撃をしなかった。

 サイパンでもガダルカナルでも、日本軍は最後に銃剣を抜いて敵に突っ込んだ。壮絶そうぜつだが、アメリカ軍にとっては予測できる敵だった。突っ込んでくる者を機関銃で倒せばいい。

 中川はそれを禁じた。

 代わりに、島じゅうのサンゴ岩盤がんばんをくり抜いて洞窟陣地どうくつじんちを造った。地下でトンネルをつなぎ、砲をえ、アメリカ軍が島の奥に入り込んでから叩いた。

 一人でも多く殺してから死ぬ。それが中川の方針だった。

 アメリカ軍は三日から四日で終わると予想していた。

 二か月以上かかった。

 海兵隊の第一師団が壊滅的な損害を受け、陸軍部隊と交代した。アメリカ側の死傷は約一万。日本側は一万一千のうち一万七百が死んだ。

 中川は最後の電報を打って自決した。

 修はこの話を聞いて、二つのことを考えた。

 一つ。日本軍はようやく学んだ。銃剣突撃が近代の火力に通じないことを。ノモンハンで学ぶべきだった。ガダルカナルで学ぶべきだった。だがノモンハンは隠され、ガダルカナルの教訓は共有されなかった。ペリリューでようやく、洞窟と持久戦という答えにたどり着いた。

 遅すぎた。

 海軍の高木兼寛たかきかねひろが麦飯で脚気を治していたのに、陸軍が二十年拒みつづけたのと同じだ。答えはあった。受け取るのが遅すぎた。

 もう一つ。

 この戦いは、必要だったのか。

 マッカーサーのフィリピン侵攻は、すでにペリリューを迂回うかいする形で進んでいた。ペリリューを取らなくても、作戦に支障ししょうはなかったかもしれない。

 一万七百人が死んだ島が、戦略的には不要だった可能性がある。

 尼港にこうの七百人と同じだ。ノモンハンの一万八千と同じだ。意味を与えられない死。回収されない死。

 だが修は同時に思った。中川大佐の兵たちは、意味がないことを知らなかった。知らされていなかった。自分たちの戦いが必要だと信じて、洞窟の中で死んだ。

 信じて死んだ者の前で、「不要だった」とは言えない。

 言えないまま、紙が増えていく。引き出しの中の紙が。

 昭和二十年二月。硫黄島いおうじま

 小笠原諸島おがさわらしょとうの火山島。東京から南へ千二百キロ。サイパンと日本本土のあいだにある。ここにアメリカが飛行場を作れば、B29の護衛戦闘機ごえいせんとうきが東京まで飛べるようになる。損傷したB29が緊急着陸きんきゅうちゃくりくもできる。

 アメリカは硫黄島を必要としていた。日本は硫黄島を渡すわけにいかなかった。

 守備隊長は栗林忠道くりばやしただみち中将。約二万一千の兵を率いていた。

 修は硫黄島にいなかった。だがこの戦いの話は、のちに修の心に深く刺さることになる。

 栗林はアメリカを知っていた。

 若いころ、駐在武官ちゅうざいぶかんとしてアメリカに暮らしていた。英語を話した。アメリカの工場を見学し、自動車の生産ラインを見て、その工業力に驚嘆きょうたんした。家族にてた手紙に、アメリカの物量ぶつりょうがいかにすさまじいかを書いている。

 この国とだけは戦争してはならない。栗林はそう思っていた。

 だがその国と戦争になった。そしてその国の海兵隊かいへいたい七万が、自分の島に向かってくる。

 栗林はペリリューの中川と同じ戦術を取った。海岸で迎え撃たない。万歳突撃をしない。島じゅうに地下壕ちかごうを掘り、トンネルでつなぎ、地上のアメリカ兵を地下から撃つ。

 ただしペリリューより洗練せんれんされていた。壕は十八キロに及ぶ地下道で結ばれた。砲は一発撃つごとに位置を変えた。どこから撃たれているのか、アメリカ軍には分からなかった。

 アメリカは五日で終わると見込んでいた。

 三十六日間かかった。

 日本側の死者は約一万八千。二万一千のうち、生きて捕虜になったのは二百人余りにすぎなかった。

 栗林は最後の突撃を自ら率いて戦死した。万歳突撃ではなかった。夜明け前の奇襲だった。最後まで、無駄な死に方を拒んだ。

 だが修がこの戦いで最も衝撃しょうげきを受けたのは、日本側の死者の数ではなかった。

 アメリカ側の数字だった。

 戦死六千八百二十一。負傷一万九千二百十七。合計二万六千。

 日本軍の死者を上回った。

 太平洋戦争で、アメリカ側の総損害が日本側を超えた数少ない戦いだった。

 修はこの数字を聞いて、初めてアメリカの兵のことを考えた。

 あの島で死んだアメリカ兵にも、親がいる。手紙を待つ母がいる。吉田のおかみさんのように戸口に立つ女がいる。源太がハナと弥一の帰りを待ったように、アメリカのどこかで誰かが待っている。

 戦争の数字はいつも片側かたがわだけだった。大本営発表は「敵の損害」を誇り、「味方の損害」を隠す。だが敵の損害の一つ一つが、向こう側の誰かの息子であり、夫であり、父だ。

 六千八百二十一の向こう側に、六千八百二十一の家族がいる。

 修はそのとき、もう一つの話を聞いた。

 硫黄島で、あるいは太平洋の他の戦場で、日本語を話すアメリカ兵がいるという話を。

 日系人にっけいじんだった。

 アメリカに移民した日本人の子ども、二世にせいと呼ばれる者たち。アメリカで生まれ、アメリカの市民権を持ち、英語を話し、同時に親から日本語を学んだ者たち。

 開戦後、アメリカ西海岸の日系人十二万人は強制収容所きょうせいしゅうようじょに入れられていた。家も仕事も財産も奪われて、砂漠さばくの収容所に閉じ込められた。

 排日移民法で入国を禁じられ、外国人土地法で土地を持てず、それでもアメリカに根を下ろした人々の子どもたちが、自国の政府に敵性外国人てきせいがいこくじんとして収容された。

 だがその同じ二世の若者たちが、アメリカ軍に志願しがんした。

 ヨーロッパ戦線では第四四二連隊戦闘団れんたいせんとうだんが結成された。日系二世だけで編成された部隊だ。イタリアとフランスで戦い、アメリカ陸軍史上最多の勲章くんしょうを受けた部隊になった。家族が収容所にいるあいだに、彼らは別の大陸でアメリカのために血を流した。

 太平洋では、軍情報部ぐんじょうほうぶ語学兵ごがくへいとして使われた。日本語ができるからだ。日本軍の暗号を解読し、捕獲ほかくした文書を翻訳ほんやくし、捕虜を尋問じんもんした。

 日本人の顔をした男が、アメリカの軍服を着て、日本語で日本兵に降伏を呼びかける。

 修はその話を聞いて、言葉を失った。

 あの排日移民法が頭に浮かんだ。大正十三年、アメリカが日本人の入国を全面禁止した法律。弥一が宮中で「誇りの傷」と感じたあの法律。

 あの法律で締め出された者たちの子どもが、アメリカの兵として日本と戦っている。親の国と戦っている。

 収容所に入れられた者の息子が、収容した国のために死んでいる。

 どちらの側にも、理不尽りふじんがある。どちらの側にも、語りきれない物語がある。

 修は敵を「鬼畜米英きちくべいえい」と教えられてきた。人間ではないと。だが日本語を話すアメリカ兵がいるなら、その兵は人間どころか、自分と同じ顔をした人間だ。

 同じ顔をした者同士が、太平洋を挟んで銃を向け合っている。

 戦争は国と国のあいだで起きているのではなかった。人と人のあいだを引きいて、引き裂いた両側に銃を持たせている。

 太平洋の島々で、アメリカの損害はふくれつづけていた。

 ガダルカナルでは約七千の死傷。タラワでは三千。サイパンでは一万三千。ペリリューで一万。硫黄島で二万六千。

 島を一つ取るたびに、アメリカ兵の血が流れている。日本が洞窟戦術を覚えてからは、その量が増えた。

 そしてアメリカの指導者たちはこう考え始めていた。

 このまま日本本土に上陸したら、どれだけの死者が出るのか。

 硫黄島の比率で計算すれば、本土上陸は数十万のアメリカ兵の命を意味する。

 その計算が、八月の二発の爆弾につながっていく。

 昭和二十年三月十日。東京大空襲だいくうしゅう

 三百機を超えるB29が、東京の下町に焼夷弾しょういだんを落とした。

 一夜で約十万人が死んだ。

 修は南方にいて、この空襲を知ったのはあとからだった。だが修が最初に思ったのは、キヨのことだった。

 キヨは東京にいる。弥一が死んだあと、一人で暮らしている。

 手紙を出した。返事が来るまでの時間が、辰次の手紙を待った弥一の時間と重なった。

 返事が来た。キヨは生きていた。下町ではなかったから、焼けなかった。

「家は無事です。でも隣の町内ちょうないが全部焼けました。夜中に空が赤くなって、朝になっても赤かった。焼け跡を見に行きました。何もありませんでした。家があったところに、何もない。瓦礫がれきもない。全部灰になっとった」

 修はキヨの手紙を読んで、源太が禁門の変のあとに書き残した言葉を思い出した。

 ──焼けるのはいつも外や。御所は焼けん。宮城も焼けん。焼けるのは普通の人間が暮らしとる町や。

 東京大空襲で宮城は焼けなかった。皇居は残った。下町が焼けた。八十一年前の京都と同じだった。場所が変わっても、燃えるものは変わらない。

 四月。沖縄にアメリカ軍が上陸した。

 六月まで三か月の地上戦がつづいた。沖縄は本土ではないが、本土と同じ日本人が暮らしている島だ。

 軍民合わせて約二十万が死んだ。そのうち沖縄の民間人は約九万四千。

 修は沖縄にはいなかった。だが数字だけは聞こえてきた。

 民間人九万四千。

 旅順の六万。奉天の七万。それらを超える数字が、一つの島から出た。

 弥一が生きていたら何と言っただろう。また指を折って数えただろうか。届かなかった報告の回数を。

 八月六日。広島。

 八月九日。長崎。

 修はこの二つの報告を、南方の基地で聞いた。

新型爆弾しんがたばくだん。一発で街が消えた」

 一発。一発で街が消える。

 旅順では五か月かけて六万が倒れた。東京では一夜で十万が死んだ。広島では一瞬で数万が消えた。

 殺す速度が上がっている。

 機械が壊れる速度と、人が死ぬ速度が、同時に上がっている。

 修はそのことを考えながら、引き出しを開けた。

 松田の手紙。弥一の最後の手紙。キヨからの訃報。キヨの空襲の手紙。

 紙が増えている。戦争が長くなるほど、紙が増えていく。

 弥一は辰次の万年筆を握って死んだ。インクの乾いた万年筆を。書けない万年筆を。

 修の引き出しにはインクのある万年筆はない。だが紙はある。字は書ける。

 書けるのに、書くべき言葉が見つからない。

 辰次は書けなくて白紙の手帳を残した。修は書けるのに書けない。

 書けないのは同じだ。

 弥一が最後の手紙に書いた言葉を、修は思い出した。

「見届けてくれ。この戦争がどう終わるか」

 どう終わるのか。

 もうすぐ分かる。

 もうすぐ、九十三年が終わる。

 嘉永五年に産屋で泣いた赤ん坊から始まった時間が、閉じようとしている。

 修はまだ南方にいた。東京にはいなかった。ラジオの前にはいなかった。

 だが八月のある日、修のもとにも届くことになる。

 あの声が。

第二十五話 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ