第二十五話 インパール・サイパン・東京・沖縄・広島
ここから先、壊れる速度が上がる。
弥一が生きていたころは、戦争のあいだに季節があった。手紙を待つ時間があった。提灯行列のあとに静けさがあった。
弥一が死んでから、時間の刻みが変わった。
破局が重なる。間がなくなる。一つの悲報を飲み込む前に次が来る。
修はそれを、南方の基地で体ごと浴びた。
◇
昭和十九年三月。インパール作戦。
ビルマから国境を越えてインドに侵攻する。目標はインド北東部のインパール。ここを押さえれば、連合国の援蒋ルートを完全に断てる。
作戦を立案し、押し通したのは牟田口廉也中将だった。第十五軍司令官。
修はインパールにはいなかった。だが南方の将校のあいだで、作戦開始前から不穏な話が回っていた。
「牟田口中将の補給計画がひどいらしい」
「どうひどいんです」
「牛を連れていくと言っとる」
「牛」
「三万頭の牛と水牛を兵と一緒に歩かせて、途中で屠って食糧にするんやと。ジンギスカン作戦と呼んどるらしい」
修は最初、冗談だと思った。
冗談ではなかった。
インパールへの道は密林と山岳地帯だ。川がある。崖がある。雨季になれば道が泥に沈む。そこを牛に荷を載せて歩かせ、途中で殺して食う。
牛は山道を登れなかった。川を渡れなかった。砲撃で逃げた。死んだ。腐った。
食糧にするはずの牛が、食糧にならなかった。
兵は飢えた。
◇
作戦は最初から破綻していた。
三個師団を投入した。第十五師団、第三十一師団、第三十三師団。総兵力約九万。
だが補給が続かなかった。牛がだめなら他に何があるか。何もなかった。弾薬も食糧も、後方から運ぶ道がない。雨季が来て道が消えた。
イギリス軍は航空補給を受けていた。空から物資が降ってくる。日本軍には空からは何も降ってこなかった。爆弾だけが降ってきた。
師団長たちが反対した。
第三十一師団長の佐藤幸徳中将は、補給が来ないことに激怒し、独断で撤退を命じた。命令違反(いはんだ。軍法会議ものだ。
だが佐藤は言った。「善い所があったら連れていけ」。軍法会議に出てやる。そこでこの作戦の無謀さを全部喋ってやる、と。
牟田口は佐藤を更迭した。
第十五師団長の山内正文中将も更迭された。第三十三師団長の柳田元三中将も更迭された。
三人の師団長が全員、作戦の中止を求めた。三人とも退けられた。
牟田口だけが残った。
誰も手綱を持っていない。持とうとした三人は切られた。
明治憲法の欠陥が、密林の中で最悪の形をとっていた。命令を出す者を止める仕組みがない。止めようとした者が罰される。
◇
七月、作戦は中止された。
中止されたとき、すでに手遅れだった。
退却路は地獄だった。
のちに「白骨街道」と呼ばれた。
修はその道を歩いた者ではない。だが南方の基地で、帰還した兵から話を聞いた。
その男は痩せていた。肋骨が浮いていた。目が窪んで、別人のようだった。
「道の両側にな、人が倒れとんのや」
「死んどるんですか」
「死んどる者もおる。まだ息がある者もおる。息がある者が手を伸ばすんや。助けてくれと。でも助けられん。自分が歩くだけで精一杯や。足を止めたら自分も倒れる。倒れたら起き上がれん。雨が降っとる。泥の中で、手を伸ばしとる奴の横を通り過ぎるんや」
男は話しながら手が震えていた。
「何日も何も食うてへん。草を食った。靴の革を煮て食った奴がおった。煮ても食えたもんやないが、腹の中に何か入れんと気が狂う。川の水を飲んだら赤痢になった。赤痢になったら歩けん。歩けんかったら死ぬ。そういう順番や」
修は聞きながら、ガダルカナルのことを思い出した。
同じだ。また同じことが起きている。
補給がない。食糧がない。弾がない。戦闘で死ぬ者より、飢えと病気で死ぬ者が多い。
日露戦争の脚気。ガダルカナルの餓死。インパールの白骨街道。
この軍は同じ失敗を繰り返している。敵に殺されるのではなく、自分たちの構造に殺されている。補給を軽視し、兵站を考えず、精神力で乗り越えろと言う。乗り越えられずに、飢えて死ぬ。
インパール作戦の死者は約三万。そのうち戦闘による死者は一万に満たず、残りの大半は餓死・病死だった。
牟田口廉也は生きて帰った。責任を問われなかった。
三人の師団長は更迭された。牟田口は生き残った。
やっても罰されない。また、罰されない。
張作霖の河本大作。五一五の将校たち。そして牟田口。
この国は、止めるべき人間を止められず、止めようとした人間を罰する。
◇
昭和十九年七月。サイパン島が陥落した。
修はその報告を基地で聞いた。
サイパン。マリアナ諸島。
ここを失うということは、日本本土がアメリカの爆撃機の射程に入るということだ。B29が、サイパンから日本の都市を爆撃できる。
大本営が「絶対国防圏」と呼んでいた防衛線が、破られた。
サイパンの日本軍守備隊は約三万。ほぼ全滅した。民間の日本人居留民も多くが死んだ。崖から海に身を投げた女や子どもがいた。
東条英機内閣が倒れた。
だが戦争は止まらなかった。
機械は壊れかけているが、まだ回っている。止める者がいないから、壊れながら回りつづけている。
◇
九月。ペリリュー島。
パラオ諸島の小さなサンゴの島に、アメリカ海兵隊が上陸した。
修はペリリューにいなかったが、この戦いの話はあとから南方の将校のあいだに広まった。異質な戦いだったからだ。
守備隊長は中川州男大佐。約一万一千の兵を率いていた。
中川はそれまでの日本軍と、まったく違うことをした。
海岸で迎え撃たなかった。万歳突撃をしなかった。
サイパンでもガダルカナルでも、日本軍は最後に銃剣を抜いて敵に突っ込んだ。壮絶だが、アメリカ軍にとっては予測できる敵だった。突っ込んでくる者を機関銃で倒せばいい。
中川はそれを禁じた。
代わりに、島じゅうのサンゴ岩盤をくり抜いて洞窟陣地を造った。地下でトンネルを繋ぎ、砲を据え、アメリカ軍が島の奥に入り込んでから叩いた。
一人でも多く殺してから死ぬ。それが中川の方針だった。
アメリカ軍は三日から四日で終わると予想していた。
二か月以上かかった。
海兵隊の第一師団が壊滅的な損害を受け、陸軍部隊と交代した。アメリカ側の死傷は約一万。日本側は一万一千のうち一万七百が死んだ。
中川は最後の電報を打って自決した。
修はこの話を聞いて、二つのことを考えた。
一つ。日本軍はようやく学んだ。銃剣突撃が近代の火力に通じないことを。ノモンハンで学ぶべきだった。ガダルカナルで学ぶべきだった。だがノモンハンは隠され、ガダルカナルの教訓は共有されなかった。ペリリューでようやく、洞窟と持久戦という答えにたどり着いた。
遅すぎた。
海軍の高木兼寛が麦飯で脚気を治していたのに、陸軍が二十年拒みつづけたのと同じだ。答えはあった。受け取るのが遅すぎた。
もう一つ。
この戦いは、必要だったのか。
マッカーサーのフィリピン侵攻は、すでにペリリューを迂回する形で進んでいた。ペリリューを取らなくても、作戦に支障はなかったかもしれない。
一万七百人が死んだ島が、戦略的には不要だった可能性がある。
尼港の七百人と同じだ。ノモンハンの一万八千と同じだ。意味を与えられない死。回収されない死。
だが修は同時に思った。中川大佐の兵たちは、意味がないことを知らなかった。知らされていなかった。自分たちの戦いが必要だと信じて、洞窟の中で死んだ。
信じて死んだ者の前で、「不要だった」とは言えない。
言えないまま、紙が増えていく。引き出しの中の紙が。
◇
昭和二十年二月。硫黄島。
小笠原諸島の火山島。東京から南へ千二百キロ。サイパンと日本本土のあいだにある。ここにアメリカが飛行場を作れば、B29の護衛戦闘機が東京まで飛べるようになる。損傷したB29が緊急着陸もできる。
アメリカは硫黄島を必要としていた。日本は硫黄島を渡すわけにいかなかった。
守備隊長は栗林忠道中将。約二万一千の兵を率いていた。
修は硫黄島にいなかった。だがこの戦いの話は、のちに修の心に深く刺さることになる。
栗林はアメリカを知っていた。
若いころ、駐在武官としてアメリカに暮らしていた。英語を話した。アメリカの工場を見学し、自動車の生産ラインを見て、その工業力に驚嘆した。家族に宛てた手紙に、アメリカの物量がいかに凄まじいかを書いている。
この国とだけは戦争してはならない。栗林はそう思っていた。
だがその国と戦争になった。そしてその国の海兵隊七万が、自分の島に向かってくる。
栗林はペリリューの中川と同じ戦術を取った。海岸で迎え撃たない。万歳突撃をしない。島じゅうに地下壕を掘り、トンネルでつなぎ、地上のアメリカ兵を地下から撃つ。
ただしペリリューより洗練されていた。壕は十八キロに及ぶ地下道で結ばれた。砲は一発撃つごとに位置を変えた。どこから撃たれているのか、アメリカ軍には分からなかった。
アメリカは五日で終わると見込んでいた。
三十六日間かかった。
日本側の死者は約一万八千。二万一千のうち、生きて捕虜になったのは二百人余りにすぎなかった。
栗林は最後の突撃を自ら率いて戦死した。万歳突撃ではなかった。夜明け前の奇襲だった。最後まで、無駄な死に方を拒んだ。
◇
だが修がこの戦いで最も衝撃を受けたのは、日本側の死者の数ではなかった。
アメリカ側の数字だった。
戦死六千八百二十一。負傷一万九千二百十七。合計二万六千。
日本軍の死者を上回った。
太平洋戦争で、アメリカ側の総損害が日本側を超えた数少ない戦いだった。
修はこの数字を聞いて、初めてアメリカの兵のことを考えた。
あの島で死んだアメリカ兵にも、親がいる。手紙を待つ母がいる。吉田のおかみさんのように戸口に立つ女がいる。源太がハナと弥一の帰りを待ったように、アメリカのどこかで誰かが待っている。
戦争の数字はいつも片側だけだった。大本営発表は「敵の損害」を誇り、「味方の損害」を隠す。だが敵の損害の一つ一つが、向こう側の誰かの息子であり、夫であり、父だ。
六千八百二十一の向こう側に、六千八百二十一の家族がいる。
修はそのとき、もう一つの話を聞いた。
硫黄島で、あるいは太平洋の他の戦場で、日本語を話すアメリカ兵がいるという話を。
◇
日系人だった。
アメリカに移民した日本人の子ども、二世と呼ばれる者たち。アメリカで生まれ、アメリカの市民権を持ち、英語を話し、同時に親から日本語を学んだ者たち。
開戦後、アメリカ西海岸の日系人十二万人は強制収容所に入れられていた。家も仕事も財産も奪われて、砂漠の収容所に閉じ込められた。
排日移民法で入国を禁じられ、外国人土地法で土地を持てず、それでもアメリカに根を下ろした人々の子どもたちが、自国の政府に敵性外国人として収容された。
だがその同じ二世の若者たちが、アメリカ軍に志願した。
ヨーロッパ戦線では第四四二連隊戦闘団が結成された。日系二世だけで編成された部隊だ。イタリアとフランスで戦い、アメリカ陸軍史上最多の勲章を受けた部隊になった。家族が収容所にいるあいだに、彼らは別の大陸でアメリカのために血を流した。
太平洋では、軍情報部の語学兵として使われた。日本語ができるからだ。日本軍の暗号を解読し、捕獲した文書を翻訳し、捕虜を尋問した。
日本人の顔をした男が、アメリカの軍服を着て、日本語で日本兵に降伏を呼びかける。
修はその話を聞いて、言葉を失った。
あの排日移民法が頭に浮かんだ。大正十三年、アメリカが日本人の入国を全面禁止した法律。弥一が宮中で「誇りの傷」と感じたあの法律。
あの法律で締め出された者たちの子どもが、アメリカの兵として日本と戦っている。親の国と戦っている。
収容所に入れられた者の息子が、収容した国のために死んでいる。
どちらの側にも、理不尽がある。どちらの側にも、語りきれない物語がある。
修は敵を「鬼畜米英」と教えられてきた。人間ではないと。だが日本語を話すアメリカ兵がいるなら、その兵は人間どころか、自分と同じ顔をした人間だ。
同じ顔をした者同士が、太平洋を挟んで銃を向け合っている。
戦争は国と国のあいだで起きているのではなかった。人と人のあいだを引き裂いて、引き裂いた両側に銃を持たせている。
◇
太平洋の島々で、アメリカの損害は膨れつづけていた。
ガダルカナルでは約七千の死傷。タラワでは三千。サイパンでは一万三千。ペリリューで一万。硫黄島で二万六千。
島を一つ取るたびに、アメリカ兵の血が流れている。日本が洞窟戦術を覚えてからは、その量が増えた。
そしてアメリカの指導者たちはこう考え始めていた。
このまま日本本土に上陸したら、どれだけの死者が出るのか。
硫黄島の比率で計算すれば、本土上陸は数十万のアメリカ兵の命を意味する。
その計算が、八月の二発の爆弾に繋がっていく。
◇
昭和二十年三月十日。東京大空襲。
三百機を超えるB29が、東京の下町に焼夷弾を落とした。
一夜で約十万人が死んだ。
修は南方にいて、この空襲を知ったのはあとからだった。だが修が最初に思ったのは、キヨのことだった。
キヨは東京にいる。弥一が死んだあと、一人で暮らしている。
手紙を出した。返事が来るまでの時間が、辰次の手紙を待った弥一の時間と重なった。
返事が来た。キヨは生きていた。下町ではなかったから、焼けなかった。
「家は無事です。でも隣の町内が全部焼けました。夜中に空が赤くなって、朝になっても赤かった。焼け跡を見に行きました。何もありませんでした。家があったところに、何もない。瓦礫もない。全部灰になっとった」
修はキヨの手紙を読んで、源太が禁門の変のあとに書き残した言葉を思い出した。
──焼けるのはいつも外や。御所は焼けん。宮城も焼けん。焼けるのは普通の人間が暮らしとる町や。
東京大空襲で宮城は焼けなかった。皇居は残った。下町が焼けた。八十一年前の京都と同じだった。場所が変わっても、燃えるものは変わらない。
◇
四月。沖縄にアメリカ軍が上陸した。
六月まで三か月の地上戦がつづいた。沖縄は本土ではないが、本土と同じ日本人が暮らしている島だ。
軍民合わせて約二十万が死んだ。そのうち沖縄の民間人は約九万四千。
修は沖縄にはいなかった。だが数字だけは聞こえてきた。
民間人九万四千。
旅順の六万。奉天の七万。それらを超える数字が、一つの島から出た。
弥一が生きていたら何と言っただろう。また指を折って数えただろうか。届かなかった報告の回数を。
◇
八月六日。広島。
八月九日。長崎。
修はこの二つの報告を、南方の基地で聞いた。
「新型爆弾。一発で街が消えた」
一発。一発で街が消える。
旅順では五か月かけて六万が倒れた。東京では一夜で十万が死んだ。広島では一瞬で数万が消えた。
殺す速度が上がっている。
機械が壊れる速度と、人が死ぬ速度が、同時に上がっている。
修はそのことを考えながら、引き出しを開けた。
松田の手紙。弥一の最後の手紙。キヨからの訃報。キヨの空襲の手紙。
紙が増えている。戦争が長くなるほど、紙が増えていく。
弥一は辰次の万年筆を握って死んだ。インクの乾いた万年筆を。書けない万年筆を。
修の引き出しにはインクのある万年筆はない。だが紙はある。字は書ける。
書けるのに、書くべき言葉が見つからない。
辰次は書けなくて白紙の手帳を残した。修は書けるのに書けない。
書けないのは同じだ。
◇
弥一が最後の手紙に書いた言葉を、修は思い出した。
「見届けてくれ。この戦争がどう終わるか」
どう終わるのか。
もうすぐ分かる。
もうすぐ、九十三年が終わる。
嘉永五年に産屋で泣いた赤ん坊から始まった時間が、閉じようとしている。
修はまだ南方にいた。東京にはいなかった。ラジオの前にはいなかった。
だが八月のある日、修のもとにも届くことになる。
あの声が。
第二十五話 了




