第二十四話 ミッドウェー
昭和十七年。南方は勝っていた。勝ちつづけていた。
真珠湾から半年。東南アジアの地図は日本の色に塗り替えられ、蘭印の石油は手に入り、大本営発表は連日、勝利を伝えていた。
東京の弥一はラジオの前で、その発表を聞いていた。七十一歳。体は日ごとに弱っている。布団から出られない日が増えた。
キヨがラジオの音量を上げた。
「また勝ったて。どこやったかな、ジャワとか言うてはった」
弥一は天井を見ていた。
勝っている。日清のときも勝っていた。日露のときも勝っていた。
勝っているあいだに、見えないものが積もっていく。弥一はそれを知っている。四十年、宮中の壁として見てきた。
「キヨ」
「何」
「修から手紙は」
「先月来たきりや。南のどこかにおるとしか分からん」
弥一は目を閉じた。手紙が来ないことの重さを、弥一はいちばん知っている。辰次の手紙が途絶えた日のことを。
◇
六月五日。ミッドウェー海戦。
修はこの海戦に参加していない。陸軍の歩兵だ。海の戦いには関わらない。
だが海の上で起きたことが、修の戦争のすべてを変えた。
◇
修がミッドウェーの真実を断片的に知ったのは、海戦から数週間後のことだった。
南方の基地で、海軍の下士官と酒を飲む機会があった。その男は顔色が悪く、酒を注いでも手が震えていた。
「何かあったんですか」修は聞いた。
男は黙っていた。しばらくして、声を落とした。
「聞かんでくれ。聞いたら、おまえも口を塞がれる」
「口を」
「俺は内地から飛ばされてきた。ミッドウェーから帰ったら、基地に隔離された。外部との連絡を禁じられた。手紙も出せん。家族にも会えん。そのまま南方に送られた」
修は酒を置いた。
「何があったんです。ミッドウェーで」
男は杯を見つめていた。中の酒が揺れている。男の手が揺れているのだ。
「空母が沈んだ」
「何隻」
「……四隻」
修は言葉を失った。
四隻。日本海軍の主力空母が四隻沈んだ。
赤城。加賀。蒼龍。飛龍。真珠湾を攻撃し、セイロン沖でイギリス艦隊を蹴散らし、太平洋を支配していた機動部隊の心臓が、一日で四つ止まった。
「航空機が二百五十機以上失われた。搭乗員も。練度の高い搭乗員は替えがきかん。あの連中を育てるのに十年かかっとる。十年ぶんが一日で消えた」
男は酒を一気に飲んだ。
「大本営発表を聞いたか。ミッドウェーの」
「聞きました。『我が方の損害、航空母艦一隻喪失、一隻大破』と」
「嘘や。四隻沈んどる。四隻全部沈んどる。一隻喪失一隻大破やない。四隻喪失や」
修は黙った。
ノモンハンと同じだ。
一万八千が「国境紛争、解決」と発表された。今度は空母四隻の喪失が「一隻喪失、一隻大破」に縮められた。
隠している。また隠している。
ノモンハンでは陸軍が自分の敗北を隠した。今度は海軍が自分の敗北を隠している。
そして帰還した兵を隔離して、口を塞いでいる。
◇
修は海軍の男にもう一つだけ聞いた。
「なんで負けたんですか」
男は長いこと黙っていた。
「暗号が解かれとった」
「暗号」
「こっちの作戦が、全部筒抜けやった。アメリカはどこに空母が来るか知っとった。待ち伏せされた。こっちは敵がおらんと思っとるところに敵がおった」
ゾルゲのことを修は思い出した。日本の決定がソ連に筒抜けだった。同じことがアメリカにも起きている。
日本は秘密を守れない国なのか。それとも、秘密を守れると思い込んでいる国なのか。
自分たちの嘘は守ろうとする。大本営発表の嘘は必死で守る。だが本当に守るべき暗号は、敵に読まれている。
嘘を守り、真実を漏らす。
修はその倒錯を、南方の基地の暗い酒場で噛みしめた。
◇
──御前。
弥一は東京にいる。宮中の知り合いはもうほとんど退官しているが、一人だけ残っている老侍従から、時おり話が入った。
「陛下にはミッドウェーの結果が奏上されたが……」
「が?」
「詳細は、どこまでお伝えしたか。四隻の喪失をそのまま申し上げたのか、緩やかにお伝えしたのか。わしにも分からん」
弥一はため息をついた。
また同じだ。
旅順の虐殺。韓国の義兵。南京。ノモンハン。そしてミッドウェー。
五度目だ。
弥一は布団の中で、指を折って数えた。届かなかった報告の回数を。五回。いや、数えていないものも含めれば、もっとある。
数えることが、弥一の最後の仕事になりつつあった。
◇
ミッドウェーのあと、潮目が変わった。
だが潮目が変わったことを、日本国民は知らなかった。大本営発表は相変わらず勝利を伝えていた。
修は知っていた。空母四隻が沈んだことを。暗号が解かれていたことを。
だが言えなかった。言えば口を塞がれる。南方の基地に送られる。あの海軍の男のように。
見ることはやめなかった。弥一の言葉を守った。
だが見えているものと、言えることのあいだの距離が、日ごとに広がっていった。
◇
八月。ガダルカナル島。
ソロモン諸島の小さな島に、アメリカ海兵隊が上陸した。日本が建設中だった飛行場を奪いに来た。
日本軍は奪い返そうとした。
ここから半年間、ガダルカナルは太平洋戦争の焦点になった。
修はガダルカナルにはいなかった。だが同じ南方にいた。兵站の断片的な情報が、基地を経由して流れてきた。
最初に聞いたのは、一木支隊の全滅だった。
九百名の部隊が夜襲をかけた。銃剣突撃で飛行場を奪い返す。白兵戦で。
アメリカ海兵隊は待っていた。機関銃と戦車で。
一木支隊は壊滅した。支隊長の一木清直大佐は、軍旗を焼いて自決した。
修はその報告を聞いて、ノモンハンの松田の手紙を思い出した。「歩兵が突撃する。戦車に向かって突撃する。肉弾や」。
ノモンハンでソ連の戦車に歩兵で突撃して壊滅した。三年後、ガダルカナルでアメリカの機関銃に歩兵で突撃して壊滅した。
同じことを繰り返している。
敗北を隠したから、敗北から学べなかった。ノモンハンの教訓が共有されていれば、歩兵の銃剣突撃が機械化部隊に通じないことは分かっていたはずだ。
だがノモンハンは「なかったこと」にされた。なかったことにされた敗北の教訓は、次の戦場に届かない。
届かなかった報告が、兵を殺している。
◇
ガダルカナルの日本軍は飢えた。
制海権を失い、補給船が沈められた。食糧が届かない。弾薬が届かない。薬がない。
兵は椰子の実を齧り、草を食べ、トカゲを焼いて食べた。マラリアに倒れた。赤痢に倒れた。戦闘で死ぬ者より、飢えと病気で死ぬ者のほうが多かった。
兵たちはこの島を「餓島」と呼んだ。ガダルカナルの「ガ」を餓の「ガ」に変えた。
昭和十八年二月、日本軍はガダルカナルから撤退した。「転進」と発表された。撤退とは言わなかった。
投入された約三万一千のうち、戦死・餓死・病死は約二万一千。七割近くが帰らなかった。そのうち戦闘による死者は五千程度で、残りの大半が飢えと病気で死んだ。
飢えて死んだ。
松田は「飯が食えるから軍に入った」と言っていた。飯を食うために軍に入った者たちが、飯がなくて死んでいく。
修はその皮肉を噛みしめた。噛みしめる歯はあったが、噛みしめる飯がない日が、修の基地にも増えてきていた。
◇
弥一は東京で、この戦争の行方を布団の中から見つめていた。
ラジオは勝っていると言う。新聞も勝っていると言う。
だが弥一の体は、国の体と一緒に衰えていた。
配給の米が減った。キヨが並ぶ列が長くなった。炭がない。冬が近づくと、布団の中でも震える。
弥一は源太のことを思った。源太は七十で死んだ。弥一は七十一だ。もう超えた。
だが源太は最後に言った。「見届けられんのが残念や」。佐吉が源太に言い残した言葉だ。
弥一も同じことを思っていた。見届けたい。この戦争がどう終わるのかを。修が帰ってくるのかを。
あの赤ん坊が——もうあの赤ん坊ではない、四十一歳の天皇が——この戦争をどう終わらせるのかを。
弥一は辰次の万年筆を取り出した。懐からではなく、枕元の箱から。もう懐に入れて歩く体力がない。
万年筆。源太の手紙。修からの手紙。全部、枕元に並べてある。
弥一は万年筆を握った。インクはとうに乾いている。三十八年前に乾いた。
だが弥一は握りつづけた。辰次が最後に何を書こうとしたのか、まだ分からない。手帳は白紙のままだった。
書けないことがありすぎて、一文字も書けなかった。
弥一は今、同じ場所にいる。見てきたことがありすぎて、一言も残せない。
キヨが味噌汁を持ってきた。薄い味噌汁だった。具は大根の葉だけだった。
「ハナお母さんの味噌汁には敵わんな」弥一は言った。
「何を急に」
「いや、思い出しただけや」
弥一は味噌汁を啜った。
ハナの味噌汁。修が覚えている味。源太が毎日飲んだ味。
もう作れる人はいない。
◇
昭和十八年の春、弥一は修に手紙を書いた。
手が震えて、字が歪んだ。だが書いた。
「修。お父はもう長くない。体が分かる。源太お祖父ちゃんは七十で逝った。わしは七十二まで来た。よう持ったほうや」
「おまえに頼みたいことがある。見届けてくれ。この戦争がどう終わるか。天皇がどうなるか。あの赤ん坊から始まった九十一年の終わりを。佐吉さんが見たかったものを。源太お祖父ちゃんが見届けられんかったものを。わしもたぶん見届けられん。だからおまえが見届けてくれ」
「見ることをやめるな。何があっても」
手紙は南方に届いた。修はそれを読んで、引き出しに入れた。松田の手紙の隣に。
弥一の字は、修が覚えているどの手紙よりも細く、弱かった。
◇
昭和十八年の秋。
キヨから手紙が来た。
「お父さんが、今朝、逝きました。眠るようでした。枕元に万年筆と手紙の束を並べて、それを握ったまま逝きました。最後に何か言いかけましたが、聞き取れませんでした」
修はその手紙を読んで、しばらく動けなかった。
最後に何か言いかけたが、聞き取れなかった。
源太が死んだとき、ハナが同じことを書いていた。「最後に何か言いかけましたが、聞き取れませんでした」。
二代つづけて、最後の言葉が届かなかった。
届かない。この家の男が遺す最後の言葉は、いつも届かない。
届かないことが、この物語の形なのだと、修はそのとき思った。
弥一。柏木弥一。
中山家の口利きで近衛に入り、宮中の壁として四十年立った男。辰次の手紙を懐に持ちつづけた男。天皇が痩せていくのを見た男。旅順の六万を数えた男。日比谷の煙を嗅いだ男。田中が壊れるのを見た男。二二六で天皇の声を聞いた男。届かなかった報告を五度数えた男。
七十二歳。
修は手紙を畳んで、引き出しに入れた。
引き出しの中に、松田の手紙、弥一の最後の手紙、キヨからの訃報が並んだ。
弥一の懐にあった辰次の万年筆と源太の手紙は、キヨが守っている。
いつか帰ったら、受け取る。三代ぶんの重さを、修が引き継ぐ。
あと二年で、九十三年が終わる。
第二十四話 了




