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第二十話 日中戦争(一)


 昭和十二年七月七日。夜。

 北京ペキンの郊外、盧溝橋ろこうきょうのそばで銃声がした。

 日本軍の駐屯部隊が夜間演習をしていた。演習中に銃声が聞こえた。点呼てんこをしたら、兵が一人いない。

 日本軍は近くの中国軍の陣地に向かって、兵を捜索そうさくさせろと要求した。中国側は拒否した。

 翌朝、戦闘が始まった。

 行方不明の兵は、しばらくして自分で戻ってきた。用を足しに行っていただけだった。

 だが戦闘は止まらなかった。

 おさむは東京の兵営でその知らせを聞いた。二十六歳。入隊から四年が経っている。上等兵だった。

 「北支事変ほくしじへん」と呼ばれた。戦争ではない。事変だ。日本はこの戦いを最後まで「戦争」と呼ばなかった。戦争と呼べば国際法上の義務が生じる。中立国がアメリカの石油や鉄を売ってくれなくなるかもしれない。だから事変だ。

 修は法律を学んだ人間だ。言葉の使い方で現実を曲げる技術を知っている。

 これは戦争だ。戦争を事変と呼んでいるだけだ。

 だが修はそのことを口にしなかった。軍の中で言葉を選ぶことの意味を、四年間で学んでいた。

 ──廟堂びょうどう

 首相は近衛文麿このえふみまろ。四十六歳。公家くげの名門、五摂家ごせっけ筆頭ひっとうの出だ。若く、品があり、国民に人気があった。

 近衛内閣は事件の直後に方針を出した。

 不拡大。

 修はその二文字を聞いて、胃の底が冷えた。

 六年前と同じ言葉だ。満洲事変のとき、若槻内閣が出した方針と同じだ。不拡大。あのときも不拡大と言って、止められなかった。軍が無視して、内閣が倒れて、追認した。

 同じ言葉を、別の首相が、別の事変に対して繰り返している。

 修はこのとき確信した。

 この戦争は止まらない。

 止まらないことを、修はもう知っている。同じ構造が同じ結果を生むことを、柏木家の八十五年が教えている。

 ──御前ごぜん

 弥一やいちは六十六歳だった。宮中の仕事はほぼ引退していたが、古い知り合いの侍従から時おり話を聞くことができた。

 天皇は盧溝橋の報告を受けて、不拡大を了承した。

 だが弥一が聞いた話では、天皇の態度に微妙な変化があった。

「陛下は、不拡大をお認めになったが、こう仰ったそうだ。『今度こそ不拡大を実行せよ』と」

 今度こそ。

 その四文字に、弥一は天皇の記憶を感じた。

 天皇は覚えている。六年前にも不拡大と言って、止められなかったことを。同じ言葉が同じように空回からまわりすることを。

 だが天皇は命令しない。「実行せよ」と言ったが、それは願望がんぼうに近い。もし軍がまた無視したら、天皇はどうするのか。二二六のように声を上げるのか。

 弥一はそうはならないだろうと思った。二二六は天皇の身辺しんぺんへの攻撃だった。盧溝橋は遠い大陸の話だ。天皇の人間が殺されたわけではない。

 天皇が声を上げる条件は、満たされていない。

 だから黙る。不拡大を了承して、あとは大臣に任せる。

 そして大臣は、軍を止められない。

 同じ機械が、同じように回っている。

 七月末、戦闘は拡大した。不拡大は守られなかった。

 八月、戦場は一気に南に飛んだ。上海シャンハイ

 修の部隊に動員どういん命令が出た。

「上海方面に展開てんかいする。出発は三日後」

 修は荷物をまとめながら、松田まつだのことを思った。松田は満洲にいるはずだ。修はこれから上海に行く。別の戦場だ。

 弥一に手紙を書いた。

「お父。上海に行きます。言えることは少ないですが、行く前に一つだけ。お父が言った通りでした。不拡大は守られませんでした」

 弥一からの返事は、修が上海に着いた後に届いた。短かった。

「見ることをやめるな」

 それだけだった。

 上海は、修が想像していた戦場とは違った。

 修は戦場というものを、弥一から聞いた辰次たつじの手紙で知っていた。旅順の塹壕ざんごう。斜面を登る歩兵。機関銃と鉄条網。

 上海には塹壕も斜面もなかった。

 街だった。

 ビルがあった。路地があった。商店の看板が残っていた。洗濯物が干されたままのベランダがあった。人が暮らしていた痕跡こんせきのなかで、銃を撃った。

 修が最初に撃ったのは、閘北ざほくという地区の路地だった。

 角を曲がったとき、向こうから走ってくる影が見えた。軍服を着ていた。中国兵だ。修は構えた。引き金を引いた。反動はんどうで肩が跳ねた。

 当たったかどうか分からなかった。影は角の向こうに消えた。

 修は壁に背をつけて、息を吐いた。手が震えていた。

 人に向けて銃を撃った。

 法律の教科書を持っていた手で。

 上海の中国軍は、修の予想をはるかに超えて強かった。

 ドイツの軍事顧問が訓練した精鋭師団せいえいしだんがいた。八十七師、八十八師。装備も訓練もしっかりしている。トーチカを築き、鉄条網を張り、機関銃で日本軍の突撃を止めた。

 旅順と同じだった。

 修は泥の中に伏せながら、弥一から聞いた辰次の手紙を思い出した。「走りながら死ぬ。体が先に死んで、足だけがまだ走ろうとしとる」。辰次が三十三年前に旅順で見たのと同じことが、上海で起きている。

 日本軍は苦戦した。

 上海を三日で落とすと言っていた参謀がいたという話を、修は小隊長から聞いた。三日。満洲事変のように簡単に終わると思っていたのだ。

 三日では終わらなかった。

 一週間でも終わらなかった。一か月でも終わらなかった。

 三か月かかった。

 ──陣中じんちゅう

 修は上海で、戦争の匂いを覚えた。

 火薬の匂い。血の匂い。そして腐敗ふはいの匂い。

 辰次が「甘い匂い」と書いたあの匂いだ。死体が腐る匂いは甘い。修も同じことを確認した。

 ある日、修の小隊はビルの一階を確保かくほした。二階に中国兵がいた。階段を上がれない。上から手榴弾しゅりゅうだんが転がってくる。下から撃っても角度が悪い。

 丸一日、同じビルの一階と二階でにらみ合った。

 夜中に、二階から声が聞こえた。中国語だった。何を言っているか分からない。歌のようだった。

 隣にいた兵が呟いた。

「歌っとるんか。あいつら」

 修は黙って聞いていた。

 敵が歌っている。壁一枚と階段の向こうで。朝になったら殺し合う。だが今は歌っている。

 修は弥一が教えてくれたことを思い出した。

 ──壁は見ているだけだ。

 修は壁ではない。銃を持っている。引き金を引く。人を殺すかもしれない。殺されるかもしれない。壁ではいられない。

 だが見ることはできる。見ることだけは続けられる。

 二階の歌が止んだ。静かになった。

 翌朝、別の小隊が裏口から二階に突入した。銃声がして、静かになった。

 修は二階に上がった。中国兵が三人倒れていた。若かった。修と同じくらいの歳に見えた。

 一人が目を開けたままだった。修を見ているように見えた。だがもう見えていなかった。

 三か月の戦闘で、日本軍の死傷は四万を超えた。

 中国軍は二十五万。

 日本軍は約二十五万を投入した。中国軍は六十万。

 数字を聞いて、修は考えた。

 日清戦争では清軍は組織的な抵抗をほとんどしなかった。満洲事変では北大営の中国兵は寝間着で逃げた。

 上海は違った。中国は戦った。三か月、戦った。

 修は対華二十一カ条のことを考えた。弥一から聞いた話だ。大学でも学んだ。

 大正四年、ヨーロッパが大戦で手一杯のあいだに、日本は中国に二十一か条の要求を突きつけた。五つのごうに分かれていた。

 第一号は、山東半島さんとうはんとうのドイツ利権を日本に渡せ。第二号は、満洲と内蒙古うちもうこでの日本の租借そしゃく期間を九十九年に延ばせ。第三号は、中国の製鉄会社を日本との合弁ごうべんにしろ。第四号は、中国の沿岸を他国に渡すな。

 そして第五号。日本人の顧問こもんを中国政府に入れろ。警察を日中共同にしろ。武器の購入を日本から行え。

 第五号が通れば、中国は日本の属国ぞっこくになる。国際社会からも批判が出て、日本は第五号を取り下げた。だが残りは最後通牒さいごつうちょうを突きつけてませた。

 中国がこれを受け入れた五月九日は、「国恥記念日こくちきねんび」と定められた。国の恥。毎年この日になると、中国の人々は日本にされたことを思い出す仕組みが、二十二年前に作られた。

 四年後の大正八年、パリ講和会議こうわかいぎで事態はさらに悪化した。第一次大戦の戦後処理で、ドイツが持っていた山東半島の権益が日本に渡された。中国もまた連合国の側で参戦していたのに、中国の土地にある権益が中国ではなく日本に渡された。

 その知らせが北京に届いた日、学生たちが街に出た。大正八年五月四日。五四運動ごしうんどう

 北京の大学生三千人がデモ行進し、日本への怒りを叫んだ。日本製品の不買運動ふばいうんどうが全国に広がった。商店が日本の品物をたなから下ろした。工場で罷業ひぎょうが起きた。

 これが近代中国のナショナリズムの出発点だった。日本が火をつけた。

 あれから二十二年。五四運動の日に街に出た学生たちは四十代になっている。その子どもたちが、今、銃を持って上海で戦っている。ドイツ式の訓練を受け、トーチカを築き、機関銃で日本軍の突撃を止めている。

 修の前で死んでいる若い兵士は、五四運動の子どもたちだ。日本を憎んで育った世代だ。

 憎しみの種を撒いたのは日本で、その種が育った畑に日本は兵を送り込んでいる。

 修はその構造を見ていた。見ることをやめなかった。

 ──ちまた

 東京の弥一のもとに、修から手紙が来た。短かった。検閲の跡があった。

「生きています。上海は街です。畑でも山でもない。人が暮らしていた場所で銃を撃っています。それだけがつらい」

 弥一は手紙を読んで、キヨに渡した。キヨは読んで泣いた。

 弥一は泣かなかった。

 辰次の手紙のことを思い出していた。辰次も「生きとる」と書いた。何通か書いて、そして来なくなった。

 修の手紙が来なくなる日が来るのかどうか。弥一はそれだけを考えていた。

 六十六歳の弥一にできることは、もう何もない。宮中にはもういない。壁ではなくなった。ただの老人だ。

 ただの老人が、息子の手紙を待っている。

 源太が弥一の手紙を待ったように。吉田のおかみさんが息子の手紙を待ったように。

 三代目が同じ場所に立っている。手紙を出す側として。

 そして弥一は、手紙を待つ側として。

 十一月、上海が陥落かんらくした。

 中国軍は西へ退いた。首都の南京ナンキンへ退いた。

 日本軍は追った。

 修の部隊にも前進命令が出た。

「目標、南京」

 修は小隊の兵と一緒に歩いた。上海から南京まで約三百キロ。道路は壊れていた。橋は落とされていた。時おり中国軍の残兵と遭遇した。

 歩きながら、修は考えた。

 盧溝橋で兵が一人いなくなった。用を足しに行っていただけだった。それが上海の三か月になり、四万の死傷になり、今、南京に向かっている。

 どこで止まるのか。

 誰が止めるのか。

 不拡大、と誰かがまた言うのだろうか。

 修の靴は泥で重かった。銃は肩に食い込んでいた。空は灰色だった。

 南京まで、あと百キロ。

第二十話 了

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