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第十八話 五一五事件


 満洲国が建国を宣言した二か月後。日本じゅうが満洲の地図に目を奪われていたそのさなかに、東京で血が流れた。

 昭和七年五月十五日。日曜日。

 おさむは下宿の部屋で窓を開けていた。五月の風は暖かかった。夕方になって、階下かいか大家おおやあおい顔で上がってきた。

「柏木さん。首相が撃たれた」

 修は椅子いすから立ち上がった。

「誰にです」

「海軍の若い将校と、陸軍の士官候補生しかんこうほせい。ラジオで言うとった。官邸かんていに押し入って撃ったて」

 修は靴をいて通りに出た。号外を探した。

 通りは騒然としていた。人だかり。新聞売りの叫び声。号外の紙が手から手に渡っていく。

 修は一枚をつかんだ。

「犬養首相、凶弾きょうだんに倒る」

 号外を読みながら、修は立ったまま動けなくなった。

 事件の経緯けいいはこうだった。

 午後五時半ごろ、海軍の若い将校九名と陸軍の士官候補生数名が、三台の車に分乗して首相官邸に向かった。門を突破とっぱし、銃を手に邸内ていないに踏み込んだ。

 犬養毅いぬかいつよしは応接室にいた。

 将校たちが銃をかまえて入ってきたとき、犬養はこう言った。

「まあ待て。撃つのはいつでもできる。話を聞こう。話せば分かる」

 七十七歳の老人が、銃口の前で話そうとした。

 将校の一人が答えた。

問答無用もんどうむよう

 銃声が鳴った。

 犬養は頭部と腹部に被弾ひだんした。即死ではなかった。撃たれた直後、犬養は女中じょちゅうに言ったという。

「いまの若い者を連れてこい。よく話して聞かすから」

 撃たれてなお、話そうとした。

 だが犬養は夜半に死んだ。

 修は号外を折りたたんで、下宿に戻った。

 机の前に座って、二つの言葉を並べた。

 話せば分かる。

 問答無用。

 七十七歳の政治家が言葉で解決しようとした。二十代の将校が銃弾でさえぎった。

 言葉と銃弾が向き合って、銃弾が勝った。

 修は法律を学んでいる。法律とは言葉だ。条文という言葉で社会を動かす仕組みだ。その言葉が、銃弾一発で黙らされた。

 修はこのとき、大学で学んだことのすべてが揺らぐのを感じた。

 ──御前ごぜん

 弥一やいちは宮中で、事件の報告が届く空気を見ていた。

 日曜の夕方だった。宮中は静かだった。電報一本で、その静けさが割れた。

 侍従武官じじゅうぶかんが走った。奥の間に入った。出てきたときの顔が白かった。

 弥一は壁として立っていた。

 天皇は犬養を知っていた。犬養は満洲事変の処理に苦しみながら、中国との秘密交渉ひみつこうしょう模索もさくしていた。戦争を話し合いで解決しようとしていた。

 その男が「話せば分かる」と言って殺された。

 翌日、弥一は侍従の口からこぼれた言葉を聞いた。

「陛下は、犬養は気の毒であった、とおっしゃった」

 気の毒であった。

 それだけだった。

 首相が自国の軍人に射殺されて、天皇が口にしたのはその一語だけだった。

 怒りではない。命令でもない。処罰の指示でもない。

 弥一は田中義一のことを思い出した。あのとき天皇は怒った。「前と話が違う」と。そして怒るなと言われた。

 犬養が殺されても、天皇はもう怒らない。怒ることをやめた人間の口から出る言葉は、「気の毒であった」だけだ。

 弥一は壁として立ちながら、目の奥が熱くなった。

 犬養が気の毒なのではない。

 「気の毒であった」としか言えない天皇が、気の毒なのだ。

 ──廟堂びょうどう

 犬養の死で、政党内閣せいとうないかくが終わった。

 大正デモクラシー以来、曲がりなりにも続いてきた仕組み。政党が選挙で勝ち、党首が首相になる。国民の意思が政治に届く回路。

 その回路が、銃弾で断ち切られた。

 後任の首相には海軍大将の斎藤実さいとうまことが就いた。政党の人間ではない。「挙国一致きょこくいっち内閣」と呼ばれた。

 修は大学の講義で、教授がこう言うのを聞いた。

「政党政治は事実上、終わりました」

 教室が静まった。教授は続けた。

「浜口首相は統帥権の問題で撃たれた。犬養首相は撃たれて亡くなった。これ以降、軍の意向を無視できる首相は現れないでしょう。無視した者がどうなるか、二つの銃弾が証明しました」

 誰も質問しなかった。

 修は教室を見回した。半年前なら、手を挙げて反論する学生がいた。軍国主義を批判する声があった。社会主義を語る声もあった。

 今は誰も手を挙げない。

 質問すること自体が、何かの表明になる空気が教室を満たしていた。

 銃弾は犬養を殺しただけではない。教室の手を殺した。質問を殺した。言葉を殺した。

 話せば分かる、と言った男が殺されたあとの世界では、話すこと自体が危険になる。

 ──ちまた

 修を驚かせたのは、事件のあとの街の空気だった。

 犯人の将校たちに、同情が集まったのだ。

「若い将校たちは国をうれえて立ち上がったのだ」

「腐った政党政治を正そうとしたのだ」

「動機は純粋だ」

 修は大学からの帰り道、松田がいた飯屋に寄った。松田の代わりに入った若い男が皿を洗っている。

「五一五事件、どう思います」修は聞いた。

 男は皿をきながら答えた。

「将校さんらは偉いと思いますわ。政治家は何もせんと金ばっかり取る。軍の人らのほうがよっぽど国のこと考えとります」

 修は何も言い返せなかった。

 この男は犬養の「話せば分かる」を知っているだろうか。知っていても、「問答無用」のほうに共感しているのだろうか。

 松田もこう考えるのだろうか。満洲で「英霊の土地」と言われて「そうかな」と思ってしまう松田は、首相を殺した将校を「偉い」と思うのだろうか。

 修は飯を頼んだが、半分残した。

 裁判が始まった。

 軍法会議ぐんぽうかいぎだ。民間の裁判所ではない。軍が軍を裁く。

 その裁判に、全国から減刑嘆願げんけいたんがんの署名が届いた。

 三十五万通。

 修は新聞でその数を見たとき、めまいがした。

 三十五万。首相を殺した犯人を許してくれと、三十五万の人間が名前を書いた。

 さらに新聞は報じた。嘆願書の中に、血で書かれた手紙があった。自分の指を切って同封した者がいた。

 指。

 首相を殺した人間を助けるために、自分の指を切る。

 修は吐き気がした。

 これは同情ではない。何か別のものだ。熱狂でもない。もっと深いところにある、言葉を捨てたいという衝動しょうどうだ。話し合いに疲れた人々が、銃弾のほうに走っていく。言葉より行動。議論より暴力。その流れに自分の指を一本差し出す。

 修は下宿の机で、自分の手を見た。十本の指がある。この指で法律の教科書をめくり、六法全書ろっぽうぜんしょを引き、答案を書いた。言葉を信じて四年間勉強した。

 その言葉の国が、壊れかけている。

 判決は禁錮きんこ十五年だった。

 死刑ではなかった。

 首相を殺して、十五年。

 弥一は宮中でその結果を聞いた。

 張作霖の河本大作は停職。五一五の将校たちは禁錮十五年。

 外国の要人を殺して停職。自国の首相を殺して禁錮十五年。

 罰されない。やはり罰されない。

 弥一は源太げんたの声を聞いた。

 ──嘘をついたら燃えるんや。

 だが今は嘘をつく必要すらない。堂々と殺して、国民が味方して、軽い刑で済む。隠す必要がない。恥じる必要がない。

 源太の時代、嘘は恥の意識と共にあった。隠すということは悪いと分かっているということだ。

 今は隠さない。悪いとすら思わない。

 弥一はそれが、嘘よりも怖いと思った。

 嘘をつく国は、まだ正しさを知っている。正しさを知っているから嘘をつく。

 嘘をつかなくなった国は、正しさを捨てた国だ。

 修は大学を卒業した。二十一歳。

 徴兵検査ちょうへいけんさを受けた。甲種合格こうしゅごうかく

 弥一は修を送り出す日、源太がかつて弥一を送り出したときのことを重ねていた。

 源太は何も言えなかった。

 弥一も何も言えなかった。

 だが今回は、一つだけ言った。

「修。見ることをやめるな。何があっても」

「分かっとる」

「おまえは字が読める。法律を学んだ。報告書の裏が読める。それはお祖父じいちゃんにもわしにもなかった力や。使え」

「使う」

「けどな」弥一は修の目を見た。「字が読めるいうのは、だまされやすいいうことでもある。上手うまく書かれた嘘は、字が読める人間ほど信じる。それだけは忘れるな」

 修は頷いた。

 門を出るとき振り返った。弥一が立っていた。六十一歳の細い体。源太が弥一を見送ったときと同じ場所に立っている。

 修は頭を下げた。

 弥一は片手を上げた。小さく。

 源太がそうしたように。

 修は歩き出した。

 話せば分かる、と言った男が殺された国の軍隊に、修は入っていく。

 ふところには松田の手紙がある。引き出しには法律の教科書がある。

 どちらが役に立つのか、まだ分からなかった。

第十八話 了

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