第十八話 五一五事件
満洲国が建国を宣言した二か月後。日本じゅうが満洲の地図に目を奪われていたそのさなかに、東京で血が流れた。
昭和七年五月十五日。日曜日。
修は下宿の部屋で窓を開けていた。五月の風は暖かかった。夕方になって、階下の大家が蒼い顔で上がってきた。
「柏木さん。首相が撃たれた」
修は椅子から立ち上がった。
「誰にです」
「海軍の若い将校と、陸軍の士官候補生。ラジオで言うとった。官邸に押し入って撃ったて」
修は靴を履いて通りに出た。号外を探した。
通りは騒然としていた。人だかり。新聞売りの叫び声。号外の紙が手から手に渡っていく。
修は一枚を掴んだ。
「犬養首相、凶弾に倒る」
◇
号外を読みながら、修は立ったまま動けなくなった。
事件の経緯はこうだった。
午後五時半ごろ、海軍の若い将校九名と陸軍の士官候補生数名が、三台の車に分乗して首相官邸に向かった。門を突破し、銃を手に邸内に踏み込んだ。
犬養毅は応接室にいた。
将校たちが銃を構えて入ってきたとき、犬養はこう言った。
「まあ待て。撃つのはいつでもできる。話を聞こう。話せば分かる」
七十七歳の老人が、銃口の前で話そうとした。
将校の一人が答えた。
「問答無用」
銃声が鳴った。
犬養は頭部と腹部に被弾した。即死ではなかった。撃たれた直後、犬養は女中に言ったという。
「いまの若い者を連れてこい。よく話して聞かすから」
撃たれてなお、話そうとした。
だが犬養は夜半に死んだ。
◇
修は号外を折り畳んで、下宿に戻った。
机の前に座って、二つの言葉を並べた。
話せば分かる。
問答無用。
七十七歳の政治家が言葉で解決しようとした。二十代の将校が銃弾で遮った。
言葉と銃弾が向き合って、銃弾が勝った。
修は法律を学んでいる。法律とは言葉だ。条文という言葉で社会を動かす仕組みだ。その言葉が、銃弾一発で黙らされた。
修はこのとき、大学で学んだことのすべてが揺らぐのを感じた。
◇
──御前。
弥一は宮中で、事件の報告が届く空気を見ていた。
日曜の夕方だった。宮中は静かだった。電報一本で、その静けさが割れた。
侍従武官が走った。奥の間に入った。出てきたときの顔が白かった。
弥一は壁として立っていた。
天皇は犬養を知っていた。犬養は満洲事変の処理に苦しみながら、中国との秘密交渉を模索していた。戦争を話し合いで解決しようとしていた。
その男が「話せば分かる」と言って殺された。
翌日、弥一は侍従の口からこぼれた言葉を聞いた。
「陛下は、犬養は気の毒であった、と仰った」
気の毒であった。
それだけだった。
首相が自国の軍人に射殺されて、天皇が口にしたのはその一語だけだった。
怒りではない。命令でもない。処罰の指示でもない。
弥一は田中義一のことを思い出した。あのとき天皇は怒った。「前と話が違う」と。そして怒るなと言われた。
犬養が殺されても、天皇はもう怒らない。怒ることをやめた人間の口から出る言葉は、「気の毒であった」だけだ。
弥一は壁として立ちながら、目の奥が熱くなった。
犬養が気の毒なのではない。
「気の毒であった」としか言えない天皇が、気の毒なのだ。
◇
──廟堂。
犬養の死で、政党内閣が終わった。
大正デモクラシー以来、曲がりなりにも続いてきた仕組み。政党が選挙で勝ち、党首が首相になる。国民の意思が政治に届く回路。
その回路が、銃弾で断ち切られた。
後任の首相には海軍大将の斎藤実が就いた。政党の人間ではない。「挙国一致内閣」と呼ばれた。
修は大学の講義で、教授がこう言うのを聞いた。
「政党政治は事実上、終わりました」
教室が静まった。教授は続けた。
「浜口首相は統帥権の問題で撃たれた。犬養首相は撃たれて亡くなった。これ以降、軍の意向を無視できる首相は現れないでしょう。無視した者がどうなるか、二つの銃弾が証明しました」
誰も質問しなかった。
修は教室を見回した。半年前なら、手を挙げて反論する学生がいた。軍国主義を批判する声があった。社会主義を語る声もあった。
今は誰も手を挙げない。
質問すること自体が、何かの表明になる空気が教室を満たしていた。
銃弾は犬養を殺しただけではない。教室の手を殺した。質問を殺した。言葉を殺した。
話せば分かる、と言った男が殺されたあとの世界では、話すこと自体が危険になる。
◇
──巷。
修を驚かせたのは、事件のあとの街の空気だった。
犯人の将校たちに、同情が集まったのだ。
「若い将校たちは国を憂えて立ち上がったのだ」
「腐った政党政治を正そうとしたのだ」
「動機は純粋だ」
修は大学からの帰り道、松田がいた飯屋に寄った。松田の代わりに入った若い男が皿を洗っている。
「五一五事件、どう思います」修は聞いた。
男は皿を拭きながら答えた。
「将校さんらは偉いと思いますわ。政治家は何もせんと金ばっかり取る。軍の人らのほうがよっぽど国のこと考えとります」
修は何も言い返せなかった。
この男は犬養の「話せば分かる」を知っているだろうか。知っていても、「問答無用」のほうに共感しているのだろうか。
松田もこう考えるのだろうか。満洲で「英霊の土地」と言われて「そうかな」と思ってしまう松田は、首相を殺した将校を「偉い」と思うのだろうか。
修は飯を頼んだが、半分残した。
◇
裁判が始まった。
軍法会議だ。民間の裁判所ではない。軍が軍を裁く。
その裁判に、全国から減刑嘆願の署名が届いた。
三十五万通。
修は新聞でその数を見たとき、めまいがした。
三十五万。首相を殺した犯人を許してくれと、三十五万の人間が名前を書いた。
さらに新聞は報じた。嘆願書の中に、血で書かれた手紙があった。自分の指を切って同封した者がいた。
指。
首相を殺した人間を助けるために、自分の指を切る。
修は吐き気がした。
これは同情ではない。何か別のものだ。熱狂でもない。もっと深いところにある、言葉を捨てたいという衝動だ。話し合いに疲れた人々が、銃弾のほうに走っていく。言葉より行動。議論より暴力。その流れに自分の指を一本差し出す。
修は下宿の机で、自分の手を見た。十本の指がある。この指で法律の教科書をめくり、六法全書を引き、答案を書いた。言葉を信じて四年間勉強した。
その言葉の国が、壊れかけている。
◇
判決は禁錮十五年だった。
死刑ではなかった。
首相を殺して、十五年。
弥一は宮中でその結果を聞いた。
張作霖の河本大作は停職。五一五の将校たちは禁錮十五年。
外国の要人を殺して停職。自国の首相を殺して禁錮十五年。
罰されない。やはり罰されない。
弥一は源太の声を聞いた。
──嘘をついたら燃えるんや。
だが今は嘘をつく必要すらない。堂々と殺して、国民が味方して、軽い刑で済む。隠す必要がない。恥じる必要がない。
源太の時代、嘘は恥の意識と共にあった。隠すということは悪いと分かっているということだ。
今は隠さない。悪いとすら思わない。
弥一はそれが、嘘よりも怖いと思った。
嘘をつく国は、まだ正しさを知っている。正しさを知っているから嘘をつく。
嘘をつかなくなった国は、正しさを捨てた国だ。
◇
修は大学を卒業した。二十一歳。
徴兵検査を受けた。甲種合格。
弥一は修を送り出す日、源太がかつて弥一を送り出したときのことを重ねていた。
源太は何も言えなかった。
弥一も何も言えなかった。
だが今回は、一つだけ言った。
「修。見ることをやめるな。何があっても」
「分かっとる」
「おまえは字が読める。法律を学んだ。報告書の裏が読める。それはお祖父ちゃんにもわしにもなかった力や。使え」
「使う」
「けどな」弥一は修の目を見た。「字が読めるいうのは、騙されやすいいうことでもある。上手く書かれた嘘は、字が読める人間ほど信じる。それだけは忘れるな」
修は頷いた。
門を出るとき振り返った。弥一が立っていた。六十一歳の細い体。源太が弥一を見送ったときと同じ場所に立っている。
修は頭を下げた。
弥一は片手を上げた。小さく。
源太がそうしたように。
修は歩き出した。
話せば分かる、と言った男が殺された国の軍隊に、修は入っていく。
懐には松田の手紙がある。引き出しには法律の教科書がある。
どちらが役に立つのか、まだ分からなかった。
第十八話 了




