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第十六話 満州事変(一)


 昭和六年九月十八日。夜。

 おさむ下宿げしゅくの机に向かって、法律の教科書を読んでいた。二十歳だった。

 翌朝、新聞を見て手が止まった。

 「奉天ほうてん近郊にて南満洲鉄道爆破さる。支那しなの正規軍の仕業しわざと断定。関東軍、自衛のため出動」

 修は新聞を置いた。

 鉄道が爆破された。

 三年前、同じ場所で、同じものが爆破されている。あのときは張作霖ちょうさくりんが乗った列車だった。今度は線路そのものだ。

 あのときの犯人は「不明」とされた。だが実際には関東軍だった。弥一やいちがそう言っていた。

 今度も、同じではないのか。

 修は新聞をもう一度読んだ。「支那の正規軍の仕業と断定」。断定。誰が断定したのか。関東軍が断定したのだ。爆破されたと主張しているのも関東軍。出動したのも関東軍。断定したのも関東軍。

 全部、同じ人間がやっている。

 ──御前ごぜん

 弥一やいちは宮中で、事件の報告が天皇に届く過程を見ていた。

 最初の報告は遅かった。

 九月十八日の夜に爆破が起き、関東軍が動いた。だが天皇が事態を知ったのは、十九日になってからだった。

 弥一は廊下で、侍従武官じじゅうぶかんが書類を持って走るのを見た。その書類が昨夜のうちに届いていなかったことを、弥一は足音の遅れで悟った。

 天皇は知らされていなかった。

 関東軍が戦闘を始めて、街を一つ占領したあとで、天皇は知った。

 最初に届いたのは「自衛のための出動」という言葉だった。

 自衛。その一語がどこまで真実かを確かめるすべを、天皇は持っていない。届いた言葉をそのまま受け取るしかない。

 弥一はかつて辰次たつじの手紙を読んで思ったことを、もう一度思った。

 天皇が読むのは、整えられた言葉だけだ。しかも、遅れてくる言葉だ。

 ──廟堂びょうどう

 若槻礼次郎わかつきれいじろう内閣は、事件の直後に方針を出した。

 不拡大ふかくだい

 これ以上、戦線を広げるな。現状で止めろ。

 閣議かくぎで決まった。政府の方針だ。

 弥一は宮中で、この方針が伝えられる空気を感じた。侍従武官が「不拡大」という言葉を口にした。天皇もそれを了承した。

 だが弥一は、同時に別の空気も感じていた。

 侍従武官府の廊下で、ある将校がこう言った。

「不拡大で止まるかな」

 止まらなかった。

 ──幕僚ばくりょう

 満州事変を計画したのは、関東軍の参謀二人だった。

 石原莞爾いしわらかんじ中佐と板垣征四郎いたがきせいしろう大佐。

 弥一がこの名前を宮中の廊下で聞いたのは、事件から数日後のことだった。

「石原が描いた絵だそうだ」

 石原は理論家りろんかだった。「最終戦争論さいしゅうせんそうろん」というものを書いている。日本とアメリカがいずれ決戦を行う。そのために満洲を取って資源と国力の基盤きばんにする。

 理論があった。計画があった。実行力があった。

 なかったのは、許可きょかだけだった。

 政府の許可。天皇の許可。誰の許可も得ていない。

 だが許可なく始めた戦争を、誰が止めるのか。

 止める方法は、憲法のどこにも書いてない。

 天皇は黙っている。田中のとき怒って、怒るなと言われたから。

 政府は不拡大と言っている。だが軍は聞かない。聞かない軍を処罰する力が政府にない。統帥権は天皇のものだ。政府のものではない。

 天皇は黙っている。

 誰も手綱を持っていない。

 馬は全速力で走っている。

 関東軍は止まらなかった。

 九月十九日、奉天を占領。長春ちょうしゅんを占領。

 吉林きつりんを占領。

 政府が「止まれ」と言った。関東軍は走りつづけた。

 十月、錦州きんしゅうを爆撃した。

 政府は爆撃を知らなかった。知らないまま爆撃された。

 修は新聞を毎日読んだ。日付を追うたびに、関東軍の占領地が広がっていく。地図が塗り替えられていく。新聞には「関東軍、果敢かかんに前進」と書いてある。「邦人ほうじんの生命財産を守るため」と書いてある。

 だが政府は不拡大と言った。不拡大と言った政府の方針を、軍が無視している。そのことを新聞は書かなかった。

 修は弥一の言葉を思い出した。

 ──新聞に書いてあることと、書いてないことの両方を見ろ。

 書いてあるのは「果敢に前進」。書いてないのは「政府の方針を無視して前進」。

 同じ事実が、書き方一つで正反対になる。

 修は新聞を握りしめた。紙がしわになった。

 十月の末、松田まつだから手紙が来た。

 松田はあの飯屋を辞めて軍に入り、関東軍に配属されていた。修に一度だけ「満洲は広い。飯は三食出る」と書いてきたきり、九月十八日以降は音沙汰おとさたがなかった。

 弥一の友人、辰次の手紙が途絶えたときと同じだった。修はその話を弥一から何度も聞いている。手紙が来ないということは、書けない状況にいるということだ。

 六週間ぶりの手紙は短かった。検閲の跡があった。すみで塗りつぶされた箇所かしょが三か所あった。

「生きとる。九月十八日の夜、急に叩き起こされた。完全武装で集合。何が起きたか分からんまま走った。走って、北大営ほくだいえいいう支那の兵営を攻撃した」

「攻撃命令は誰が出したか分からん。小隊長しょうたいちょうもよう分かっとらんかった。上から来た、とだけ言った。上いうのがどの上か聞いたら怒鳴られた」

「夜中に銃声がした。こっちが撃っとるのか向こうが撃っとるのか最初は分からんかった。走った。壁を越えた。中に支那の兵がおった。寝間着ねまきのまま逃げとる奴もおった。寝込みを襲ったんやと、そこでやっと分かった」

「翌朝、奉天の街を占領した。あっという間やった。抵抗ていこうはほとんどなかった」

 手紙はそこで終わっていた。塗りつぶされた三か所に何が書いてあったのか、修には分からなかった。

 修はこの手紙を読んで、新聞との距離を測った。

 新聞は「自衛のため出動」と書いた。松田は「寝込みを襲った」と書いた。

 天皇に届いたのは「自衛のための出動」だ。松田の手紙は届いていない。永遠に届かない。

 届く言葉と、届かない言葉。その距離が戦争の形を決めている。

 修は手紙を弥一に見せた。

 弥一は六十歳になっていた。目が悪くなり、松田の字を読むのに顔を紙に近づけた。

 読み終えて、弥一は手紙を畳んだ。

「修。この手紙に書いてある『上から来た』いうのは嘘や」

「嘘?」

「東京から命令が出とらん。政府は知らなんだ。大臣も知らなんだ。関東軍が勝手にやったんや」

「なんで分かるんです」

「宮中の空気で分かる」

 弥一は窓の外を見た。

「張作霖のときと同じや。あのときも関東軍が勝手にやった。そして処罰されんかった。処罰されんかったから、もう一回やった。今度はもっと大きくやった。人一人殺すんやなくて、街を一つ取った」

 修は黙った。

「お父。政府は止めへんのか」

「止められるかどうかや。政府が止めろ言うても、軍が聞かなんだらどうする。憲法のどこにも、政府が軍を止める方法は書いてない」

 あの問い。四十二年前の問い。源太げんたと弥一が新聞を読んで首をかしげた問い。

 書いてないものは、どうなるのか。

 答えが、満洲の野原で出た。

 書いてないものは、書いてない側が勝つ。止める方法が書いてないなら、止められない。

 十二月。若槻内閣が倒れた。

 不拡大を主張した内閣が、不拡大を実行できずに倒れた。

 代わって犬養毅いぬかいつよしが首相になった。

 だが関東軍は止まらなかった。

 翌年一月、錦州を占領。

 二月、ハルビンを占領。

 三月、満洲国の建国を宣言した。

 清朝最後の皇帝こうてい溥儀ふぎを担ぎ出して、傀儡国家かいらいこっかを作った。

 政府はそれを追認ついにんした。

 不拡大と言った。無視された。内閣が倒れた。新しい内閣が来た。そして追認した。

 やったもの勝ちだった。

 昭和七年の春、松田から二通目の手紙が届いた。

「修さん、満洲国いうものができた。わしらが作ったことになっとる。作ったいう実感はない。走って、撃って、旗を立てて、それで国ができたと言われた」

「街で支那の人らを見る。怖い顔をしとる。怒っとるのかおびえとるのか分からん。でもこっちを見る目は分かる。あの目は歓迎しとる目やない」

「わしの小隊長が言った。ここは十万の英霊で買った土地や、て。日露で死んだ兵隊の命で買うたんやと。それを守るのがわしらの仕事やと」

「修さん、わしはよう分からん。十万の英霊て、わしの知っとる人やない。わしは飯が食えるから軍に入った。英霊のために来たんやない。でもそう言われたら、そうかなと思ってしまう。思ってしまう自分が怖い」

 修はこの手紙を何度も読んだ。

 十万の英霊で買った土地。

 弥一が宮中で聞いた言葉だ。日露のあとに誰かが言い始めた言葉だ。辰次は英霊に数えられている。「死んだらあかん」と書いていた男が、土地を買う代金に変えられた。

 今、松田がその言葉を現地で聞いている。小隊長が兵士に刷り込んでいる。

 死んだ者の沈黙が、生きている者の行動の根拠になっている。

 反論する声は墓の下にある。

 弥一は宮中で、事件から半年間の空気を見つめてきた。

 天皇は署名した。満洲国の承認ではない。だが軍の行動を止める命令も出さなかった。

 二度と介入しないと決めた天皇は、決めた通りに黙っていた。

 黙ったまま、地図が変わった。

 弥一は廊下で、ある侍従が別の侍従にこう言うのを聞いた。

「陛下は、苦しんでおられる」

「しかし、何もおっしゃらない」

「おっしゃれないのだ」

 弥一は壁として聞いた。

 おっしゃれない。言えない。

 言えば田中のようになる。あるいは田中よりひどいことになる。天皇が軍を止めろと言ったとき、軍が従わなかったら。天皇の言葉が無視されたら。

 そのとき天皇の権威けんいは終わる。

 だから言えない。言えないから黙る。黙ると、軍は「天皇は認めている」と読む。

 完璧なわなだった。

 この罠を仕掛けたのは誰か。関東軍か。陸軍か。政治家か。

 誰でもない。

 罠を仕掛けたのは、四十二年前の憲法だ。書かなかった隙間だ。埋めていた人間が死んだあとの空洞くうどうだ。

 誰かが悪いのではない。

 誰も手綱を持たなかった。

 それだけのことが、国を一つ作り、地図を塗り替え、この先十四年の戦争の入り口を開いた。

 修は下宿の窓から、東京の空を見た。

 昭和七年の春だった。桜が咲いている。街は普通に動いている。電車が走り、人が歩き、子どもが笑っている。

 だが満洲では国が一つ作られた。政府の方針は無視された。憲法は機能しなかった。

 修は窓を閉めて、机に向かった。

 松田の手紙を引き出しから出した。辰次の万年筆と、源太の手紙は、弥一の懐にある。修の引き出しには松田の手紙がある。

 三代にわたって、柏木家の男は手紙を持っている。戦場から来た手紙を。

 その手紙に書いてある言葉と、天皇に届く報告書に書いてある言葉は、同じ出来事について書いているのに、まるで違う。

 この距離を、修はこれから自分の目で測りにいくことになる。

 だがそれは、もう少し先の話だ。

第十六話 了

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