第十五話 統帥権干犯
昭和五年。修は十九歳で、東京の大学に通っていた。
弥一の息子が大学に行けたのは、中山家の援助があったからだ。源太が中間として仕えた家が、三代を経てもまだ柏木家をつないでいる。
修は法律を学んでいた。憲法の講義で、あの条文を読んだ。
天皇は陸海軍を統帥す。
国務大臣は天皇を輔弼す。
教授がこう言った。
「この二つの条文のあいだには、隙間がある。統帥権と国務大臣の権限の境界が明確でない。これは憲法制定時から指摘されていたが、元老の存在が実質的にこの隙間を埋めていたため、問題は顕在化しなかった」
修はノートの端に書いた。
──お父とお祖父ちゃんが、新聞を読んで首をかしげた問い。
四十一年前、明治二十二年の夜。源太と弥一が新聞を広げて、「軍のことは大臣が決めるんか、天皇が決めるんか、どっちや」と聞いた。答えが書いてなかった。
その「書いてないもの」が、今、政治の武器になろうとしていた。
◇
ロンドン海軍軍縮条約。
昭和五年四月、ロンドンで日本・アメリカ・イギリスが海軍の軍艦の保有量を制限する条約に合意した。
日本の全権は若槻礼次郎。首相は浜口雄幸。
条約の中身は、補助艦──巡洋艦や駆逐艦──の保有比率を対米英七割とするものだった。
海軍軍令部は七割では足りないと主張していた。七割五分なければ国防が成り立たないと。
浜口は七割で受け入れた。
そこで起きたのが、この五文字だった。
統帥権干犯。
野党の政友会と海軍の強硬派が、声を上げた。
軍の編制や兵力量は天皇の統帥権に属する。政府が天皇の裁可を経ずに軍の兵力を決めるのは、統帥権の侵害だ。
憲法の隙間が、鑿のように打ち込まれた。
◇
修は大学の講義室で、この議論を聞いた。
教授は慎重に言葉を選んでいた。
「統帥権が内閣の権限と独立しているかどうかは、憲法の解釈による。伊藤博文の『憲法義解』によれば、統帥権はあくまで天皇大権の一部であり、国務大臣の輔弼とは別の系統とされている。だが、軍の兵力量が政治的判断を含むかどうかは、明文では規定されていない」
修はノートに書きつけた。
──明文では規定されていない。つまり、書いてない。
書いてないから、どちらにも読める。政府の側は「兵力量は国防政策であり、内閣の権限だ」と言う。軍の側は「兵力量は統帥の一部であり、天皇の権限だ」と言う。
どちらも正しい。どちらも間違っている。
書いてないからだ。
修は教室を出たあと、学食で友人の高橋に話した。
「統帥権干犯て、結局どっちが正しいんやろ」
「正しいとか正しくないの問題やないんちゃうか」高橋は味噌汁を啜った。「使えるか使えないかの問題や。軍にとって使える武器が見つかったいうことやろ」
修はその言葉に黙った。
武器。憲法の隙間が武器になった。
銃や大砲ではない。条文の曖昧さが武器になった。
源太が感じた「嫌な予感」は、これだったのだ。
◇
──御前。
弥一は宮中で、この問題がどう扱われているかを感じ取っていた。
天皇は沈黙していた。
統帥権の解釈は天皇自身に関わる問題だ。天皇の権利が侵害されたと言われているのだから、天皇が「そうだ」と言えば浜口内閣は倒れるし、「そうではない」と言えば軍が退く。
だが天皇は何も言わなかった。
田中内閣のとき、天皇は「前と話が違う」と怒った。その結果、内閣が潰れた。そして天皇は「二度と介入しない」と決めた。
今、その決意が効いている。
天皇は黙っている。自分の権利について語ることすらしない。輔弼に従う。大臣が持ってきたものに裁可する。自分では判断しない。
弥一は廊下で、天皇が条約の裁可書に署名するための書類が運ばれるのを見た。
天皇は署名した。条約を認めた。浜口を支持した。
だがそれは声ではなかった。ただの署名だった。
声を出さない天皇。意志を示さない天皇。
明治天皇は声を出さなくても、存在そのものが意志だった。昭和天皇は声を出さないことが意志の放棄に見えた。
弥一は思った。
この人は、自分で自分を縛っている。田中のときの記憶が鎖になっている。怒ったら人が壊れた。だからもう怒らない。
だが怒らない天皇の沈黙を、周りの者が好き勝手に解釈する。天皇が黙っているのは認めているからだ、と。天皇が止めないのは許しているからだ、と。
沈黙は同意ではない。だが沈黙を同意と読み替える者を、止めることもできない。
壁の中の壁。二重の沈黙。
◇
──廟堂。
浜口雄幸は条約を批准させた。
政府が軍に勝った。文民が統帥を押し返した。そう見えた。
だが代償は、すでに動き始めていた。
昭和五年十一月十四日。東京駅。
浜口が列車に乗ろうとしたとき、右翼の青年が拳銃を撃った。
腹部に一発。
浜口は倒れた。即死ではなかった。病院に運ばれて手術を受けた。一命はとりとめた。
修はその日の号外を大学で読んだ。
手が震えた。
首相が撃たれた。軍に逆らった首相が撃たれた。東京駅のプラットフォームで。白昼に。
修は高橋を探した。学食にいた。
「高橋。浜口さんが撃たれた」
「読んだ」
「なんで撃たれたと思う」
「条約やろ。統帥権干犯の話やろ。軍に逆らったから撃たれたんや」
高橋は味噌汁の椀を置いた。
「修。これでもう分かったやろ。政治家が軍に逆らったら殺される国になったんや」
修は反論できなかった。
浜口は翌年、傷がもとで死んだ。銃弾は体を蝕みつづけた。
話し合いより銃。議論より暴力。
その扉が開いた。
◇
──巷。
修の大学の近くに、安い飯屋があった。
そこで住み込みで働いている男がいた。宮城県の農家の三男で、名を松田といった。修より二つ年上の二十一だ。痩せた男だった。冬になると指が赤く腫れて、皿を持つ手が震える。しもやけだった。手袋を買う金がないのだ。
修はこの飯屋に昼も夜もよく来た。松田が盛りをこっそり多くしてくれるからだ。修が食い終わった皿を下げるとき、松田が厨房の隅で残り飯を掻き込んでいるのを何度か見た。飯を出す側が、まかないの残りで腹を満たしている。
ある日、客の引けた夕方の店で、修は松田に聞いた。
「松田さん、実家はどうなん」
松田はカウンターを拭く手を止めた。
「あかんわ。繭が売れへん。米も値ぇ下がって、借金返されへん」
昭和恐慌。世界中を襲った大不況の波が、日本の農村を直撃していた。アメリカの株が暴落し、生糸の輸出が止まった。東北の農家は繭を売って生きていた。繭が売れなければ、金が入らない。
松田はある日、閉店後の厨房で残り飯を食いながら、箸を持つ手を止めてこう言った。
「うちの隣の家な。娘を売ったんや」
修は箸を落とした。
「売った……って」
「金がないんや。借金のかたに、十五の娘を街に出した。知っとるやろ。東北ではようあることや。今年は特にひどい。学校に来ん子が増えとる。女の子から消えていく」
修は何も言えなかった。
東京では条約だ統帥権だと議論している。宮中では天皇が書類に署名している。新聞は政治の駆け引きを書いている。
その同じ国の同じ空の下で、十五の娘が売られている。
「松田さんはどうするん」
「ここで働けるうちは働く。でもな」松田は飯を口に運んだ。「わしも軍に入ろうかと思うとる。兄貴はもう入った。飯が食えるからや。軍に入れば三食出る。給料も出る。実家に仕送りができる」
「軍に」
「東北の農家の倅はみんなそうや。飯屋で皿洗っとるより軍のほうがましなんや。政治家は何もしてくれん。議会は何もしてくれん。軍だけが飯を食わせてくれる」
修はそのとき、ようやく見えた。
統帥権の問題は、条文の解釈の問題ではなかった。
東北の田んぼの問題だった。
農村が飢えている。政治家は助けない。軍に入れば飯が食える。軍に恩義を感じた若者が、軍の論理で考え始める。政治家は無能だ。議会は腐っている。軍が国を正すべきだ。
その若者たちの怒りが、統帥権という武器を手に取ったとき、何が起きるか。
浜口を撃った青年は軍人ではなかった。だが、軍を支持する空気の中にいた。軍に逆らう政治家は撃たれて当然だという空気の中にいた。
空気が人を殺す。
修はそのことを、十九歳の冬に学んだ。
◇
弥一は五十九歳になっていた。
キヨと修と三人で暮らしている。宮中の仕事は続けている。体は弱ってきたが、耳はまだ衰えていない。
ある夜、修が弥一に聞いた。
「お父。統帥権干犯いうのは、要するにお祖父ちゃんとお父が昔新聞読んで首かしげた問いと同じやろ」
弥一は驚いた。修に源太の話をしたことはある。だがここまで正確につなげるとは思っていなかった。
「そうや。同じ問いや」
「あのとき答えが書いてなかった。四十年経っても書いてない。書いてないから、今になって武器にされとる」
「そうや」
「なんで書かんかったんやろ。伊藤博文は賢い人やったんやろ。なんで隙間を残したんやろ」
弥一は考えた。長いこと考えた。
「たぶんな、書かんかったんやない。書けんかったんや」
「なんで」
「天皇が全部持っとるいう建前と、天皇は何もせんいう実態を、一つの文章にするのが無理やったんや。だから隙間を残して、人の手で埋めることにした。伊藤や山県がおるあいだは、人の手で埋められた」
「その人らが死んだ」
「死んだ」
「ほんで隙間がむき出しになった」
「そうや」
修は畳の目を見ていた。
「お父。これ、もう直せへんのやろ」
弥一は答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
◇
昭和五年の暮れ、修が大学から帰ると、近所の質屋に行列ができていた。
正月の金を作るために、着物を質に入れる人たちだった。列は通りの角を曲がっても続いていた。
修は列の中に、松田と同じ顔を見た。しもやけの手。こけた頬。疲れた目。怒りすら残っていない目。
家に帰ると、キヨが夕飯の支度をしていた。おかずは大根の煮物だけだった。
「ごめんな修。今月はこれしか」
「ええよ。十分や」
修は大根を噛んだ。ハナ婆さんの味噌汁の味を思い出した。もう二度と食べられない味を。
通りの向こうでは質屋の列がまだ続いていた。
この国は勝ちつづけてきた。日清に勝った。日露に勝った。第一次大戦で焼け太りした。満洲に鉄道を敷いた。
勝ちつづけて、豊かにならなかった。
勝ちつづけた国の質屋に、正月の金を作る列ができている。
松田の姉は売られていないだろうか。松田は本当に軍に行くのだろうか。
修は大根を噛みながら、来年のことを考えた。
来年。昭和六年。
満洲で、もう一度鉄道が爆破される年。
第十五話 了




