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第十四話 張作霖爆殺──天皇が怒り、そして黙った


 昭和三年六月四日の朝、奉天ほうてん近くの鉄橋が爆破された。

 列車が通過する瞬間だった。

 乗っていたのは張作霖ちょうさくりん。満洲の軍閥ぐんばつを率いる男だ。北京ペキンから奉天に戻る途中だった。

 張作霖は重傷を負い、数時間後に死んだ。

 新聞は「満洲某重大事件まんしゅうぼうじゅうだいじけん」と報じた。犯人は分からないと書いた。

 おさむは十七歳だった。新聞を毎日読んでいる。

「お父、これ誰がやったん」

 弥一やいちはしを止めた。

「新聞に何て書いてある」

「犯人不明て。でもな、おかしいねん。鉄橋の爆破やで。あの辺の鉄橋は日本の管轄かんかつやろ。関東軍かんとうぐんがおるとこやろ。日本の軍がいるところで鉄橋が爆破されて、犯人が分からんいうのはおかしないか」

 弥一は修の顔を見た。

 新聞に書いてあることと、書いてないこと。その両方を見ろと言ったのは自分だ。

 修はそれを実行している。十七歳の目で、行間ぎょうかんを読み始めている。

「お父、知っとるんやろ」

「知らん」

「嘘や」

「嘘やない。知らん。知らんけど、思うことはある」

「何」

 弥一は味噌汁をすすった。

「シベリアのときと同じ匂いがする」

「シベリア?」

「政府が知らんところで、軍が勝手にやった匂いや」

 修は黙った。新聞を畳んで、もう一度広げた。

「犯人不明、か」

 修はつぶやいた。その声に、もう子どもの響きはなかった。

 弥一は宮内省くないしょうの下級職員として宮中に残っていた。五十七歳。廊下を歩く速度は落ちたが、耳はおとろえていなかった。

 張作霖の事件について、宮中では不自然な沈黙があった。

 普通の事件なら侍従武官じじゅうぶかんが報告し、書類が動き、処理される。だがこの事件は違った。書類が動かない。報告が中途半端ちゅうとはんぱで止まる。名前が出てこない。

 弥一が断片を拾い集めてようやく分かったのは、事件から数週間後のことだった。

 やったのは関東軍だった。

 関東軍の参謀さんぼう河本大作こうもとだいさく大佐が計画し、実行した。

 張作霖は日本の傀儡かいらいだった。日本が満洲を支配するために利用していた男だ。だが張作霖は次第に言うことを聞かなくなっていた。邪魔になった。だから殺した。

 日本の軍人が、日本が利用していた人間を、日本の政府に黙って殺した。

 弥一は佐吉さきちの声を聞いた。

 ──知らせんほうが楽や。

 だが今度は違った。知らせないのではなく、知られてしまったのだ。天皇にも。

 ──御前ごぜん

 昭和天皇は知った。

 弥一が宮中の空気から感じ取ったのは、怒りだった。

 明治天皇の怒りを弥一は知らない。大正天皇の怒りもなかった。だが昭和天皇の怒りは、廊下にまで漏れた。

 漏れた、というのは正確ではない。声が聞こえたわけではない。だが侍従武官の足取りが変わった。宮中の空気が硬くなった。書類を持つ手が震えている者がいた。

 事件の処理は田中義一たなかぎいち首相にゆだねられていた。

 田中は最初、天皇にこう奏上した。

「真相を徹底的てっていてきに調査し、関係者を厳正げんせいに処分いたします」

 天皇はそれを了承した。

 弥一はその前後の空気を感じていた。天皇は怒っていたが、田中が処分すると言ったことで、ひとまず収まった。

 だが月がった。二か月、三か月。処分が行われない。

 弥一が中山家経由で聞いた話はこうだった。

「陸軍が反対しとるんや。身内の処分を。田中さんは陸軍出身やろ。古巣ふるすに逆らえんのや」

 陸軍が反対している。関東軍の参謀が政府の了承なく外国の要人を殺したのに、その参謀を処分しようとしたら、陸軍が反対している。

 弥一は背筋が冷えた。

 シベリアのとき、政府が撤兵を求めても軍が答えなかった。あのときはまだ「答えない」だけだった。今度は「処分するな」と言っている。拒否している。公然と。

 機械が運転手なしで走り始めている。山県が死んで四年。手綱はもう誰の手にもない。

 ──廟堂びょうどう

 田中義一は追い詰められていた。

 天皇には「処分する」と言った。陸軍は「処分するな」と言っている。

 弥一は田中が宮中に来るのを何度か見ている。最初に来たときはまだ背筋が伸びていた。二度目に来たとき、歩幅ほはばが少し狭くなっていた。三度目に来たとき、目の下にくまがあった。

 田中は天皇にもう一度奏上した。

 弥一はこのときの内容を、のちに侍従武官府の廊下で断片的に聞いた。

 田中は方針を変えていた。

 関係者の厳正な処分ではなく、行政処分──つまり軽い処分で済ませたいと言った。事件の真相についても、曖昧あいまいにしたいと言った。

 天皇が言ったとされる言葉が、宮中にこだまのように残っていた。

「前と話が違うではないか」

 弥一は廊下で、その言葉の残響ざんきょうを聞いた。直接聞いたのではない。侍従武官が別の者にそう伝えるのを、壁越ごしに聞いた。

 前と話が違う。

 天皇が怒った。約束を破った首相に。嘘をついた首相に。

 弥一は源太の言葉を思い出した。

 ──嘘をついたら燃えるんや。

 燃えた。田中が燃えた。

 田中義一は内閣を総辞職した。

 その数か月後、田中は死んだ。狭心症きょうしんしょうだった。だが宮中では「天皇にしかられて死んだ」とささやかれた。

 弥一は田中の最後の参内さんだいを見ている。宮中から出てきた田中の背中は、三度目よりさらに小さくなっていた。丸まっていた。人間が壊れていくのを、弥一は壁として見ていた。

 だが物語はここで終わらなかった。

 ここから先が、九十三年間で最も重い一行になった。

 天皇は、反省した。

 弥一がこのことを知ったのは、ずっとあとのことだ。だが宮中の空気の変化は、このときすでに感じていた。

 田中が辞めたあと、天皇の態度が変わった。

 それまでの天皇は、報告に対して質問をした。「なぜだ」「どうするのか」と問いかけた。関東大震災のときのように。

 それが止んだ。

 報告が来ても、天皇は頷くだけになった。質問しなくなった。意見を言わなくなった。

 弥一は廊下でその変化を感じていた。奥の間から聞こえていた天皇の声が、減った。侍従武官の奏上に対する返答が短くなった。

 何が起きたのか。

 弥一が断片をつなぎ合わせて理解したのは、こういうことだった。

 天皇の周囲の者たち──侍従長じじゅうちょう元老げんろう西園寺さいおんじ──が、天皇にこう進言した。

 あのように強く首相を叱責しっせきするのは、立憲君主りっけんくんしゅとして行き過ぎではないか。天皇は輔弼ほひつに従って裁可する立場であり、自ら政治を動かすべきではない。

 天皇はそれを受け入れた。

 そして決めた。

 二度と、このようなことはしない。

 二度と、自分の意志で政治に口を出さない。

 輔弼に従う。大臣が言うことに従う。軍が言うことに従う。自分は裁可するだけの存在になる。

 弥一はその決意を直接聞いたわけではない。だが空気が変わったことは確かだった。宮中の天皇は、それまでより静かになった。静かで、遠くなった。

 壁からは、天皇がさらに奥に退いたように見えた。

 御所の中の御所。二重の壁の向こう。

 弥一はそのことを考えつづけた。

 天皇が怒った。当然の怒りだった。軍が勝手に外国の要人を殺し、首相がそれを処罰すると約束して、約束を破った。怒らないほうがおかしい。

 だが怒ったことが「行き過ぎ」だと言われた。

 怒るなと。口を出すなと。

 天皇はそれに従った。

 従った結果、何が残ったか。

 関東軍の河本大作は停職ていしょくになった。それだけだった。人を殺して停職。暗殺を計画・実行して停職。

 軍はこう学んだ。

 やっても、ばつされない。

 政府が処分しようとしても、軍が反対すればつぶせる。天皇が怒っても、周囲が天皇を止める。

 やれる。やっていい。止める者はいない。

 弥一はその構造を、壁の中から見ていた。

 山県が死んで手綱が消えた。天皇が一度だけ手綱を握ろうとして、握るなと言われた。

 もう誰も握らない。

 馬は走りつづける。

 修はこの事件の顛末てんまつを、新聞だけでは理解できなかった。

 新聞は「田中内閣総辞職」と書いた。理由は「政局の混乱」とだけ書かれていた。張作霖の事件との関係は明確にされなかった。

 修は弥一に聞いた。

「お父。田中さんはなんで辞めたん。新聞には政局の混乱としか書いてへん」

 弥一はしばらく黙っていた。

「修。おまえは前に聞いたな。犯人不明はおかしいて」

「うん」

「犯人が分かっとっても犯人不明と書く新聞がある。首相が辞めた本当の理由を書かん新聞がある。おまえはそれを分かり始めとる」

「分かり始めとるけど、分かったところでどうしたらええか分からん」

 弥一は修を見た。

「それでええ。分かった上で、どうしたらええか分からんいうのが、いちばん正しい」

「正しいけど苦しい」

「苦しいのが正しいんや」

 修は畳んだ新聞を見ていた。

 十七歳の修には、その苦しさの意味がまだつかみきれていなかった。

 だがこの会話を、修は三年後に思い出すことになる。

 満洲の野原で、もう一度鉄道が爆破される夜に。

第十四話 了

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