第十三話 関東大震災
修の最初の記憶は、揺れだった。
大正十二年九月一日。正午の少し前。
十二歳の修は、台所で母のキヨと昼飯を食べていた。ハナ婆さん──父の母方の祖母──は奥の部屋で横になっていた。八十を超えて、もうほとんど起き上がれない。
最初に茶碗が跳ねた。
味噌汁が畳にこぼれた。修はそれを拭こうとして、体が浮いた。浮いたのではない。畳のほうが沈んだのだ。
地震だ、とキヨが叫んだ。
修は生まれてから何度か地震を経験している。だがこれは違った。揺れが止まらない。横に揺れたかと思うと縦に突き上げる。柱が軋む。壁土が落ちる。天井から砂が降る。
キヨが修の手を引いて庭に出た。
「ハナお母さま!」キヨが振り返った。
家が歪んでいた。戸が外れて倒れていた。奥の部屋の入り口が潰れかけている。
修は走った。奥の部屋に走った。
「修! 行ったらあかん!」
キヨの声が聞こえた。聞こえたが止まらなかった。
部屋の中は暗かった。梁が一本、斜めに落ちていた。布団の上に土埃が積もっている。
ハナ婆さんは布団の中にいた。梁の端が布団のすぐ横に落ちていた。当たっていなかった。
「ばあちゃん。出よ。出なあかん」
ハナは目を開けていた。修を見た。口を動かした。聞き取れなかった。
修はハナの腕を引いた。軽かった。驚くほど軽かった。骨と皮だけの体だった。
庭に出たとき、二度目の大きな揺れが来た。
家が潰れた。
修が三秒前までいた部屋の天井が、布団の上に落ちた。
キヨがハナを抱きかかえた。三人で庭の真ん中にしゃがんだ。地面が揺れつづけていた。近所の家が崩れる音がした。瓦が割れる音がした。どこかで女の悲鳴が聞こえた。
修はハナの手を握っていた。ハナの手は冷たかった。いつも冷たかった。
揺れが収まったのは、どれくらい経ってからか分からない。
修が顔を上げたとき、空が赤かった。
火だった。
東京が燃え始めていた。
◇
修はこの日から三日間のことを、生涯断片でしか思い出せなかった。
つながった記憶ではなく、場面が一枚ずつ浮かぶ。
崩れた家の前で、隣の男が素手で瓦礫をどかしている。その下から子どもの足が見えている。動かない足。
道いっぱいに人が歩いている。みんな同じ方向に歩いている。荷物を背負った人。子どもを抱いた女。着物の裾が破れた老人。誰も走っていない。走る気力がないのだ。
川に人が浮いている。生きている人と、死んでいる人が同じ水の上にいる。
空が一日中赤い。夜になっても赤い。火が消えないからだ。
風が熱い。九月の風が熱い。火事の風だ。
修はキヨの手を握って歩いた。ハナは修の背中におぶった。軽かった。軽すぎて、本当に人間を背負っているのか分からなくなるほどだった。
三人は上野の方角に逃げた。途中で水を分けてもらった。握り飯をもらった。
ハナは水を飲まなかった。握り飯も食べなかった。
二日目の朝、修が目を覚ましたとき、ハナは修の隣で横たわっていた。目を閉じていた。手が、いつもより冷たかった。
いつもよりも、もっと。
「お母さん」修はキヨを起こした。「ばあちゃんが」
キヨはハナの手首に触れた。しばらく触れていた。
そして修の頭を撫でた。
「ハナお母さま、逝かはった」
修は泣いた。声を出して泣いた。周りにも泣いている人がたくさんいたから、修の泣き声は誰にも聞こえなかったと思う。
ハナ。源太の嫁。弥一の母。修の祖母。
戊辰のとき源太を送り出した女。日清のとき弥一を送り出して泣いた女。日露のとき「弥一は宮中やから、まだましやな」と言った女。源太の最期を看取った女。
修が知るハナは、もう起き上がれない老女だった。だが修がいちばん覚えているのは、味噌汁の味だった。ハナが作る味噌汁は、どこの味噌汁よりもうまかった。
その味噌汁を、もう食べられない。
修はハナの手を握ったまま、長いこと座っていた。
◇
弥一が家族と再会したのは三日後だった。
地震のとき弥一は宮城にいた。宮城は頑丈に造られていて、建物の被害は軽かった。だが門の外は地獄だった。
弥一は近衛の任務として、宮城の警備に就いたまま動けなかった。家族の安否が分からないまま三日を過ごした。
辰次の手紙が来なかった十年前を思い出した。同じ恐怖だった。生きているのか死んでいるのか分からない。分からないまま立っている。
三日目に交代が許されて、弥一は焼け跡を歩いて家族を探した。
上野の避難所で見つけた。
キヨが修を抱いて座っていた。修は眠っていた。
キヨが弥一の顔を見て、最初に言った言葉はこうだった。
「ハナお母さまが」
弥一は頷いた。キヨの顔を見た瞬間に、分かっていた。
弥一はキヨの隣に座った。眠っている修の頭を見た。煤で汚れた髪だった。
「修が、ハナお母さまを背負って逃げてくれたんです。家が潰れる前に引き出してくれたんです」
弥一は修の背中に手を置いた。十二歳の背中だった。源太のように荷を担いだことはない。弥一のように銃を持ったこともない。だがこの背中が、ハナを運んだ。
「よう運んだな」
修は眠ったまま答えなかった。
◇
──宮城の内側で、弥一はもう一つの光景を見ていた。
摂政宮裕仁。二十二歳。
地震の報告が入ったとき、裕仁は宮城にいた。被害の報告が次々と入る。死者の数が膨れ上がっていく。千、五千、一万。数が追いつかない。
弥一は摂政の姿を廊下から見た。
裕仁は椅子に座らなかった。立っていた。地図を広げさせて、被害の状況を確認していた。侍従武官に質問した。声は静かだったが、明確だった。
「食糧は足りているのか」
「軍はどこに展開しているのか」
「避難所の数は」
弥一は見ていた。
明治天皇は威厳で支配した。大正天皇は優しさで接した。この若い摂政は、質問で動いている。
二十二歳の若者が、百万の被災者を抱えた首都の危機に向き合っている。その顔に表情はほとんどなかった。明治天皇に似ていた。だが指の白さは似ていなかった。この若者の手は力を入れていなかった。静かに、地図の上に置かれていた。
戒厳令が出た。軍が東京に展開した。
弥一はこの摂政を見ながら思った。
この人は、大正天皇とは違う。明治天皇とも違う。何かを見極めようとしている目をしている。
だがその目に、何が映っているのかは、壁には見えなかった。
◇
──巷。
修は避難所で、あることを聞いた。
朝鮮人が井戸に毒を入れた。朝鮮人が火をつけて回っている。朝鮮人が暴動を起こしている。
避難所のあちこちで、その話がされていた。男たちが棍棒や竹槍を持って歩いていた。「自警団」と名乗っていた。
修はキヨに聞いた。
「朝鮮の人が毒を入れたって、本当なん?」
キヨは修を抱き寄せた。
「分からへん。でもな修、分からんうちは信じたらあかん」
「でもみんな言うてる」
「みんなが言うてるいうのは、みんなが聞いたいうことや。みんなが見たいうことやない」
修はキヨの言葉をそのときは半分しか分からなかった。
だがその夜、避難所の外で叫び声がした。
走っていく男たちの足音がした。
そのあとに、聞いたことのない種類の悲鳴が聞こえた。人間の声だったが、日本語ではなかった。
修は体を硬くした。キヨが修の耳を塞いだ。
翌朝、近くの路地に血の跡があった。修はそれを見た。キヨに引き戻されたが、見た。
誰かがここで殴られた。あるいは、もっとひどいことをされた。
修は十二歳だった。戦争を知らない。戦場を知らない。
だが人が人を殺す匂いを、このとき初めて嗅いだ。
戦場ではない場所で。敵ではない人を。聞いた話だけを信じて。
のちに修が知った数字がある。関東大震災のあと、自警団や群衆によって殺された朝鮮人は数千人にのぼるとされている。正確な数は今も分かっていない。
正確な数が分からないのは、数えなかったからだ。数えなかったのは、数える必要がないと思われたからだ。
弥一はこのことを修から聞いた。修が断片的に語った避難所の夜の話を聞いて、弥一は長いこと黙っていた。
佐吉の言葉が、また鳴った。
──知らせんほうが楽や。上の人間にとっては。
知らせない。数えない。記録しない。なかったことにする。
旅順の虐殺と同じ構造が、東京の焼け跡で繰り返されていた。戦場ではない場所で。
弥一は修に一つだけ言った。
「おまえが見たものを、忘れるな」
修は頷いた。意味は半分しか分かっていなかった。だが頷いた。
◇
大正十五年十二月二十五日。
大正天皇が崩御した。
葉山の御用邸で、静かに息を引き取った。四十七歳。
弥一は宮中でその知らせを聞いた。
明治天皇が崩御したときは、宮城の前に数千人が正座した。泣き声が波のように広がった。
大正天皇の崩御は、それと比べると静かだった。人は集まった。だが数は少なかった。泣き声も小さかった。
弥一は門の内側に立ちながら、不思議な寂しさを感じていた。
この天皇は、歴史の表舞台にほとんど立たなかった。病に倒れ、摂政に政務を譲り、御所の奥に退いた。
だが弥一はこの人を好きだった。
冗談を言って、自分から先に笑うあの顔を。侍従に話しかけるとき語尾が上がるあの声を。壁である弥一にも小さく頷いてくれたあの目を。
天皇でなければ幸せだった人。
弥一は一度だけ、壁を捨てて、頭を深く下げた。
誰も見ていなかった。
◇
昭和が始まった。
新しい天皇は裕仁。二十五歳。
弥一は五十五歳になっていた。近衛の兵としてはもう老兵だ。現役を退く日が近い。
だが弥一は宮中に残った。近衛を退いたあと、宮内省の下級職員として雑務に就いた。中山家の口利きが、まだ生きていた。
壁から、影のような存在に変わった。それでも宮中にはいる。廊下は歩ける。空気は読める。
弥一は見つづける。源太が見届けられなかったものを。佐吉が見届けたかったものを。
三代目の天皇を、二代目の柏木が見ている。
◇
修は十五歳になっていた。
学校に通っている。活字が好きな子だった。新聞を隅から隅まで読む。源太は字が読めなかった。弥一は読めたが遅かった。修は速い。紙の上を目が走る。
ある日、修が弥一に聞いた。
「お父、満洲のことが新聞にようけ出とる。満洲いうのは、日露のとき取ったとこやろ」
「取ったいうか……租借しとるんや。借りとることになっとる」
「借りとるのに、鉄道も炭鉱も日本がやっとるんやろ。それ、借りとるいうんか」
弥一は答えに詰まった。
「お父は満洲のこと、どう思う」
「どうも思わん。考えたことがない」
「嘘や」
修は弥一の顔を見た。源太に似た目だった。源太ほど丸くないが、真っ直ぐに見る目だった。
「お父は宮中にいたんやろ。何か見たんやろ。何か思うことがあるんやろ」
弥一はしばらく黙っていた。
「修。おまえは新聞を読めるな」
「読める」
「ほんなら新聞に書いてあることと、書いてないことの両方を見ろ。書いてあることだけが本当やないし、書いてないことがないいうことでもない」
修は首をかしげた。
「分からん」
「今は分からんでええ。そのうち分かる。分かりたくない日に、分かる」
修は不満そうな顔をした。十五歳の顔だった。
弥一は修を見ながら思った。
この子は新聞を読める。字が速い。考える力がある。
だからこそ危ない。
新聞が嘘を書いたとき、字が読める者ほど嘘を信じる。速く読める者ほど速く信じる。
源太は字が読めなかった。だから新聞を疑えた。信じるものがなかったから、自分の目と鼻と耳で考えた。
修にはそれができるだろうか。
弥一には分からなかった。
分からないまま、昭和は二年目に入ろうとしていた。
第十三話 了




