第2幕 そして彼は途方に暮れる。③
ーーこれで終わったはずだった。
けれど、むしろこれが発端となり、歪みは更に大きくうねり始める。
彼女と別れてからの清寿は、一層仕事にのめり込んでいた。休憩時間も忘れたように、必死で仕事をこなしていく。
ーーまるで欠けた心を埋めるように。
悔しさが無かったわけではない。それでも、口を噤む事を選んだ。
ただ、そのおかげか、清寿は無事復活を果たす事となる。
騒動から二年が経ち、今後の功績次第で昇進の話も出てきた。
──これで、やっと平穏無事な日常が戻って来る。
そう、清寿は思っていた。
……が、そうは問屋が卸さない。
残念な事に、トラブルの埋み火は消えていなかった。
終わりの『始まり』は静かに口を開けて、清寿を待っていたのだ。
表面化したのは、共同プロジェクトを進めていた時である。
清寿が勤める会社がメインの大型プロジェクト。
そのリーダーに抜擢されたのが清寿だった。
年上の候補者が数人居たにも関わらず、異例の抜擢。正に快挙と言っても過言ではない。
期待に応えるべく、清寿は邁進した。
プロジェクトが始動してからは七転八倒の日々。
それでも、どうにか最終局面まで辿り着くことは出来た。
だが、最終打ち合わせが一週間後に迫ったある日、事件は起こった。
最終打ち合わせの直前、書類の紛失が発覚。
普段の清寿からは考えられない、何ともお粗末な失態である。
挙句、パソコン内部からも、バックアップ媒体からも、データが綺麗さっぱり消えると言うオマケ付き。
しかし、この失態は単純に解決できる問題でもない。
今回は共同プロジェクト、しかも催事企画だ。
日程変更が出来ない企画だけに、最悪は白紙になり得る大失態である。
清寿は、全方向に平謝りをするしか出来なかった。
渇いた喉の奥に言葉が張り付く。絞り出す声音に覇気は無い。
震える手と、取り乱したい気持ちを抑えて、説明責任を果たすために、方々へ巡る。
──吐き気で胃が痛い。
そして謝罪行脚の終了と共に、プロジェクトを降ろされる事になった。
──本当は、途中から嫌な予感はしていたんだ。
企画の進行中に不可解で不自然なアクシデントが起こっていた。
特定の連絡が届かない、共有フォルダの権限がいつの間にか書き換えられている、あるいは確認済みの資料に微細な、しかし致命的な数値ミスが混入している。
……しかも、清寿の周辺に限って。
それでも、怒りを飲み込んだのは、偏に大きな対立を避けるため。
──自分が我慢すれば良い。
──仕事の遅延だけは阻止したい。
──黙って仕事をこなそう。結果を出す事が優先だ。
──私情や私怨は後回し。むしろ、会社に持ち込むなど言語道断。
あの時の清寿は、それが大人のとるべき態度であると信じて疑わなかった。ーーそしてそれが仇になるとは、露とも思わなかったはずだ。
結果的に、事態は清寿の想定の斜め遥か上を飛んで行った。
大人な態度も、会社の利益もクソ喰らえ。敵は、思った以上に幼稚な集団だったようだ。ーーただし、悪知恵だけはよく働く。
こうして、清寿はまんまと敵の罠に嵌ってしまった。気が付いた時には、時既に遅し。自分の危機管理の甘さを呪うしか術はなかろう。
だが、今回はいつもと少しばかり勝手が違う。もはや、清寿だけの問題ではなくなっている。
誰かしらが責任を取らねば、会社の示しがつかなかったのだろう。
ーーその結果が、清寿の更迭である。
清寿も馬鹿ではない。充分覚悟していた。
けれども、下された処分は思っていたものより過酷だった。
書類や資料等の再作成。
そして、もう一つの処分は自主退職への誘導。
会社の上層が、これ以上の揉め事を嫌がった結果としての行動だ。
会社は個人の正しさになど興味が無い。
下の者を切る。
それは、表面上の格好をつけるために、一番手っ取り早くて楽な方法なのだから。
しかも、この手の名誉挽回は、余程の体力と気力と財力がないと太刀打ち出来ない。一番頼りになる同僚が海外赴任中な事も、地味に辛い。
運が悪すぎる。何もかもが詰んでいる。
こうなってしまっては、受け入れるしか道はない。
ーー例え、理不尽と思っても。
退職日までの一ヶ月。
期限が差し迫る残務整理は、過酷以外の何物でもなかった。
特に引き継ぎ業務は困難を極めていた。
何せ後任は件の重役の息子だ。
そして、虎の威を最大限に借りた一派からの、執拗な嫌がらせ。
──結果的に、自分たちが困る事を理解出来ていないのか。
こんな幼稚な集団に負けた。
その事実を再認識する羽目になり、それが余計に胸を刺してくる。
連日のサービス残業や休日出勤。
最終日に私物を段ボール箱に叩き込み、それを集配用リヤカーに急いで突っ込む。そして、深夜に夜逃げするような格好で社宅を後にした。
唯一良かった事と言えば、家具家電が備え付けだった事と、荷物が少なかった事。
何故かと言えば、荷造りだけはスムーズに行ったからだ。
何せ、こんな針の筵の状態で、万が一にでも退去期限に間に合っていなければ、追加でどんな難癖をつけられたか分かりはしないのだから。
それでも、生活の基盤は崩れ去った。
悪循環の状態で、何も出来ない時間だけが過ぎていく。




