第10幕 ポーキュパインな僕ら。⑤
「え? ……お肉、水に漬けるんですか?」
地下から戻って、調理場のシンクで作業を始めた清寿に、エヴァは呆然とした顔を向けた。
塩漬けされた豚肉。
その表面を覆っている塩を洗い流す。
それから、洗った大きめの鍋に水を張り、漬けておく。
清寿が今やっているのはそんな作業。それにエヴァは目を丸くして驚いているのである。
「ああ。作ろうと思う料理には、塩が強過ぎるからな。ちょっと時間が足らないかもしれないが、やっておこうと思って」
清寿がやろうとしている事は『塩抜き』だ。
保存前提の塩漬けは、当たり前だがべらぼうに塩辛い。
だから、当然の如く塩を抜く。
清寿には自然な行為だったが、エヴァにとっては困惑を呼ぶ行為だったらしい。
だが、一方で納得もいった。
──どおりで、塩辛いはずだ。
エヴァは料理人ではない。
確かにスゥが言っていたが、それ以前に、方舟には『塩抜き』と言う概念がないらしい。
1番料理に携わっているであろうエヴァがコレなのだ。
そしてそれを方舟のメンバーは『しょうがない』で片付けているのだから、十中八九、間違いないだろう。
「え!? 塩を抜くのに塩を入れるんですか!?」
まぁ、そう言う反応になるだろう。
大きく開いたエヴァの目が、更に零れ落ちそうなほどに見開かれた。
料理ができないなら知らないのも無理はない。
仕組みを知らなければ、清寿の行動は随分とトンチキなものに映っている事だろう。
「ああ、均一に抜ける様に、浸透圧を使うんだ」
でもこの行動には、れっきとした理由はあるのだ。
料理に慣れた者なら、聞いた事があるであろう『迎え塩』である。
端的に説明すれば、水に溶けた物質に濃淡の差がある時、水が薄い方から濃い方へ移動して、お互いの濃さのバランスを保とうとする現象が起こる。
これの理屈を利用したのが『迎え塩』での塩抜きだ。
ただし、濃淡の差があまりに大きすぎると、上手く作用しない。
だから、薄い塩水に漬けておくのがミソなのである。
こうすると、早く、しかも均一に抜けて一石二鳥……と、言う事らしい。
「シン…トウアツ? ですか? ……何だか、聞いたことのない言葉です。……それも『カガク』ですか?」
返ってきたのはキョトン顔とそんな言葉。
清寿は一応『浸透圧』と言う言葉を使ってみたものの、見事に撃沈。
やはりと言うか何と言うか。そこら辺の知識は皆無らしい。
「そうか、浸透圧も化学だな」
ただ、言われて気が付いた。
意識していなかったが、確かに化学ではある。
「だが、説明も難しいな。……まぁ、それは追々」
思わず本音が溢れた。
ただ、今詳しく説明しても、現状では余計に困惑を助長するだけのような気もする。
清寿が判断したように、『追々』が今の最適解だろう。
「今日はまず、様子見って事にしておいてくれ。食べると分かるかもしれないしな」
物にはタイミングと言うものがある。
誤魔化すよりは、先延ばしだ。まずは体験してもらう。
清寿は、それから判断する事にした。
「じゃあ、楽しみにしておきます!」
実にいい返事だ。
エヴァはそばかす顔をくしゃっとさせて、肩をすくめる。
「とりあえず、マリィの所に行ってみようか」
「はい!」
清寿の問いに元気な返事をしたエヴァは足取り軽く、追いかけるように後ろをちょこちょこと付いて行った。
ところで、マリィは今何処に居るのだろうか。
清寿たちが地下に行く前は、食堂に居た。
あと、彼女が居そうな場所は敷地入り口にある作業場。
ただ作業場は居住地から、ちと離れているのだ。移動するには10分ほどかかる。
故に、居なかった時のダメージは地味にデカい。そして、あとは見当が付かない。
なので少し時間は経っているが、まずは食堂を覗いてみる。こちらに居れば、儲けものだ。
拝む気持ちで食堂に戻り、扉を開けると……まだ居た。
居たと言うか、何やらリッカと一緒に書類を広げて話し合っているようだ。
「マリィ、仕事中に申し訳ないんだが、ちょっと頼みたい事があるんだ」
清寿はそそくさとマリィたちのいる席に歩み寄り、声を掛けた。
申し訳ないとは思っていても、遠慮してタイミングを逃しては話にならない。
何せ方舟の敷地は無駄に広い。
厳密な使用可能区間は謎だが、聞き込みを元に散策した限りでは、廃集落と言われれば納得する程度の広さはある気がする。
故に、そこを闇雲に探すのは、正直骨が折れる。
「どうしたんじゃ? ワシに出来る事ありゃええが、料理は全然出来んけぇのう」
マリィは清寿の声に顔をあげて、ケラケラと笑う。
清寿が気を揉んだ意味も皆無なほど、あっけらかんとした返事だった。
少し気を軽くした清寿は、この好機を逃すまいとばかりにお願い事を口にする。
「ワイン酢を分けて欲しいんだが、可能かな?」
内容は取るに足らないものではあるが、不可能ならメニューの再構築が必要なのだ。
本当は『ください』と言い切りたいのだが、商品の材料かもしれないと思うと少し気が引けた。
だからあえて、清寿は『お伺い』の形をとったようだ。
「ええが、何に使うんじゃ? 臭い消しなら、ハーブ漬けのもあるぞ?」
ん? と、頭を傾げながら、質問に質問で返されてしまった。
マリィにとっては可不可よりも、疑問が湧いて出たのだろう。
エヴァの反応も『消臭液』の材料と言う認識だったから、マリィも同じなのかもしれない。
「食用に使いたいんだが、大丈夫かな?」
回りくどい説明は不要だろう。
清寿は端的な答えと質問を投げた。
「大丈夫じゃろ? グラスの曇り取りにも使うとるけぇ」
残念ながら太鼓判の答えは返って来なかったが、まぁ可もなく不可もなしと言った感じではある。
ただ、食用に使うとは頭にもなかったのだろうか。マリィはゲラゲラと愉快そうに笑っている。
「じゃぁ、少し分けて貰えれば助かるよ」
品質の問題は分けてもらってからで構わないだろう。
「勿論、ええよ。ほいで、他にも何かあるんか?」
「あと、薬草畑を見せて欲しい。お目当ての物が有れば、少し分けて貰う事は可能だろうか?」
肯定の返事も助かったが、マリィが出してくれた助け船が嬉しい。
折角なので、それにもここぞとばかりに乗せて頂こう。
前にエヴァから薬草畑があると聞いていたのだが、清寿が探しおおせていない場所である。
興味はあったが、聞いて回るのも何か違う気がして、未だにチェックリストに残っていた。
「何じゃ? 薬湯でも作るんか?」
「まぁ、物を見てからだが……それは、後でのお楽しみかなぁ?」
お喋りは楽しいが、作業時間の事もある。
ちょっと勿体ぶった言い方になってしまったが、そこはご愛嬌と言う事で。
「ほいじゃ、行こうか。『善は急げ』じゃけぇ」
目の前にある書類をそのままに、マリィは勢いよく立ち上がると目一杯の伸びをした。
それから首をコキコキと振りながら、書類を整理しているリッカに目線を落とした。
「リッカ、お前も休憩がてらどうじゃ?」
マリィの声にリッカが顔をあげた。
「え? 僕もご一緒して宜しいんですか?」
リッカは驚いた表情を微かに含んだ顔で、胸の長さまである銀色の髪をサラリと揺らしながら首を傾げて微笑む。
「何ぞ、勉強になるかもしれんけぇのう。折角の機会じゃ」
好奇心に火が点いたのか、マリィはニヤリとチシャ猫の笑みを浮かべ返した。
「嬉しいです。では、喜んで」
こちらも静かな微笑みと裏腹に、狐の笑みである。
流石は師弟と言ったところだろうか。
2人は正反対に見えるのに、何処か納得する空気を作っていた。




