第7幕 赤と白のバラッド。②
そうやって、久しぶりの感覚を堪能していた時だった。
澄んだ水面に赤が一滴落ちた。 ーーそんなイメージが脳裏に広がる。
日本にいた頃には感じた事のない感覚に、本能が赤い警告を鳴らす。
その言い知れぬ怖れに、清寿は慌てて振り返った。
目に飛び込んできたのは、大きな人影。
迫り来る魁偉は、逆光で輪郭だけを際立たせ、その頭上に掲げられた金属は、畏怖を帯びて鈍く輝いていた。
その明暗から感じる、溢れ出る怒気と、明確な殺意。
今まで味わった事のない恐怖を浴びて、清寿の下肢は力を失い、その場に崩れ落ちた。
脳裏に蘇るのは、『飛び散る赤』。
あの日見た、白と赤のコントラストが鮮やかな光景。
腰が抜け、思考が恐怖に支配される。
尻もちをついたまま、避ける事も、目を逸らす事も叶わない。
無意識のうちに、目だけが大きく見開かれていく。それ以外は動いてくれない。
ただただ、猛進して来る巨大な塊を、呆然と見つめる事しかできずにいた。
距離は着実に詰まり、死の間合いに入る。
近付くほどに露わとなる躯体の大きさに慄きが積もり、口が渇いて喉が張りつく。
背中から噴き出る嫌な粘度の汗で、身体が芯から冷えていくのが分かる。
呼吸が上手くできない。
息をしているはずなのに、酸素が頭に回らない。
喉からは、ヒュウヒュウと虚しい音が漏れるだけだ。
あと数歩の距離。
上半身が豪快にしなり、切っ先が大きく天を仰いだ。
──もうダメだ
清寿の思考が僅かに動いた時、揺れる亜麻色が眼前に滑り込む。
ガキン!!
鈍くて重い金属音が、空気を爆ぜさせた。
「おっと。アーリー、一旦落ち着こうか?」
割って入った亜麻色の影は、清寿を背に庇うようにして、低い姿勢で剣を受けている。
ただ、軽い口調とは裏腹に、彼の肢体は強張っていた。
防寒着の隙間から覗く2人の筋肉と血管は、極限まで盛り上がり、僅かな攣縮を繰り返している。噛み合う刃はそれに呼応するように、キチキチと小さく耳障りな悲鳴を上げる。
目の前にあるのは、凄まじい力のせめぎ合いだ。
刃が交わるほんの一点のみで、辛うじて均衡を保っているのが見て取れた。
清寿の全身には防寒着のせいではない嫌な汗がくまなく溢れ、心臓はこれ以上なく早鐘を鳴らしていた。
極限の緊張感と、制御できない思考。
前回感じたのは『死の予感』だったが、今この場で感じているのは『迫り来る、死』だ。
それも、純粋で確定的な。
この均衡が破れてしまえば、それは瞬時に現実となる距離である。
「何で止めるんすか。不審者でしょう」
唸るように絞りだす声と鈍く灯る眼光。
なびくオリーブアッシュの髪は、まるで逆立っているようにも見える。
目に入る全てに、剥き出しの憤怒を孕んでいた。
清寿を庇う逞しい背中越しに見える、聳え立つ『死』の権化。
逆光で表情は見えないはずなのに、ギラギラとした眼光の鋭さだけが、やけに目に焼き付く。
怒りの大きさを表すように、刃の擦れる音が変わる。
ギチギチと不快な金属音は、まるで殺意の呻きのようだ。
「だとしても、だぜ? ココが『方舟』って事を忘れちまうのは、ダメだな」
清寿の前で、亜麻色の癖っ毛が風に揺れる。
相変わらずの軽い口調は、表情が見えずとも笑っていると確信させるほどの明るい声音だ。
亜麻色の彼の言葉に反応したのか、小さく均衡が崩れる。
アーリーと呼ばれた彼の放つ殺気が、僅かに緩んだようだ。
次の瞬間
ガキン!!
と、大きな金属音が再び鳴り響き、アーリーと呼ばれた男の剣が、大きく空に舞い上がった。
彼は、力を込めていた反動からか、仰け反るように後ろへ倒れ、尻もちをつく姿勢で地面に転がる。
それと同時に、力を受けていた亜麻色の彼も、尻もちをつく形でその場に倒れた。




