第4幕 君が知らない物語。⑩
「何でだよ?」
沈黙に業を煮やしたのであろうグレイスが、あからさまに『納得いかない』と言った顔をした。
「金がありゃ、どうにか出来る事だって、山ほどあんだろぉ?」
それもそのはず。彼にしてみれば、清寿を『生かそう』として振るった剣だ。なのに、助けた男が生きる権利を捨てようとしているのだ。
幾ら理由があるにせよ『はい、そうですか。』など、簡単に割り切れるものではない。
しかも手付かずのまま、荷物も金も保管していると言うのにだ。
「でも、私にあるのはお金だけです。力も能力も、魔力も知識も。ここで生きるために必要なものが、何一つ無い」
言ってしまえば、彼らが守ってくれたものは、三途の川の渡し賃には潤沢すぎる金と、帝国に『ハズレ』と言わしめた無能者だ。
──本来、守る価値など無かった。無駄な労力を使わせてしまった。
清寿の現状は、善意と時間の無駄遣い。
その結論に至った今、清寿の心はジクジクと痛んでいる。
そして、それとは裏腹に、静かに感情が消えていく。
「……んだよ、そんなもん。安全な場所に行きゃ良いだけの話じゃねぇか」
清寿の達観した顔に、グレイスは少し怯んだものの、彼とて引けないのだろう。
この状況をどうにか覆す一手を必死に模索し、清寿へと投げ返す。
「1番決定的なもの。身分も階級も無い」
だが、清寿からグレイスに返ってきた言葉は、残酷な現実である。
その言葉に、グレイスはハッとする。
自身が深く考えずに『世情への愚痴』と言う形で叩きつけた現実が、目の前に大きな壁を作って立ち塞がっている事を目の当たりにしてしまったのだ。
「先程仰ってましたよね? 身分無しでは、1人で家も借りられないし、商売も出来ない…と」
まるで畳み掛けるように続いた清寿の言葉で、更に壁の強固さが見えてくる。
壁の名は『絶望』と言う。
あまりにも分厚く高い。
そして、ここに居る者が散々辛酸を舐めさせられてきた、姿なき怪物。
ーーそう、嫌になるくらい知っている。残酷な現実だ。
「……それくらい、世話してやんよ」
グレイスが搾り出した自己犠牲を孕んだ慈悲に、清寿はフルフルと頭を小さく振る。
そして清寿が返した内容は、是の答え。
「家がどうにかなっても、私は多分、金融機関なども使えないでしょう?」
清寿が導き出した言葉は、これ以上ない正解。
「だったら、この金を安全に保管する事も難しくなる」
グレイスは、続いた言葉に沈黙するしかなくなっていた。
安易な慰めはおろか、お為ごかしすら通用しない、揺るぎようのない真実と対峙させられたのだ。
ここまで行けば、彼らとて清寿の辿った思考が見えてくる。
「……そうなれば、また恰好の餌食です。しかも、今度は助けてくれる人もいないかもしれない。そればかりか、貴方たちに迷惑が掛かる可能性すらある」
フローチャートの行き先は、どうあがいても『バッドエンド』。
それが可視化されて、この場の共通認識として鎮座した。
ここから先は、誰も覆す事などできやしないほどの存在感で。
ーーけれど、バッドエンドと一括りにしても、分岐が違えばエンディングが変わる。
──選べるなら、自分で選びたい。
自身の選択で招いた結果なら、例えそれが運命だろうが、愚か者の末路だろうが、自業自得で片付けられる。――この世と決別の間際、ルーベンスの絵にたどり着いた、あの少年のように。
他人からの是非など不要。今必要なのは、清寿自身の心持ちだけである。
その儚い祈りが清寿に、この選択肢を選ばせた。
「……考えれば考えるほど。結局のところ何をどうしても、最悪の結末を上手くかわす術が見当たらないんです」
清寿の声色は至って穏やかであった。
だが、放った言葉がグレイスたちの顔を強張らせる。
表面上は凪いでいるのに、えも知れぬ違和感が心を斬り付け、本能をざわざわと掻き回す。
「……だったら、もう全てを諦めても良いかな……と」
最後に溢れた言葉は小さく、そこに清寿の感情を見つける事ができない。
グレイスたちが感じているのは、清寿がこの状況を俯瞰で見て、受け入れている事への畏怖。そして、この状況に八つ当たりはおろか、取り乱す事すらしない無機質さ。
この場所は、清寿の静かな狂気に飲み込まれる。
本日、何度目の沈黙だろうか。
だが今は、胃を直接鷲掴みにされて、絞めあげてくるような沈黙だ。
「それに、確率としては、大金を持つ事で命を狙われる可能性があまりにも高い」
その中で唯一の音である清寿の言葉は、彼らの口に強固な封をするほど重い。
無慈悲が冷たく静かに降り積もり、この場にいる者全ての心までも凍らせていく。
「どのみち、私が持っていても、持っていなくても。今後、影響のない誤差の範疇なんです」
クレーマー相手にでもあるまいに。
清寿は、ひたすらに淡々と説明を積み上げていく。
思考や感情が擦り切れて、彼の中に残ったものは『会社員』と言うサガ。
ーー清寿と言う存在は、向こうの環境が作り出した『悲しき怪物』なのかもしれない。
「……だったら、金を譲る相手くらい、自分で決めたかったんです」
清寿が絞り出した言葉が、自身で選んだ最後の選択肢。
上手く説明できたかどうかは分からない。
それでも。とりあえず、思った事は全て言った。
「……そんなの、あんまりじゃねぇか」
グレイスは、心の底に溜まった澱を搾り出すように、苦しそうな顔で吐き出す。
「……ほうじゃのう、あんまりじゃ。住み慣れた土地も大切な人間も全部捨てさせて、この世界に無理矢理連れてこられたんに。……こがーな無慈悲があってたまるか」
セロの言葉は、グレイスが続けられなかった言葉の輪郭を補強した。
無慈悲で理不尽で不条理。
人の心を土足で踏み躙るような、完膚なきまでに圧し折ってくるような、残酷な仕打ち。
抗う気力すら根こそぎ刈っていく絶望を前に、3人は沈痛な面持ちで沈んでいく。
ーーだけれども、だ。それは、今更の話。
そんなものは清寿の人生に、予定調和のように溢れかえっていたのだから。
「そんなに悲しまないで下さい。そう言う運命だったと言う事でしょう」
清寿からすれば、悲しまれても困るのだ。生きたい本音が芽生えてしまうから。
だが、それは『希望』などとは呼べない、愚か者の『虚妄』だと言う事を知っている。




