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売り言葉に買い言葉、怒りと興奮に任せて綾は役所の前に来ていた。
役所の窓ガラスに、化粧の崩れた女の顔が映っていた。
お世辞にも、これから婚姻届を出すような幸せいっぱいの女性には見えない。
綾はクスリと力無く笑う。散々な1日で、もう疲れたのだ。
煽られてこんなとこまで来た自分が、ひどく滑稽に思え、やはり帰ろう向きを変えたとき、高そうな車が駐車場に止まり、シワのない上等だと一目でわかるスーツをビシと着こなし、髪をきっちりとセットした男が降りてきた。
化粧が崩れて、疲れ切った自分とのあまりの差に綾は顔がカッと熱くなるのを感じる。
「偉いじゃないか、逃げださずに来るなんて」
皮肉気に口角を上げた美しい造形の長身の男が、綾へ話しかける。
「あ、当たり前でしょう」
敦也は綾が後に引けないように煽り、躊躇する綾を促すようにさっさと役所に入ると、さっと記入済みの婚姻届を出した。あとは綾が記入するのみ。
敦也は役所の記入台にボールペンがあるにも関わらず、スーツの胸ポケットから、高そうなボールペンを取り出すと、綾へ握らせた。
「ねえ、本当に私と結婚するつもりなの?」
「そうだ、おれがくだらない冗談を言うタイプか?」
「違うけど...」
綾は意を結したようにボールペン走らせる。
弟の誠也にはスッポがされ、兄の敦也にはせっつかれるなんて。
役所には当番だと思われる年配の男性が1人。
敦也は綾が書き終えると、躊躇なくそれを係の男性へ渡す。
「おめでとうございます」
柔和そうな細身の薄い銀縁のメガネをかけた職員の男性はふたりに優しく微笑んだ。
彼の目に私達はどう映っているのだろう。
綾は職員にお礼を言う敦也の声を聞きながら、ぼーっとそんなことを考えていた。
役所から出ると、敦也は綾に車に乗るように促す。連れてこられた場所は大きな戸建てだった。
「家へ帰りたいのだけど...」
「今日から、ここが君の家だ」
敦也の言葉に綾は目を丸くした。
「え、で、でも」
「夫婦は一緒に住むのもだろ?俺は仮面夫婦になるつもりも別居もするつもりはない。ちゃんとした夫婦になるつもりだ」
玄関に入ると、中年の女性が迎えてくれた。
「お帰りなさい。外商の田中さんがいらっしゃってます」
「綾、この人は山根さん、家の管理をしてくれている家政婦さんだ」
綾がぺこりと頭を下げると、山根さんは優しく微笑んだ。
「お茶とコーヒー、カフェオレ、炭酸水、オレンジジュースはご用意できますが、いかがなさいますか?」
敦也は彼女に私のことを何と説明したのだろう?
そんなことが綾の頭を過ぎる。
「カフェオレをお願いします」
「アイスとホットどちらもご用意できますよ」
「アイスでお願いします」
慌しかったせいで、喉が渇いていた。
「山根さん、温かいタオルもお願いできますか?」
敦也がそう言うと、山根は綾の顔を一瞬見て理解したように頷いた。
敦也についてリビングへ入ると、パンツスーツ姿のきっちりと髪を纏めた若い女性と、白髪の混じった壮年の男性が待っていた。
「こんな時間に申し訳ない。妻の服が急遽必要でね」
妻と言う言葉が耳慣れず、綾は戸惑いを隠そうと平然を装う。
流石、プロとでも言おうか、ぼろぼろの顔の綾を見ても、一切表情に出すこともなく和かに対応する二人。
「いえ、いえ、お呼び頂いてありがとうございます。この、佐藤が奥様のアテンドを務めさせて頂きます」
佐藤と紹介された若い女性は張り切っていることが伝わった。
男性二人が部屋から出ると、佐藤が商品を並べ始めた。下着、パジャマ、ワンピースやブラウス、パンツ等の当面の着替えを運び込まれた商品の中から選ぶ。その他にも、タブレットから必要な品を選んでいく。
敦也が予め最低枚数を伝えていたのだろう。佐藤がもう1枚選んで下さいと、その数に足りないものを促してきた。
「では、次回、タブレットで選んで頂いた商品をお持ち致します」
二人が帰ると、山根がさっさと先ほど購入した服を片付けていた。
佐藤と入れ替わりに、敦也がリビングへ戻ってくる。
「ねえ、私はどの部屋を使えばいいの?」
「家を案内しよう。今日から君が住む家だからね」
芝生が敷き詰められた庭には、金木犀が植えられいた。金木犀は綾が好きな香りだ。
「ここが寝室だ。クローゼットはここを使ってくれ」
敦也に促されてクローゼットを開けると、山根が片付けてくれたのであろう。先ほど購入した服がちゃんと収納されている。
「シャワールームはここ、さっき案内した1階にフロがある。バスタオルはここ。使った物、汚れた服はここに入れてくれ、山根さんが回収してくれる。庭は月2回、手入れに来てもらっている。好きな花があれば言うといい。欲しいものは外商の田中さんと佐藤さんに連絡をすればいい。1週間もしないうちに君の家族カードが届く。好きに使って貰って構わない。携帯のキャリアは来週にでも揃えに行こう。ついでに俺へ一緒に請求されるようにすればいい」
誠也との違いに綾はびっくりしていた。誠也は家政婦のように綾を使っていた。家へ行けば、お茶やコーヒーを淹れるように綾を促す。誠也の部屋の掃除も綾が定期的に行ってやっていた。
「ねえ、敦也の部屋はどこ?」
「ここだ」
「え?」
「俺はちゃんとした夫婦になるつもりだ。と、言ったが?夫婦は同じ寝室を使うものだろ?」
綾の目が見開かれる。
ちゃんとした夫婦。敦也と子供をもうけて...怒りと怒涛の時間でふわふわとしていた頭が、一気に現実に引き戻される。
色々想像して、顔が赤くなるのを感じた。
「ねえ、敦也。本当に後悔しないの?結婚したい人は居ない」
誤魔化すように尋ねる
「君しか居ない」
敦也に即答される。
勘違いしそうになるじゃない。私が一番ベストなのだろう。確かに、私は敦也の祖父に気に入られている。私が孫と結婚したら、自分か保有している自社株の半分を譲ると宣言している人だ。今、会社を事実上動かしている敦也にとって、私が一番ベストな婚姻相手なのだろう。
「なら、いいわ。でも、好きな人ができたら、言って欲しいの。すんなり別れてあげるから」
綾はもう、誠也と付き合っているときのような扱いは耐えれないと思った。脳裏に優里亜の勝ち誇ったような顔が浮かぶ。
「そんなことは起こらないよ」
敦也にバスタオルを渡され、シャワーを浴びるように促された。シャワールームには綾のお気に入りのシャンプーとトリートメント、石鹸にボディーソープ、ヘヤパック、まで用意されていて、ドレッサーには彼女が普段使っている基礎化粧品が置かれていた。
引き出しを開けると、メイク用品からヘアアイロン、綾が普段使っている香水も用意されていた。
どうやって知った?と、訝しんだが美恵子の存在を思い出し嘆息する。
綾によくしてくれているとはいえ、彼女は美馬家に雇われている。雇用主に尋ねられたら話すのは致し方ない。
1階のバスルームでシャワーを浴びたのだろう。敦也が濡れた髪を拭きながら部屋へ入ってきた。
「乾かすよ」
綾の手からドライヤーを取り上げると、器用にブラシを使いなら綾の髪をかわかしてくれる。
温かさと疲れが相まって、綾の瞼は重くなり、コクコクと船をこいだ。




