【9品目】自答
まるで固い意志を持った生物のように、キッチンバサミはまっすぐイサの首筋目がけて直下していた。その刃、無音で空気を鋭く裂くその刃は、明らかにイオの首を貫通するものと思えた。
だが。
明日花の腕が、突如として硬直した。と同時に、自ずと傍観の形に入っていた仁の表情も硬直させた。イサが、明日花の華奢な腕を左手で握っていたのだ。それも、明日花に背を向けたまま。
イサが左手に持っていた2本の包丁が宙に放り出され、1つはガチッ、と床に散乱する何かに当たり、1つは弧を描き、カララン、と彼女から少し離れたところで床のタイルに音を響かせた。
仁の顔がみるみる青くなっていった。ゴミ山が完全に蹴散らされる前に隠れて、何もなかったと油断させてから襲いかかる。そんな算段だったはずだ。おそらくその先はない。これが彼女の作戦の全てなら、この展開を打開する方法は彼女の中にはないということになる。つまり後はこのまま───
イサがくるりと振り向き、口を開いた。
「う~ん、10点……かな? あ、100点満点中ね。次はもーちょっと上手に奇襲できるようになるといーね~」
そして、右手に握った最後の包丁を、狼狽する明日花に向ける。明日花の視線がその刃先に向き、腕からイサの手を振り切ろうとした。しかしそもそも腕が動いていなかった。イサの方が、何倍も力が強いのだ。
助けないと、と仁の本能が口を開いた。しかしその直後、あの言葉が仁の脳内に響いた。
″ひょっとして、助けに行こうとか思ってるッスか?″
それで仁は一瞬だけ身体を硬直させたが、すぐに疑問を感じることになった。イサの戦闘能力を危惧して仁を止めたのなら、なぜ明日花は彼女に立ち向かうことを自らの作戦に組み込んだ? ひょっとしてその言葉は、自身を戦闘から遠ざけるためではないか?
仁は握った。混乱の中でも離していなかったステーキナイフを、今一度。どうするべきか。この問はすでに複数回行われている。答えは───
「ま、次なんて無いけどね~」
包丁を握ったイサの手が大きく振り上げられ、そこから明日花の胸めがけて勢いよく加速した。明日花の目がぎゅっと閉ざされた。
その時。
イサの右手が急停止し、そこから包丁がこぼれ落ちた。同時に明日花の腕を掴む左手の力も緩んだのか、素早く明日花がイサから腕を引き剥がした。
「……は?」
イサの右腕に、銀白色に光るもの───ステーキナイフが刺さって、彼女の調理服の袖を赤く染め上げていた。
それを自らの腕から軽々しく引き抜いた後、そのナイフが飛んできた方向の仁、ゴミ山から飛び出して咄嗟にナイフを投げ、しかしそのせいでバランスを崩して転んでしまった仁をじっと見下ろしていた。それに彼が気がついたのは、立ち上がろうと顔を上げた時だった。
即座に、明日花が再びキッチンバサミを、今度はイサの腹部を目がけて差し込もうとしていた。しかしイサの蹴り一発で、明日花の小さな身体が吹き飛んで、仁の視界から見えなくなった。イサの左側から、ドン、ガラガラ、と何かが崩れる音がする。その間、明日花を掴んだ時と仁の一撃を喰らった時に落とした包丁を拾っている時でさえ、イサが仁から目を逸らすことはなかった。真顔だった。仁の心臓から熱が瞬く間に逃げていき、氷のように割れてしまいそうに感じた。
イサはその後すぐに口角を上げたが、仁の心臓の熱は戻らなかった。先程と違い、目が笑っていない。
いや、しかし。
仁は自身の胸を、どん、と叩いた。しっかりしろ。ここで自分が怖じ気つくということは、苦戦している明日花に全てを放り投げることを意味する。それだけは、だめだ。
「へえ~かっこいいね~ピンチの女の子を″何も考えず″助けるなんてね~」
イサがやけにゆっくりと、抑揚のある声で言った。特に「何も考えず」の部分が強調されていた。
そして彼女の左手の包丁が仁に向けられた。根元から先端にかけて光が走る。右手はイサのすぐ右、仁から見て左に向けられている。向こうで明日花が仁と同じように睨んでいるのだろう。
「でもよかったの~? キミも殺されちゃうよ~? まあ、こんなことしなくても結局殺してはいたけどさ~じゃないとこっちが困るし」
仁は息をのんだ。イサの言葉はほぼ無視していたが、彼女が包丁を握っている限り、自分達にできることがほぼない。どうすれば───。
仁が何か打開策を見いだせないかとあたりを見回したその時。目に、とある光景が入った。
いくつもの段ボールが乱雑に倒れ、塞がった扉。もちろん抜け出そうものならその前に包丁の餌食になるだろう。
しかし仁の目は別の場所に向いていた。倒れている1つの段ボールの中から、飛び出している中身。その中身は───
「どっちからやってほしい~?」
仁は咄嗟にその段ボールまで走り、手に取った。ここから段ボールをかき分けて、それもイサの攻撃をくぐり抜けながら進むのは厳しそうだ。
だから、と振り向く。今ここで、彼女を倒す。…………賭けだ。
「ん~? 何かやろうとしてるね~? じゃあそっちからやっちゃうよ~!」
そして、ゆっくりと、落ち着いた足をこちらに向け、グシャ、グシャとやけに大きく不揃いな響きを仁に渡した。
近づいている。イサがこちらに来る。
───やらなきゃ、先には進めない気がする。
柘姫の言葉。
あの時は、ひどく無責任な言葉に聞こえた。
でも……その意味が、ようやくわかった。
足に力が込められた。
仁の足で、何かが潰れる音がした。




