【23品目】追いかけっこ
自分をここまで突き動かした物に、仁は心当たりがあった。それはもう、あの経験から何回も感じてきたことだった。
入口のドアが閉ざされた後、柘姫とミカエルの2人は即座に駆け、扉から離れた。しかし仁がついてきていないことを察知したのか、ほぼ同時に足を止め、こちらを振り返った。
正直なところ、迷いはあった。このまま逃げてしまったら、少なくともここで死ぬことはない。逃げた先にまた別の″職員″がいれば話は別だが、それでもここに留まるよりかは生存確率が高いのは間違いなかった。
だが───自分は進都が連れ去られた時、何を思った? その後、「自分の命は自分で守るしかない」と言い放った少年に対し、自分は何と言い返した?
言ったじゃないか。救える命は救うべきだと。
「Jin! What are you doing!?」
ミカエルが叫び、すぐに柘姫に制されていた。緊急事態だからか、その文字の発音がかなり潰れているように感じられ、何も聞き取れなかった。しかし大意はわかる。自分も呼ばれている。
しかし……自分はここに残る。そう決めた。もはや迷いは存在しなかった。
「……死ぬ気がする。やめておいた方が良い気がする」
柘姫も言った。無感情に見えるその顔に、焦りが浮かんでいるような気がした。
しかし中に明日花がいる以上、離れることはできない。もう決めた。それに、時間がない。
「……2人とも、無事で」
「Wait!」
ミカエルの声を振り切り、仁は室内へ戻った。
「僕だって、明日花さんが、いや、明日花さんに……生きてほしい! 生きて、みんなでここを出るんだ!」
それが答えだった。ずっと仁の心臓を突いてきた物に対しての答えだった。
明日花はそれに対し、多分一瞬だけ呆然として見ていたのだろうが、すぐに声をあげた。
「……無茶ッスよ! やめてくださいッス!」
しかし仁は未だ″職員″を見上げていた。ただ使命感と怒りと、それ以外の感情が複雑に絡み合った目で見上げていた。一方で、″職員″の方はそんな仁を無感情に見つめていたのだが、その様子は心なしか憐れんでいるようにも見えた。威嚇を行う蟷螂を見る人間の目だった。
「やめられないさ。こんなところで」
その仁の言葉を合図と決めていたかのように、″職員″が腕を振り上げてきた。その手は自分達に下るのか、それとも床に叩きつけられるのか。判別はつかなかったが、とにかく。
仁は明日花の手を即座につかみ取り、思い切り引いた。自身の体も左に飛ばした。腕は床に激突し、岩壁をツルハシで砕くような音が響いた。頭が揺れた。
耳鳴りの中で、仁は咄嗟に明日花の手を離し、彼女の一歩前に背中を向けて立ったかと思うと、今度は両手で彼女の両腕を掴み、そのままリュックのように背負った。明日花の身体が小さかったおかげで、さほど苦労はせず、時間もかからなかった。
「…ジンさん!?」
弱い声で驚きを口にする明日花。だがもう気にしている余裕はない。それを明日花も分かっていたのだろう、すぐにこちらに身体を委ねてきた。
「あいつの目的は僕たちを『殺すこと』ではなく『捕まえること』のはず……だから致命傷を負う前に撒くことができるかもしれない」
「……そうッスね……ただ、思うんスけど……さっきの攻撃は明らかに『殺すこと』を目的としていたのでは……それに、目的が『捕まえること』だったとしても、抵抗してきたら『殺すこと』にチェンジすることだって……」
仁の思考が揺らぐ。確かにそうだ。でも、それを受けて思案している暇などない。それに、これより良い策が何も思い浮かばなかった。
「いくよ」
仁が呟くように言った。背中の明日花も頷いた。頭の上の蛍光灯が僅かに点滅するのを感じた。
次の瞬間、仁の足は動き始めていた。部屋の出口まで、距離はさほどない。通常なら3秒もあれば到達できる。
だが、こんなことはあまり思いたく無かったのだが───明日花を背負っているため、身体、とくに脚への負担は凄まじかった。少しでも気を抜けば、あっという間に追いつかれ、袋の中へねじ込まれる。仁の頬を汗が伝った。
ドアが開いたままの部屋から飛び出た。左右に道が続いていて、右は仁達がここに来る過程で通ってきた道、左は全く知らない道だった。仁は迷わず右に曲が……ろうとして、すぐに左へと足を進めた。″職員″は1人だけではない。イサを倒した後のことだから、そちらに残りの″職員″が集中していてもおかしくない。
左の道は直線がずっと続いていて、五十メートルほど先にT字路があるくらいだということを走りながら確認した。やはり右に曲がっていた方が良かったかもしれない、と感じた。
「…来たッス…!」
左に曲がってから5秒以上経った時、明日花の声が聞こえてきた。自分の50メートル走の記録は一体何秒だったのだろうか。とにかく足を動かし続けた。1人の人間を背負ってここまで速く走れることに驚いていた。
廊下の半分にさしかかった。どれほど距離が縮まってるのかは、振り返らないと分からない。しかし立ち止まって振り返ったが最後、2人は白い袋の中に直行することになるだろう。
「明日花、さん!、どれ、どれくらい、離れてる?」
息も絶え絶えに仁が叫んだ。病人に無茶をさせているかもしれないことは重々承知だった。
すると、意外な言葉が返ってきた。
「…いけるッスよ…!距離はそんなに縮まってません」
明日花の声はだんだんと元気になっていた。しかし何より、まさか距離が縮まっていないとは。
仁は僅かな希望の隙間を押し広げられるような気がした。あの超人的な体力を持った″職員″から逃げ切れる。あと少しで。いける。いける。いけ───
仁の脳にそんな望みが見え、50メートルもの廊下をあとは左右どちらかに曲がるだけ、といったその瞬間だった。
「あ…!」
明日花の口から、またしても声が漏れ出た。どうした、と言わんばかりに、思わず振り返った。
椅子が目の前にあった。いや待ってなんでここに? いやこちらに向かって───
仁の肩が砕かれた。
「がっ…!」
声が出た。出たが、それでも再び″職員″に背を向け、弱々しく走りだした。
″職員″が投げつけてきたのだ。椅子を。自分達がバリケードに積んでいたあの椅子を。あの時の後ろめたい気持ちを思いだし、苦々しい顔を浮かべた。遅れて鈍い痛みがじわじわと広がってきた。一体椅子のどこが肩にぶつかったのか分からなかったが、水風船が破裂し、水が少しずつ出てくるような、そんな感じだった。
しかし同時に、良かった、とも思った。自分が振り返っていたから、自分の肩にぶつかったのだ。もし振り返っていなければ、明日花の頭に直撃していただろう。そうなれば最悪だった。
しかし、しかしだ。仁の足はだんだんと遅くなりつつある。気力で踏ん張ろうとしても、もう限界だった。
その時だった。
「ーーーーーーーーーー!!!」
どこからか、大声が響いた。一瞬彼の身も固まりかけたが、同時にそれが仁を覚醒させた。
″職員″はあの大声で静止したはずだ。いや、静止した。そうでなければもう無理だ。誰かが助けてくれたのだ。誰かは分からないが。
そして仁はそのまま一直線に駆けだした。
相変わらずの、薄暗い部屋。家具も乱れることなく隊列を組んでいる。違う部屋のはずなのに、元に戻ってきてしまったのかもしれない、という幻覚に陥った。いや、どうでもいい。なにせ職員から逃げきったのだ、逃げきったのだ、はは、はは。
「やった……」
もはや夢なのか現実なのか、それすらも分からなくなっていた。肩の痛みも、逆になくなっていた。正確に言えば、麻痺していた。
「逃げきった……逃げきったよ……明日花さん……」
仁は明日花を背中から下ろし、床に横たわらせた。
しかしそこで気がついた。力がこもっていない。明日花に。あの活発な明日花に。
「……明日花さん……?」
仁の身体に籠もっていた熱が一気に体外へと抜け出した。激しい運動で荒くなっていた呼吸が、さらに速くなった。
「ちょっと……」
揺すった。起きない。もう一度やる必要があるのか?
「ねえ……」
揺すった。起きない。まだまだ繰り返す必要がありそうだ。
「……」
揺すった。起きない。これでもか。
「……」
揺すった。起きない。
「……」
揺すった。起きない。
「……」
揺すった。起きない。
「……」
揺すった。起きない。
「……」
揺すった。起きない。
「……」
揺すった。揺すった揺すった揺すった揺すった揺すった揺すった揺すった揺すった揺すった揺すった揺すった揺すった。
起きない。
「……………あ」
それが分かった瞬間、仁の身体からも一気に力が抜けた。
視界が黒に染まった。




