【22品目】生きてくれるなら
身体が震えている。脚がひとりでに後退している。顔が───絶望している。
仁が恐れていた、まさに″それ″が現実のものとなってしまった。目の前の″職員″は、その赤い目で、仁達4人を吟味するかのようにじっと見つめていた。担いでいる大きな袋。その中に、今から詰め込まれる───。
仁は振り返った。自身が寝るときに置いた包丁が、部屋の隅にまだあった。しかし───果たして取りに行く時間があるのか。
「……やられた」
柘姫がパン切り包丁を右手に握り、じっと″職員″を睨んだまま呟く。本心か、それとも結果的に逃げ場を無くす原因を作ることになった仁とミカエルに対してか。考えている暇はない。そのミカエルは、もはや泣き出しそうな顔で他の3人を交互に見ていた。
さあ、どうする。
誰かが問いかけてくる。心臓の内の誰かが、一鼓動を重ねるごとに語りかけてくる。それが痛くて、鬱陶しくて、息が詰まる。
その時、見た。
明日花の小さな身体がゆっくりと起き上がっていくのを。
脚が小刻みに震えている。当然、まだ熱は下がっていないだろう。それでも、両手に握られている包丁の先端は、まっすぐ″職員″へと向かっていた。
「……みなさん」
明日花が言っていた。仁とミカエルの2人が反射的に顔を向ける。柘姫も一瞬だけ反応したが、ちらりと見ただけで、すぐに″職員″へと顔を戻した。
″職員″はまだ飛びかかっては来ない。が、じりじりと確実にこちらとの距離を詰めてきている。
そんな中で、明日花が次に放った言葉は、2人の身体を凍り付かせた。
「……あたしを、囮にするッス」
いや、2人の身体だけではなく、その場全体を凍り付かせたらしい。仁の肌に触れる湿り気のある空気が、冷蔵庫の中を彷彿とさせるような冷気へと変貌していた。そのように感じた。
「……明日花さん、だから……」
「後ろ向きなこと言うなって言いたいんスか?」
「……」
その時、明日花の目がかっと開かれた。思わず身を引いた。
「今はそんなこと言ってる場合じゃないッスよ!? ここで戦って全員死にでもしたらどうするんスか!?」
仁の言葉が、思考が、止まった。もう何も反論できない。そう思い知らされた。
「He's almost here!」
ミカエルの情けない声が響く。しかし仁の耳に届いていたかどうかは怪しかった。
全員で生きてこの危機を脱却する。その方々が、絶対にあるはず───。
「ないんスよ」
途端に、目の前の明日花が、今度は柔和な顔になってこちらを見つめていた。″職員″はゆっくりとこちらに向かっているが…やけにその時間が長かったが故に、その顔をじっくりと見ることができた。
「でも……あたしが死んで、ジンさん達が生きてくれるなら…それでいいと思うんス」
「……」
何か言いたかった。ただ、先程から有効な単語が出てこない。
明日花はにっこりと笑んで、締めた。
「だから、行くッス」
その瞬間、ミカエルの絶叫が響いた。振り向くと、″職員″が突然に足を速め、こちらに掴みかかろうとしていた。
仁の腕に何かが絡みついた。柘姫の腕だった。膝までの髪が、乱雑に絡み合っている。それでもその手はしっかりと、仁の肘の上を握っている。そして、引っ張られていく。
″職員″はそれに反応することなく、まっすぐに、明日花に向かっていった。仁の腕を引く柘姫とその先を行くミカエルは、″職員″の脇を縫うように通り過ぎ、出口へと向かう。
「明日花さん!」
仁は叫んだ。肺が破裂しそうなほどに叫んだ。しかしそれが届く前に、もう部屋の入口に辿り着いてしまった。
″職員″は真っ先に明日花に手を伸ばした。その神速にも達しそうな動きは一瞬ひやりとさせられたが、明日花はすぐさま後ろ向きに倒れ、ほとんど一回転するかのように受け身を取った。″職員″の赤い目は動じることなく、自らの手を躱した明日花に再び向いた。これで、明日花の前には壁と″職員″、入口がはるか後ろ、という形になった。
動けないわけではない。ただ、やはり身体が重い。はたしていつまでもつやら───。
″職員″は再び掴みかかってきた。今度は左に身を動かし、回避した。動き自体は単純だ。これなら案外なんとかなるかもしれない。
右、左、右、右、左。順に回避しながら後ずさりをする。注意を逸らすことなく、確実に背後の入口に近づいていく。焦ってそこに駆けてはならない。単純な速さなら確実に劣る。ゆっくり、最後まで油断せずに。
左、右、左───
その時、明日花の目が見開かれた。
″職員″がこちらに腕を突き出してくるのをやめ、部屋の隅の方に移動していた。そしてその足元には───バリケードとして積み上げていた、でも今は崩落して床にまき散らされていた机や椅子が。
まずい、と明日花は感じた。このままだと厨房の時の二の舞だ。くるりとドアの方に身体を向け、急ぎ入口に後退───
バリケード崩落時と同じくらいの音圧が、明日花の背中を叩いた。ぐわんぐわん、と耳元で寺の鐘を鳴らされたかのように、ものすごいエコーが脳内にぶつかりまくっていた。
あっ───
そしてその身体が倒れ、地面につくやいなや、胴が一回り大きな手に鷲づかみにされ、持ち上げられた。
床から天井へ、景色が反転する。今まさに自分は、あの大きな袋に入れられそうになっているに違いない。しかし、抗おうという考えが吹き飛んでしまっていた。諦めに似た何かが、明日花の脳内を満たしていた。
ああ、やりたいことが、あったのにな。
そして目を閉じた。
───お前は……生きろ。生きて、───
ギン、という鋭い音が鳴り響いた後、手が離され、明日花の身体が宙に投げ出された。かと思うと、右脇腹あたりに強い衝撃が走った。再び目を開く。床に身体がついていた。
すぐに目に入ってきたそれが、その音の正体だと分かった。銀色の包丁。それは、厨房で手に入れた武器だった。そして、明日花以外に包丁を手に入れていた者は、彼女に思いつく限りでは1人しかいない。
「なんで……」
息を切らしながらすぐさま明日花と″職員″の間に割って入ったその人物は、間違いなく、仁だった。
「明日花さん……言ったよね。僕が生きてくれるなら…それでいいと。でも僕は『決めた』……」
そこで1つ間が空いた。息を吸い直して、続ける。
「僕だって、明日花さんが、いや、明日花さんに……生きてほしい! 生きて、みんなでここを出るんだ!」
仁は、まっすぐ″職員″を見上げていた。
明日花も、まっすぐ仁を見上げていた。




