【17品目】Can you tell me
「ア……アーユー、オーケー?」
部屋の隅で丸まっている少年に、仁がもう一度問いかけた。マッサージ器のごとく小刻みに震える少年に変化は見られない。
仁は行き詰まってしまった。掃除用具入れでこの少年を発見してから、ずっとこの調子である。
「Don't kill me…. Don't take me…」
「Please calm down. We are all on your side. Rest assured, we are not going to kill you or take you away.(落ち着くッス。あたし達はあなたの味方ッスよ。あなたを殺しも連れて行きもしないッスから、安心するッス)」
今度は隣の明日花が言った。仁の英語よりかはずっと流暢で、自然なものだった。それのおかげかは分からないが、明日花が話しかけた時だけ、少年の平穏が戻ってきているような気がした。それにしても、運動能力が高いだけではなく、語学力も持ち合わせていたとは。つくづく脱帽だった。
「We are survivors here. Just like you.(あたし達はここの生存者ッス。あなたと同じッスよ)」
今度はゆっくりと、そして確実に少年の目を見て言った。少年はそれでようやく、こちらを敵ではないと見なしたようで、呼吸が平常時の穏やかなものになった。満足そうに頷く明日花。
「OK, OK. It's all right now. What's your name?(うんうん。大丈夫ッスよ。何ていう名前ッスか?)」
「…Michael Murdoch」
「Michael Murdoch. Do you remember why you came here?(ミカエル・マードックっていうんスか。なんでここに来たか覚えてるッスか?)」
「……No」
「I see, I understand.(そうッスか。分かったッス)」
仁の耳が辛うじてその概形を掴めたかどうかというやり取りを終えた明日花が、仁と柘姫の方に振り向いて言った。
「この人、あ、名前はミカエルっていうらしいんスけど……やっぱりなんでこんな所にいるのかは分からないっぽいッスね」
言って、少し思考する様子を見せる明日花。しかし、″それ″に向かい合っていた仁と柘姫は、変化に気がついていた。
「明日花さん」
「どしたッスか?」
仁は何も言わず、ただ明日花の後方の少年───ミカエルの方を指さした。人に指を指してはいけないというマナーの存在は、既に意識の領域外に放り出されていた。
「But... they're coming to kill me... No matter where I run or what I do, I'll get caught and killed...」
こちらを敵ではないと認識して、仁達への恐怖は止まっていたのだろうが、今度はまた何かをぶつぶつと呟いて、冬の寒さを目の当たりにするホームレスのごとく震えていた。
「Please calm down. Did you meet that big man carrying a bag?(落ち着いてくださいッス。会ったんスか? あの袋を持った大男に)」
「A bag? What do you mean, a bag? A giant is closing in on us!」
あとはただ黙り込むだけとなってしまった。それを受け、怪訝な表情を浮かべる明日花。仁と柘姫も同じような表情を作っていた。また別の理由で。
「……とにかく、大男に追われてたっぽいッスね」
「そうなの? 全然聞こえなかったけど……」
「ただその大男、袋持ってなかったっぽいんスよね……あの七福神の神様みたいな……」
「大黒天な気がする」
「そう、それッス。その大黒天袋のことを知らなかったっぽいッスから、それとはまた別人の可能性もなきにしもあらず……って所ッス」
それを最後に、会話は途切れた。
ミカエルはまだうずくまっていた。この少年にこれだけの恐怖を植え付けたのは、″職員″なのだろうか。それとも、また別の何かなのだろうか。人間であっても、イサみたいな「例外」が1人だけだとは限らない。もしかしたら、それだったのかもしれない。
しかし今のところは、何も分からなかった。
それから頭の中に浮かんでくる何かを適当にいじっていると、仁の周りにはいつの間にか静寂が満ちていた。会話終了直後の静けさとはまた違う、本当の無。虫の音や機械音すら一切聞こえない。気持ち悪い光は相変わらず頭頂を照らしていたのに、まるで真の闇の中にいるかのようだった。
周囲を見渡してみる。座り込んだままうつむく明日花と柘姫の姿が目に入る。死んでいるかのようだった。しかし実際には眠っているだけだろう。目に力を込める。うん、息はしている。良かった。口の開いた風船のように、一気に力が抜けていった。
その時。
「Hey」
突如、何かに、いや誰かに肩を叩かれた。
「!?」
立毛筋が収縮したが、声は何とか押し殺した。眠る明日花の姿の奥に、沈黙するドアが見えた。
「Aren't you sleepy?」
ミカエルが仁の右隣に身を寄せ、青い瞳を彼に向けていた。英語教師が授業で披露してみせる日本人の英語ではなく、そこに住む人による本当の英語。仁の言葉をもつれさせるのには十分だった。
「あ、えっと……イ、イエス……」
「Oh,……」
「……」
「……」
沈黙。
沈黙。
………。
「I'm sorry I lost my composure earlier」
不意に、ミカエルの口が動いた。こちらから目線を外し、体育座りのまま言っていた。独り言のように見えた。こん……こんぽ……何?
仁がそうして戸惑っていると、ミカエルが今度は仁の正面までゆっくりと移動し、言った。
「Go、me、n」
発音はやはり英語圏の人々のそれであったが、今、彼は確かに、「ごめん」と言っていたと仁は認識した。ミカエルが「ごめん」という日本語の単語を知っていたことに驚き一瞬の間を使ったが、すぐに返した。だがこれもしどろもどろであった。
「いや、ううん、そんな謝らなくても…」
「... got a minute?」
「え? あ、イエス……」
これは仁にも理解できた。ちょっといいか、という意味だ。多分。
仁は自身の制服を見た。白いカッターシャツの下、黒いズボンに巻かれたベルトの金具に反射した光が、仁の目に潜り込む。それで、自分が高校生だと実感する。少なくとも、ここに来る前はそうだったのだ。
記憶を失う前の自分は、果たして英語能力はいかほどだったのだろうか。いやそもそも自分はここに来る前はどのような人だったのだろうか。どのような性格で、友達はどれくらいいて、どんな人間だと思われていたのか。
ミカエルの方を向いた。少し前には到底見られなかった彼の穏やかな顔があった。それが、仁のわずかな安息を作り出していた。
そして、ミカエルが言った。その言葉はしばらく続けられていた。
「Can you tell me ......」
その後、2人のやり取りはしばらく続いた。
死んだように眠るもう2人には知らないところで。




