【16品目】用具入れ
「……誰もいないッスよ」
白いドアを横に押し開けた隙間から中を覗き見ていた明日花が、顔をこちらに向けて手招きしてきた。それを認識した仁と柘姫が小走りで明日花の元へ向かう。1回振り向くのを忘れずに。
「これでやっと休憩できるッスね」
白いドアの向こうには、テニスコートが2面は取れるであろう空間が広がっていた。そこに長机や椅子が、軍隊の整列のごとくびしっと並んでいる。そしてその後方には、美しく装飾された背の低い棚や、掃除用具入れが乱雑に置かれてある。
一種の緊迫感さえ感じられるその光景とは反対に、仁の肩からゆっくりと力が抜けていった。
あの厨房から抜け出し、再び陰湿な黄みがかった光を浴びてから途方もない時間が経っていた。もしかしたら緊張を緩めることなく移動したことによって時間が長く感じられただけで、実際には案外短いのかもしれないが、とにかく、仁にとっては気が遠くなるような時間歩き続けていた。その果てしない時間が過ぎる間に部屋は何個もあったのだが、どれも白いドアに隔てられて中の様子が分からなかった。しかもそのうち数個は、中からガタガタと音が聞こえてきた。仁達と同じような人間かもしれなかったが、″職員″である可能性の方がずっと高い。それで、全て素通りしてきた。
幸いにも″職員″自体と対峙することは一度もなかった。むしろあまりにも巡り会わないからか、明日花や柘姫が不審に思っていた程だった。2人は仁よりも長くこの食堂で行動していたようだ。
そんなことを振り返りながら、仁は部屋の奥の、端の方の椅子に腰掛けた。窓がないからか、部屋の隅はかなりじめじめとしていた。
「……ふう」
そんな明日花は、ため息だけをつくと、入口近くの壁にもたれかかった。その姿は、進都と出会う直前のそれとよく似ていた。その考えが頭に浮かぶや否や、またしてもやり切れない感情が仁の中に浸水してきた。
そしてやはり、あの少年の言葉。
もう考えても仕方のないことだとは分かってはいた。分かってはいたが、どうもそれはまだ形を残したまま仁の中に残っているようで、身体の中から神経を突いてきた。……やはり、自分が彼のことを特別に思いすぎていたのだろうか。そして、この何でもない気持ちはどこに捨てればいいのだろうか。
仁は明日花の方を見た。彼女はこちらには気がついていないようだ。
仁はその顔を見ながら、淡いものを抱いていた。彼自身はそんなことつゆにも考えていなかったが、奥底の深層心理レベルの空間で、明日花ならこの気持ちを上手く処理してくれるかもしれないと、そう感じたのかもしれなかった。
その時。
「……えっ……」
部屋に入るときの言葉から一転して、明日花が声を上げた。
「え? ど、どうしたの?」
あまりに唐突なことだったので、仁は明日花に訊いた。
「物音が……したとか?」
明日花は何も返さず、突然立ち上がった。そして、足早に部屋の奥へと歩いていく。
「物が……動いたとか?」
再度口を開いた。しかしまたしても黙殺された。何者にも干渉されていないかのように、まっすぐ歩いている。
やがてその足は───規則的に列を作る机や椅子の背後、さらにその規則からはみ出した華美な棚、その横の掃除用具入れの前で止まった。
「明日花さん……」
仁は駆け寄った。ただではない雰囲気を明日花から感じていた。
そして彼の足が最後尾の机に達した時。
「おかしいと思わないッスか? この部屋には大量の机と椅子がある。そしてここは食堂。明らかに客が料理を食べるための部屋ッス。なのに」
彼女の手に握られた包丁が光った。その光が、少しにじんだような気がした。
そして、明日花が再び口を開いた。
「ここには明らかに不要な掃除用具入れがあるッス。仮にも飲食店なら、客から見えない場所に設置するのが普通じゃないッスか?」
その瞬間、仁の視覚の中で、目の前の掃除用具入れの灰色が急に不和を作り始めた。
「で、でも、もしかしたらここか偶然そうしているだけかもしれないし……それだけで決めつけるのは……」
「あたしがジンさんや柘姫さんと出会う前にいた同じような部屋には、こんなもの無かったッスよ」
「……」
そして彼女は、用具入れの取っ手部分に手をかけた。カタリ、と微かに音がした。
「もちろん何もない可能性も0じゃないッス。でも、本当に何があるか分からないッスからね。この中に何か隠しててもおかしくないッスから……」
そう言って包丁を握り直した。思わず仁の身体も硬直した。何の変哲もない灰色の掃除用具入れであってほしかった。そうでないと、また誰かが欠けてしまうかもしれない。また辛い思いをするかもしれない。
明日花の深呼吸の音が仁の耳に入ってきた。それが脳の中枢に到達するその刹那、ガタン、と音がした。
身をのり出した。
開いていた。仁はばっと身構え───
「No,no,no,NO!!」
女性に近い、だが女性ではない高くて厚みのある英語が部屋に響いた。
「Don't kill me! I d-don't know anything! I haven't done anything to harm you! So, So, don't t-take me away! Don't-take-me-away!!」
なんて言っているのかは聞き取れないが、とにかく、その青いシャツとカーキ色の半ズボン、さらに金髪で青い目を持った少年が、用具入れの奥に身を引き、じたばたと手足を動かしていた。
少年の剣幕とは反対に、3人の肩から、一気に力が抜けていった。




