第52話 穏やかな日常と涙
俺は得意げに冷蔵庫からケーキの箱を持ってきた。
「……なにこれ?」
フッ、驚いているな。
「黒豹。お前が好きなイチゴのケーキをありったけ揃えてみたぞ」
「えっ? これ全部ケーキなの?」
「そうだ、開けてみろ」
黒豹は、ケーキの箱を開封して覗き込んだところで固まった。
どうやら、感動して言葉も出ないようだな。
「ねえ……ガッチーこれさ。ちょっと多すぎない?」
「そうか? よく分からんからイチゴが入ってるやつを全部買ってきたんだが」
「いや、どれだけ買ったのよ?」
「17個だ」
「すごい……! けど多いってwアタシたち2人しかかいないじゃん!?」
「まあそう言うな。多い方が選択肢が増えていいだろ? 好きなケーキを食べていいんだぞ。もちろん、俺も処理するがな」
「今、処理って言ったんだけどww ケーキを処理するってなにww」
やったぞ! 黒豹が笑った。
ここ数日で初めての、作り物じゃない笑顔だ。
やっぱり黒豹はこうじゃないとな。
「あーもういいや……ほんと、ガッチーって意味わからないよね」
「俺からすれば黒豹も意味が分からんがな」
「ホント……鈍感だよね」
「……なんの話だ?」
「なんでもない。……いただきます」
2人でケーキを食べはじめたが……さすがに全部は無理だった。
「ガッチーはどれが好きだった?」
「やっぱり……ミルフィーユだな。重ね構造が美しい」
「構造で選ぶのかよw 味じゃないんだwww」
「層が均等なのがいいな。強度を増すのにも一役買っている。それはフォークを刺したときの感触に現れていて——」
「はい、ウザいウザいw」
「いや……まだ途中なんだが」
しばらくぶりの、いつもの空気だった。
それから、少しずつ黒豹との距離が戻り始めた。
帰ってくる時間が早くなり、毎日勉強を教える時間が出来た。
会話も弾むようになったし、部屋に籠もらなくなった。
リビングで黒豹と一緒にテレビを見るのは久しぶりだった。
もちろん見るのは、相変わらず理解できない恋愛ドラマ。
それでも、俺は満足だった。
以前のような、穏やかな空気が流れているからだ。
そうだよ……これだよ。
これが日常なんだ。
俺たちの日常が帰ってきた。
この生活が、ずっと続けばいい。
◆
と、思っていたのだが……
夕食後、2人で食器を片付けていると、黒豹が珍しく静かなトーンで話しかけてきた。
「ねえ、ガッチー……」
「お……なんだ?」
「アタシ、やっぱり出ていった方がよくない?」
今……なんて言った?
危うく、床に食器を落とすところだったんだが。
「どうしたんだよ……急に。な、何を?」
「だってさ。ガッチー、星城院ちゃんと付き合ってんじゃん。彼女いるのに、アタシとずっと一緒に住んでたらさ。おかしくなるんじゃないかなって……そう思うんだよ」
思い詰めたような顔には、諦めにも似た色が浮かんでいる。
黒豹と暮らすことが星城院さんとの関係に問題がでるのか?
――いや。
「そんなことはない。星城院さんには俺の方から説明——」
「それにアタシも、もうすぐ契約終わるじゃん? 3学期の赤点さえ回避できればもう大丈夫だし……」
「勝手に決めるな。黒豹が大学に入るまで面倒を見ると言っただろ?」
俺の声は、自分でも驚くほど震えていた。
胸の奥で、得体のしれない恐怖が渦巻いているのが分かる。
黒豹がいなくなる……そんなことを考えたことがなかった。
このアパートから、黒豹という存在が消える。
そんなこと、絶対に認められるはずがない。
「大丈夫だ。ここにいろ。出ていかなくていいんだ……お前は、出ていかなくていい」
論理や合理性なんてものは、どこにもない。
あるのは、みっともない執着だった。
俺はこの時、分かってしまったのだ。
黒豹がいない生活になど耐えられないということを。
無意識のうちに、理解してしまっていたのだろう。
黒豹が震える手で俺の服の袖を少しだけ掴んで、俺を見上げた。
目からは、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちている。
「……アタシ、もう我慢できないよ。だってガッチーのこと……こんなに……」
涙を流す黒豹の唇が、細かく震えている。
「我慢っていったい何を……?」
「それは――」
その続きを聞こうとした、その瞬間。
『ブルルブルル』
キッチンにおいてあった俺のスマホが、短いバイブレーションを鳴らしながら明るく光った。
画面にはメッセージ通知のポップアップ表示。
そして——その背景には……星城院さんと一緒に写った俺がいた。
初デート記念に、星城院さんと撮った写真だ。




