第34話 3文字の言葉
この水族館のメインである大水槽のエリアに辿り着いた。
巨大なアクリルの壁の向こうを、大きなエイやサメが気持ちよさそうにゆっくりと泳いでいる。
水槽からの青い光が、薄暗い館内を優しく照らしている。
ゆったりしたBGMと合わさって、妙に落ち着く空間だ。
俺たちは水槽の近くにあったベンチに並んで座った。狭いベンチだったので、黒豹の肩が俺の腕に当たるくらいの距離だった。
しばらく、2人とも黙って水槽を眺めていた。
「……なんだろうな。計画通りじゃなかったのに、やたら楽しかったな」
俺は思ったことをそのまま言った。
「でしょ~? 計画なんかなくてもさ、楽しい時間は過ごせるんだよ」
「ああ……今回は、お前のノリに助けられた」
よくわからんが、黒豹が少し驚いたように俺を見た。
「ガッチーがそういうこと言うの、珍しいね~」
「事実だからな。俺ひとりじゃ、特別展が終わってたと分かった時点で帰ってただろうな……」
そして、またチマチマと計画を立て直そうとしたはずだ。
「あはは。それはそれでガッチーっぽいけど……」
黒豹が水槽を見上げて楽しそうに、足をプラプラせている。
青い光が、彼女の金髪をひんやりした色に染めている。
その姿が不覚にも……『きれいだな』と思ってしまった。
自分でも分からなかった。
俺は――黒ギャルになんて興味がないはずなのだが。
なぜ……こんなことを?
星城院さんを前にした時の、あの『胸が高鳴る感じ』とは種類が違う『なにか』が俺の中にある。
黒豹の近くにいると……もっと静かだが、心の深い部分がじんわりと温かくなるような、不思議な感じがするのだ。
そうか、分かったぞ!
館内の暖房が効きすぎているんだな。
「ねえ、ガッチー」
「なんだ?」
「…………」
返事をしたが、黒豹はすぐには答えなかった。
「どうしたんだ?」
「そのさ……これ、本番は星城院ちゃんとなんだよね……」
いつもの軽い声で、黒豹が笑いながら言った。
明るく笑っているはずの声なのに、どこか震えているような……そんな気がした。
「…………」
今度は、俺が何も答えられなかった。
素直に「そうだ」と答えればいいだけなのだが、どうしても答えられない。
だが事実は「そう」なのだ。
今日水族館に来たのは、星城院さんとのデートのためだ。本番で失敗しないための下見で来ている。
それなのに「そうだ」という短い3文字が、喉の奥に引っかかって出てこない。
俺が無言の間にも、水槽の中を大きなエイがゆっくりと横切っていく。
水槽から漏れる青い光。
静かに流れる幻想的なBGM。
隣に座っている黒ギャルの横顔。
どうしてだ?
どうして俺は――なにも答えられない?
「ねえガッチー。記念に写真撮ろうよ!」
俺が何も答えないことにしびれを切らしたのだろうか。
そう言うと、黒豹が静かに立ち上がった。
「写真……? 急にどうした?」
いつもの明るい声。いつもの笑顔。黒豹に特に変わったところはない。
「背景最高じゃん、サカナかわいいし!」
「魚、かわいいのか?」
ヒレの可動域や、種の特徴的な箇所に目が行っていたが……かわいさは分からんな。
「ほら撮ろうよ、ビジュ優勝のアタシと写れるなんて最高でしよ?」
「ビジュ……優勝?」
「なに~? 不満??」
どうやら黒豹は、何かの大会で優勝していたらしい。
それなら、記念に撮っても良いかも知れない。
「じゃあ、撮るか」
「ほらガッチー、もっとこっち寄って!」
画面を見ると、俺が見切れている。顔すら写っていない
「なるほど……このくらいか?」
「もうちょっとかな?」
黒豹の真横まで顔を寄せてようやく画面に収まった。
スマホのインカメだと、こんなに密着しないと画面に入らないのか。
まるで恋人の様な距離感だ。
「いいね。撮るよ〜!」
「撮れたか?」
画面を覗くと、さすがギャルだけ合って黒豹は写り方が上手い。対する俺は仏像のように無表情だ。
「うん、いい感じ。後でガッチーにも送るね」
「あぁ、分かった」
いい感じなのか。まあ、俺はいつもこんな雰囲気なのかも知れないな。
「じゃ、次行こっか? あんまりここに居たら遅くなっちゃうし」
「そうするか……」
それからいくつかの展示を見て、水族館を出るころには空はもう暗くなっていた。
「もう……暗くなっちゃったね」
「ああ、最近は暗くなるの早いよな……」
来た時と同じ様に、駅までの道を並んで歩いていく。
会話は少なかったが、気まずい沈黙じゃなかった。
ただ、言葉にできない何かが……俺たちの間に煙の様に漂っている。
それが何なのか、この時の俺にはまだわからなかった。




