潜める音
「あれだけ世間を騒がせた『火勿一家失踪事件』も、あっという間に過去のものかぁ。……まだ、二ヶ月経ってないとは思うけど」
曇り空を見上げ、アタマは「仕方ないのかなぁ」と思う。
何の進展もなければ、次第に盛り上がらなくなるものだ、と。
「でも、考えてみれば、私も『世間を騒がせた系』の事件をどこまで覚えているかと言ったら、かなり怪しいところがあるなー」
テンとて、強烈な出会いがなければ、「隣のクラスの火勿君の家、大変みたいだね」で終わっていた。……いや、それすらなかった可能性もある。
(それはそうと、ランニングを始めた頃と比べると、ちょっとは体力がついたかな。正直、一ヶ月以上続いたことに驚きだけど……)
「ふう、根性がないなりに頑張れているな……」
アタマは公園の池を五周し、その足で許袁呂のいる沼へと向かう。
その途中で、犬を散歩させている親子を見た。
犬の目を「かわいいな」と思った瞬間、薄紅色の花が咲く。
リードを持っていた(恐らく、父親であろう)人物が、犬を蹴ったのだ。
彼の後ろを歩いていた姉と弟が、びくっと肩を跳ね上げる。
(ワ、ワンちゃんがリードをグイグイ引っ張りすぎていたっていうのは分かるけど、何も蹴らなくったって……)
思わず、非難がましい視線を姉弟に向けてしまう。
二人の目は「だって……」と語っていた。
不思議なことに、蹴られた犬は僅かに怯えを見せただけで、直ぐに父親に尻尾を振った。父親も、蹴った事など忘れたように、犬の頭を優しく撫でる。
(え、ええ、なんで?……「時々蹴られるけど、ご主人様はすっごく優しいんだ!」ってこと?すっごく尻尾を振ってるけど、それでいいの?)
得体の知れぬ気持ち悪さを感じ、背筋がぞわりと粟立つ。
これ以上関わりたくない、と足早に通り過ぎようとしたとき――。
「ネットに書き込まないでください。僕たちにはどうしようもないんです」
縋るような囁き声が耳に届いた。
振り返ると、弟と思わしき少年が、こちらに向かって頭を下げていた。
上げられた顔は、今にも泣き出しそうな顔をしている。
少年は、視線を父親へと向けた。
頭を下げていたところを見られていないか確認するように。
「……はあ」
気づかれなくてよかったと言いたげに胸を撫で下ろす。
見れば、姉も怯えた目をしてアタマを見ていた。
『然るべき場所』に通報されるのを恐れているような目だ。
アタマは尻尾を振る犬と父親を交互に見た後、渋々と首を縦に振る。
姉弟の安堵の息が聞こえてきた。
ありがとうございます。
姉の口は、確かにそう動いていた。
(……よかったの……かなぁ……)
嫌な『罪』を背負わされたような気分になり、アタマは眉を顰める。
(えぇ、なにこれ。私はただ、ランニングをしていただけなのに、なんでこんな『貧乏くじ』を引かされないといけないの?)
池をもう二周ほどしておけばよかった、と後悔を募らせた。
そうすれば、あの親子に会わずに済んだのに、と。
(あの……親子だよね。親子にしておこう。あの親子の関係がどんなものか分からないけど、ワンちゃんのことを通報したら、あの姉弟に蹴りがいくのかな。でも、だからといってワンちゃんを犠牲にするのは……これも、私が『外様』だから言えるんだろうな)
『通報しない時点で同罪』
『下手に通報して、逆恨みされたら馬鹿を見る』
『貴方は見てたんだよね?』
『簡単に生き物を蹴れるような人間を相手にするな』
ぐるぐると言葉が頭の中で渦を巻く。
それに合わせるように、胸がずしっと重くなってゆく。
(ああ、私はランニングしてただけなのに……)
胸に巣食う靄を振り払うように、アタマは沼に向かって走った。
■
「なるほどな」
アタマから一部始終を聞かされた許袁呂は、溜息とともに肩をすくめる。
「ん~、ほんの一昔前までは、そこまで問題視されていなかったからなぁ。その感覚で蹴っちまったんだろうよ。その姉弟と違って、ネットに対する危機感も薄そうだしな。今まで運よく過ごせていたなら尚の事」
(……どの世代でも、起こりえることではあるんだろうな。私だって、あの父親くらいの年になった時、自分の感覚や価値観を変えられるか分からないし。でも、それと蹴るのはまた違うような気もするけど……)
「はははっ、すごい顔になっているぞ!」
「あ、す、すみません」
許袁呂は「気にするな」と首を横に振った。
次いで、紫色の目をスッと細め、アタマを見つめる。
「…………まあ、幸か不幸かは分からんが、お前がそこまで気に病む必要はない。遅かれ早かれ近いうちに解決する」
「えっ?」
「父親と犬は、飲酒運転の車にはねられて死ぬ」
さらりと言われた言葉に、アタマは呆けたように眼を瞬かせた。
徐々に、言葉の意味が呑み込めてくる。
「そ、それは、止めないとまずいんじゃ……」
「なぜだ?」
「いや、だって、死ぬほどのことじゃないし、ワンちゃんも一緒なんて」
「今日見たのが、初めての蹴りだと思っているのか?」
許袁呂はそう言うと、「それに、死ぬほどのことも何もない。そういう『運命』だ。誰にも変えられん。……上位中の上位存在以外にはな」と続けた。
「上位存在?」
「神にも色々いるんだ。あまりに『上』すぎて、俺には関係ないがな」
(どこも縦社会なんだなぁ……)
しみじみと世知辛いものを感じながら、アタマは来た道を振り返る。
「あの姉弟のお父さん、死んじゃうのか……」
「母親も大概な奴だから、あまり解決はしないけどな」
「どうして、そこまで詳しく分かるんですか?」
「うーん、分かりやすく言うと『千里眼』だな」
許袁呂は片目を閉じ、二ッと得意げに笑って見せた。
欲しいかと問われ、アタマは首を横に振る。
「便利なことは便利ですけど、疲れそうなので……」
「ははは、そうかもしれないな。余計なものまで見えてしまう」
目を伏せるアタマの頬に、くーが優しく擦り寄って来た。
アタマは「ありがと」とくーの頭を撫でる。
「お前が今後、あの親子に接触するのは勝手だが、どうあっても『運命』は変えられない。……それを忘れないことだな」
(犬の散歩をしていたわけだから、たぶんあの辺りに住んでいるんだよね。……でも、正直なところ、もう関わりたくない)
「接触しません。忘れることにします」
決心を固め、真っすぐ許袁呂を見つめた。
「……そうか。まっ、それがいいな。あの辺りは、別の神が守っている。俺の息のかかった奴に、あれこれ動き回られるとウザいだろうからな」
「担当地域的なのがあるんですね」
「俺は『守る』なんてお人好しなことはしないがな」
「でも、守られていても死は避けられないんですね」
「そりゃあ、『守る』にも色々あるからな。何かと面倒臭いんだ」
(そういうものなのか。……今度、図書館で郷土史の本でも漁ってみようかな。面白いものがあるかもしれないし)
アタマは道中の自販機で購入した水を、ごくっと喉に流し込んだ。




