命を絶つ音は……
軽いはずの包丁は、酷く重く感じられた。
ついに来てしまった、とアタマは深呼吸を一つ落とした。
「ああ、相談したいことが一つあったんだ。包丁で刺したら血が流れるだろ?……やっぱ、自分が流した血だけじゃ、足りないような気がしてさ」
テンは、家に撒いてきた自身の血を脳裏に思い浮かべる。
冷静になった頭で考えると、あれでは到底足りない。
「それに、聞きかじった話だから本当かは分からないけど、血の濃さって、体の外側と内側じゃまた違うみたいだし、それが本当なら、『息子が自分も事件に巻き込まれた風を装った』ってとられかねないし。……まあ、実際そうなんだけど」
テンは肩をすくめると、「それに、血の量だってあれじゃ甘い。致死量レベルの量がないと」と泣きそうな笑顔でアタマを見つめた。
「一応言っておくと、血はこいつに運ばせるから心配するな。絶対に、お前の足跡や髪の毛が落ちることはない」
こいつ、と許袁呂は自身が作り出した鳥を顎でしゃくった。
次々と外堀を埋められ、アタマは苦笑する。
「……ですが、さっき許袁呂さんにお話しした通り、包丁で人を殺すだなんて、少なくとも私の力ではできません。できたとしても、苦しめてしまう」
「うーん、それも罰として受け入れるけど?」
「それは、お前が何も分かっていないからだ。……想像している以上に辛いぞ」
先程までとは打って変わった冷たい声。
許袁呂の鋭い視線を受け、テンはごくりと唾を飲み込んだ。
「今までだって、『覚悟はできております』『どのような目に遭おうと、最期はみんな命を落とすことに変わりはないのだから』と頷いた奴は数多くいた。だが、その殆どが……」
一度、二度、と刃物が自身の肉を刺し抉る。
待てども待てども死はなかなか訪れない。
「そうなってくるとな、怖くなってきてしまうんだよ。『痛い痛い』『こんなはずじゃ』『死にたくない』ってな。……一瞬がどれだけ有難いことかを再確認しながら、苦痛と後悔と恐怖に顔を歪ませながら死んでゆく。当然、涙と鼻水と涎と血で顔はべとべとに汚れている。イキっていた自分が恥ずかしくなるぞ?」
許袁呂の話を聞き終えたテンの顔からは、先程までの余裕は消えていた。
彼は、迷ったような目をアタマに向ける。
「ってなわけで、『贄』を捧げる時だけ、お前に剛力を授けよう」
どこからともなく烏の羽を取り出し、許袁呂はアタマの手を一撫でした。
ぱあっ、と両手が輝いたが、直ぐに光は消えてしまった。
だが、アタマは先程までの自分との『違い』をありありと感じていた。
「まあ、論より証拠だ。ちょっとそこの木を切ってみろ」
許袁呂の視線の先には、アタマがどうにか囲えるくらいの幹を持つ木。
「今のお前なら、簡単に切れるはずだ。包丁にも、頑丈さを付与したしな」
「つまりは、壊れる心配はない……と」
アタマは気に近づくと、思い切り包丁を振るった。
風を切るような音とともに、木がこちらに倒れてきた。
「おっと。……なっ、簡単だろ?」
倒れてきた木を受け止めながら、許袁呂はにっと口角を上げる。
切り株に近寄ると、酷く滑らかな切断面が見えた。
アタマは、「す、すごい。これなら……」と包丁を握り締める。
(流されるままに、お膳立てをされるままに、ここまで来てしまったけど、もうここで引くわけにはいかない。……やるしかない!)
心の片隅にこびりついていた迷いを振り払い、アタマはテンを見た。
テンも安心したようで、にこり、と微笑む。
「不思議な気分だよ。人生最後に話す人が花畑さんだなんて。接点なんて、クラスが同じだったくらいしかないのに……」
「それは、私も同意見だな」
「はは、……じゃ、お願い」
許袁呂に視線を戻し、テンはそっと目を閉じた。
その場に膝をつき、アタマが切りやすいように首を差し出す。
「黄泉路がどんな場所かは分からないけど、父さんと母さんに会えるかな」
それが、テンの最後の言葉だった。
真っ赤な花が咲き誇り、真っ赤な花弁が宙を舞う。
同じ色に染まった包丁を手に、アタマは肩で息をした。
地面には首のないテンの死体。
少し離れた場所には、微笑みを浮かべた首が転がっている。
「……捧げます」
アタマは静かな声でそう言うと、沼にテンの死体を沈めた。
許袁呂の力が付与されているはずなのに、なぜか重く感じられた。
全身から噴き出る汗を鬱陶しく思いながら、アタマは思う。
(くーちゃんをOFFにしていた筈なのに、綺麗な花が見えた……)
首を切る音も、体が地面に倒れる音も確かに聞こえた。
それなのに、真っ赤で綺麗な花が見えた。
不思議に思いつつも、アタマは自身の服を見る。
そこで漸く、体のどこにも血がついていない事に気づく。
手についていた血も、いつの間にか綺麗さっぱり消えている。
「全身血濡れなんて、帰るときに困るだろ?」
「……あ、ありがとうございます」
頭を下げると同時に、付与されていた力が抜けてゆくのを感じた。
許袁呂は沼に沈んだテンを思い、大きな溜息を吐く。
「……黄泉路ってのは、思えが思っている以上に広くて複雑な場所だ」
悲しんでいるようにも、憐れんでいるようにも見える瞳。
「死んだらすべてが終わる。楽になれる。……そんなものは幻想だ。今いる世界から解放されても、別の世界が口を開けている」
許袁呂は「……あの世が良い場所とは限らないのに」と締めくくる。
愁いを帯びた顔に、アタマは何も言うことができなかった。
脳裏をよぎるのは、先程の『お姉さん』だ。
誰かが、決定的な死を与えたわけではない。
一番の原因は子供だろうが、様々な要因が重なって死んだ。
あの老夫婦だって、死の原因になっているのかもしれない。
だが、誰も裁かれることはない。
彼らは今も無自覚に、毎日を送っている。
(お姉さんの子供は、十日後までだけど。……それでも、死にはしない)
どうしようもないやるせなさに襲われ、アタマの全身から力が抜けた。
(でも、私だって例外じゃないのかも。知らず知らずのうちに、間接的に誰かが死ぬ原因を作っていたっておかしくはない)
「……こう考えると、人を殺していない人を探す方が難しかったりするのかな」
「はははっ、かなりの暴論だな」
声になってしまった、とアタマは慌てて口を押さえる。
許袁呂は「俺とお前しかいないんだから、別にいいだろ」と苦笑した。
「まあ、考えるってのは大事だな。何も考えずに放った言葉が、後々、自分の首を絞める事なんざ推挙に暇がない。……まっ、お前みたいなのは考えすぎない方が良いか。胃痛でのたうち回ることになる」
「ほどほどが大事ってことですか?」
「そういうことだ」
許袁呂は空を仰ぎ、「今日はもう帰りな」と手を振った。
アタマは素直に従い、疲れた体を引きずりながら帰路に就く。
(死んだ先がどうなっているのかは分からないけど、お姉さんと火勿君が行く場所は、この世界よりもちょっとはマシな場所だといいな……)
反対に、テンの両親やお姉さんの子供、老夫婦には、それぞれ『被害者』の人生を追体験してもらうような世界に行けばいいと思った。
命が潰える直前に、「○○の気持ちが分かったか?」と耳元で囁かれて、自分が『加害者』側であったことを何度も認識させられればいい。
「……どんな風に、報道されるんだろう」
頭を悩ませる警察や事件の関係者を思い、アタマはほんの少し同情した。
■
「アタマ、お帰り」
家に帰ると、両親が笑顔でアタマを出迎えた。
「……お父さん、お母さん、ありがとう」
いきなり礼を言うアタマに、両親は「突然どうしたの?」と疑問符を浮かべる。
「言いたくなっただけ」
アタマは照れくさそうに頬を掻くと、自分の部屋へと向かった。




