優しい音が消えた・下
「『小動物』を供物にした日、見てよかったよ。自分の勘に感謝だ」
テンは鏡に視線を移し、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「……えっ、『見てよかった』って、お姉さんは殺されたんだよね?」
「ああ、殺された。けど、決して裁くことはできない」
ぐじゅ、ぐじゅ、と肉塊を蹴りつけ、テンは許袁呂に続きを頼む。
鏡に、新たな映像が流れ始めた。
実の子に言葉で追い詰められ、身も心も千々に乱れたお姉さん。
家にいてもどこにいても、我が子の言葉に苦しめられる日々。
上手く働かない頭を動かし、買い物に出かけた。
幽霊のような生気のない顔のまま、覚束ない足取りで道を歩く。
と、前から歩いてきた男が、お姉さんにぶつかった。
アタマはそこで「あっ」と声を上げる。
「え、知り合い?」
「……知り合いと言うと、ちょっと違うけど」
お姉さんにぶつかった男は、この沼に来る原因を作った老人だった。
隣には、同い年くらいの女が立っている。
「……って、明らかにそっちがぶつかって来たくせに。隣の人も、奥さんなのか分からないけど、なんで旦那に加勢するのよ」
老夫婦の怒りの声も、謝罪を繰り返しているであろうお姉さんの声も、全て花になって消えてゆく。
(なにも、こんな状態の人をターゲットにしなくても……って、あっちからすれば関係ないか。苛立ちを悦に変えられれば)
やるせなさを孕んだ瞳を、アタマは鏡へと向ける。
二人が去った後も、お姉さんの口は「すみません……」と呟き続けていた。
何もかもが限界。
そんな状態で、ふらふらと歩道橋を歩いてゆく。
階段を、踏み外した。
その時のお姉さんの顔は、どこか微笑んでいるように見えた。
ぶつり、と映像が途切れ、重い沈黙が沼を包み込んだ。
テンは気にする様子もなく、「どうだった?」と肉塊を見下ろした。
「お前、よく『現実を教えてやる』系の動画を見ていたよな。どうだ、『現実』は。……確かに、お前が直接殺したわけじゃない。でも、お前がここまで追い詰めさえしなければ、母親が死ぬことはなく、父親が悲しむこともなかったんだよ」
「がっ、げほっ」
蹴って、踏んで、蹴って、踏んで――。
「まっ、お前からしてみれば、こんな『小数点以下の現実』なんて『現実』じゃないんだろうけどな。……呻くんじゃなくて、何か言ったらどうだ?」
(……前に小説で『裁けぬ罪を裁く』みたいな話を読んだけど、実際の『裁けぬ罪』って、こんな感じなんだろうな。スカッともしないし、カタルシスもない)
何とも言えない気持ちのまま、アタマはテンを見つめていた。
歪な笑みとは対照的に、瞳はどこか悲しそうだ。
「それで、今の今までずっと、『普通』に生きて来たよな?本当、何も知らないって幸せだよ。悲しい顔して、父親を励ましていた……いや、お前も母親が嫌いってわけじゃなかったから、悲しんではいたんだろうけどさ」
テンは「ははっ、これが小説や漫画だったら、お前のことをこれでもかと叩いてくれる奴が現れるかもしれないのに」と鼻を鳴らした。
「お前自身も『こんな奴、裁かれるべきだ』『罪の自覚なくのうのうと生きているなんて、あってはいけない』とか書き込みそうだ」
「信者だったわりに、つせらきっあに対するリスペクトはゼロだよな。確かに、あの人が出していた『数字』『歴史』『比率』『思想』は正しいんだろうよ。だけど、それを理由に誰かを傷つけて良いなんて言ってたか?一方的に、言葉で殴りつけて鬱に追い込め、なんて言ったかよ?」
「てか正直、途中からそんなのどうでもよくなってただろ?ただ、頭が真っ白になって困惑する母親を見て、満足していただけで。……あんな風に追い詰めて、何がしたかったんだ?それと、さっきからぼそぼそと謝ってるけど、それって、こうなってるから仕方なくだよな?」
「傑作だよな。つせらきっあブームは疾うに過ぎ去って、中学になった今では思い出しもしないのに。お前の母さんの死は、一体何だったんだろうな。父さんだって、今も写真を見ては、お前に隠れて涙を流しているのに。……子供を、不安にさせたくないから」
「はあ、自分の我儘がちょっとでも通らないと『毒親』『虐待』『親ガチャ失敗』って、……ふざけんなよ。それならお前は『毒子』だクソが」
(さ、さっき火勿君の話を聞いた後だと、何とも言えないな……)
テンの私怨の混ざった怒りを見て、アタマは悲し気に目を細めた。
「……まっ、親殺しの俺がこんなこと言える立場ではないんだけどさ」
踏みつけるのを止め、テンは許袁呂とアタマに向き直る。
「じゃあ、こいつを『贄』にしたら、俺も――」
「待って」
アタマの制止する声を聞き、肉塊の目に『希望』が灯った。
それに激しい苛立ちを覚えながらも、アタマはテンに向かって口を開く。
「……別に、この子がどうなろうが知ったことじゃないけど、むしろどうにかなってほしいけど、お父さんは違うよね?何も知らずに、海外にいるんだよね?」
「ああ、ごめん。それは昔の話で、今はこっちに帰ってきているよ。……で、何も知らずにこいつと二人で暮らしている」
「だとしたら、奥さんに続いて子供も失うってことだよね?それは気の毒すぎるような気がするよ。『仏心』とかじゃなく」
「…………甘いとも思うし、それもそうだとも思う」
テンは肉塊を見下ろし、ぐっと拳を握り締める。
「なら、こうしよう」
それまで一言も発さなかった許袁呂が、手をポンと叩いた。
「こいつには、この場での出来事を一旦全部忘れてもらう。そして、十日ほど経ってから、『母親の死の真相』だけを思い出すように術をかけよう」
許袁呂が話をしている間に、肉塊の傷や服の汚れは見る見る消えてゆく。
が、恐怖からかその場に蹲ったままだ。
「この手の奴は『贄』にするのは構わんが、『信者』にすると厄介だ。下手に暴走しかねん。生かして帰すというのなら、多少、記憶を改ざんしないとな」
「……ま、そうですね」
テンに冷たい目で見下ろされ、「ひっ」と悲鳴を上げる。
(つまり、ここでの出来事を全部忘れて、いつもの生活に戻って、十日後に何の前触れもなく真相を知る、ってこと?根拠とかはないけど、なぜか分かってしまった。真相を父親に話すかどうかは、この子次第……)
罪を告白すれば、多少なりと胸は軽くなるだろう。
代わりに、父親からどう見られるようになるかは分からない。
だが、罪を告白しなければ、今まで通りの生活を続けられる代わりに、芽生えた罪悪感を一人背負って生きてゆかねばならない。
(どちらにせよ地獄か。……少なくとも、今は)
直ぐに「まあいいか」になりそうだな、とアタマは苦笑する。
「じゃ、やるぞ?達者でな」
許袁呂は皮肉にまみれた笑みを浮かべると、ぱちん、と指を鳴らした。
瞬きの間に、子供の姿が消える。
曰く、家の玄関前に送り届けたらしい。
「今頃、『こんなところで何してたんだっけ?』と思っているだろうな」
「……さようなら。平和な十日間を」
テンは泣きそうな顔をした後、祠に向き直った。
そして、視線だけをアタマに移す。
「……実は、自分の家に俺の血を撒いてきてもらったんだ。二人分の血しかないと、怪しまれるから。……警察の人には、申し訳ないことをしたけど」
目を伏せるテンに、アタマは何も言うことができなかった。
テンも言葉を期待してはいないのか「でも――」と話を続ける。
「ロべチューブとかにいる分析者気取りの連中に『若者の心の闇』とか言われるのだけはごめんなんだ。十分そこらの紙芝居動画にされたりするのも」
そう言うと、テンはアタマに包丁を差し出した。




