忍び音
数日後。
アタマが沼に到着すると、許袁呂は読んでいた本を閉じた。
「……あっ、おはようございます」
本の表紙を見て、アタマは恥ずかしそうに視線を逸らす。
「来て早々なんだ?」
「い、いえ、以前お渡しした三冊の本のうちの一冊だなって……」
「そりゃあ、俺は本屋のある場所まで行くことができないからな。例え行けたとしても、お前のような存在でなければ、俺の姿は見えん」
そう言うと、許袁呂は「なかなかに面白かったぞ」と二冊の本を掲げる。
喜んでくれて良かった、とアタマは胸を撫で下ろした。
一冊目は、バスをジャックした五人の大学生が『人質を殺されたくなければ、○○をネットで誹謗中傷した連中を無作為に五十人選んで殺せ』と要求する話。
二冊目は、一歩進むごとに罪悪感が上がってゆくダンジョン(通称・罪悪ダンジョン)に入り、一番奥には何があるのかを調査しようと試みる人間たちの話。
そして、三冊目は――。
アタマが何とも言えない顔をしているのに気付いた許袁呂は首を傾げた。
「ん、どうした?勿論、この本も面白かったぞ。力の使えない無能な少女と最強と謳われる貴公子の恋愛譚。……だが、お前には不評なようだな」
「……いえ、えっと、面白いと言えば面白かったんですけど、ちょっと主人公の女の子が、自分だけは純真無垢でいようとし過ぎているというか」
アタマは、本の内容を頭の中で反芻する。
誰もが不思議な力を使える世界で、一人だけ何の力も持たずに生まれた主人公。
家族からは虐げられ、ついには家を追い出されてしまう。
絶望の淵にいた主人公を救ったのは、最強の能力を持つ貴公子。
『お互いのことをよく知れば、誰も、傷つけ合おうなんて思わないわ!』
中盤あたりの主人公のセリフが、アタマの喉に魚の小骨のように刺さっている。
「――その、綺麗事だな、と思ってしまって」
話を聞いた許袁呂は、「ふむ」と顎に手を当てた。
「も、勿論、私の捻くれ精神がかなり影響しているのはあります。百も承知です。……真っ直ぐな主人公が眩しすぎて……」
「ははは、そういう奴は多くいるから安心しろ。自分の傍に優しさ100%の存在がいるのは構わんが、それが他人となると、『絶対に裏がある』『優しさしかない人間なんていない』とどうにかして粗を探そうとする……」
安心どころか、アタマの心はさらに重くなってゆく。
許袁呂は肩をすくめると、「綺麗事……ね」と可笑しそうに笑う。
「まあ、お前がそう思ってしまう気持ちは、分からんでもない。だが、的を得たセリフではあるぞ?古今東西、相手のことをよく知らずに起こる争いは数多い。……いや、争いと言うと規模が大きくて分かりづらいな」
腕を組み、許袁呂は「どうしたものか」と考え込む。
暫くして、ぱちん、と指を鳴らした。
「そうだ!お前がこの沼に来る原因を作った老爺も、お前の人となりをよく知っていれば、怒鳴り散らそうとは思わなかったはずだ。お前が己の認識している『最近の若者』とは違うと知れば、『これだから――』とはならなかっただろう」
「……確かに、そうなのかもしれませんね」
「だが、あえて知ろうとしない者も多い」
一段低められた声に、アタマは「え」と息を呑む。
許袁呂は無表情のまま、片方の口角だけをくっと上げた。
「『互いをよく知れば、傷つけ合おうと思わない』だから『相手を傷つけたいから知ろうと思わない』という者だっている。知ってしまえば、拳も口も鈍るからな。……ああ、今は指先もか。自分から進んで、遮眼革をつける者もいる」
悲しげな表情を浮かべた許袁呂を、アタマはただただ見つめていた。
許袁呂は、一冊目の本をぱらぱらと捲る。
「このバスジャックの話にも通ずるものがあるな。○○のことをよく知っていれば、多少なりと中傷する者は減ったんじゃないか?まあ、○○の立場が立場だけに、よく知っていても、それに蓋をして攻撃する奴はいただろうが……」
「詰みですね……」
アタマの脳裏によぎるのは、話の中盤からオチまでだ。
人質が二人死に、本当に無作為に五十人が選ばれた。
だが、主人公が機転を利かせ、殺されることはなかった。
しかし、社会的な死は待っていた。
世間から非難されることとなった五十人の中には、主人公の恋人もいた。
恋人の裏の顔を知ってしまい、最終的には破局する。
加えて、恋人は○○の家族に刺されて死んだ。
明日は我が身と、ほんの少し収まったネットの中傷は徐々に復活し、復活に乗れなかった者は書き込みができずにストレスを溜めていった。
そして、溜まりに溜まったストレスを『暴』に変えた。
何とも言えないオチに、アタマは重い溜息を吐いた。
「……ネットに中傷を書き込むだけで『我慢』している人がいて、それを取り上げられたら外に向く。なら、○○さんのような人はどうすれば良かったんでしょうね。開示請求とかよく聞きますけど、別に命まで取られる訳じゃないし、その時には、相手の心は傷だらけに出来ているし」
(だから「強いメンタルを持とう」的な本や動画が多いのかな。そういう人たちを、どうすることもできないから、こっちが時間とお金をかけて『我慢』を身につけないとね、って。……この考えが当たっていたら、嫌だなぁ)
「はあ、『罪悪ダンジョン』がどこかに出来たらいいのに……」
「ん?そこにムカつく奴を放り込む……と?」
心中で呟いたつもりが声にでていたらしく、アタマは慌てて口を押さえた。
それを見て、許袁呂は面白そうに肩を揺する。
「いやいや、溜めこまないのは大事だぞ?」
「す、すみません」
「あと、俺の力が戻れば、それに似たモノを作ることは可能だ」
あっさりと放たれた言葉に、アタマは「ええっ!?」と目を瞠った。
「とはいえ、異空間にだがな。お前の家の近くに公園なんかに作ることはできない。言ってしまえば、罪悪ダンジョンに神隠しに合う、ってことだ」
「で、では、神隠しにあったらそのまま、ということでしょうか?元の世界には帰れなくて、永遠にダンジョンを彷徨うことになる……と」
「ああ、戻したところで浦島太郎状態だ」
「そ、そうですか」
それではあまり意味がないな、とアタマは思った。
それでは、罪を償わずに消えたのと変わりない、と。
(被害者や遺族の人が望むのって『反省』なところも大きいと思う。そして、その様子を自分の目で見たいなって思うんじゃないかな。「すぅいますうぇ~ん。殺しちゃいましたぁ☆」「自分、罪悪感とかないんで(笑)」とかふざけて嗤っていた加害者が、自分のしでかした罪の重さにのたうち回って泣き叫ぶ姿を……)
消えてしまっては、その先でどれだけ酷い目に遭っていようが分からない。
もしかすると平和に暮らしているんじゃ、とも思ってしまうかもしれない。
「……だが、懲役を終えてヘラヘラ笑って生涯を終えられるのも嫌だろう?」
アタマの心に食い込むような言葉を、許袁呂は突きつける。
「やる側からすれば、所詮はそんなもんさ」
「……許袁呂さんは、なんというか私が望む言葉をくれますね」
「まっ、俺の祠に来てくれる唯一の人間だからな」
「……」
「力が戻るということは、供物が捧げられたということだ」
「……」
「心変わりを待っているぞ」




