表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灯台の魔法使い  作者: 有凪いちほ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/22

美しいもの

お店の天井から垂れ下がっているオーナメントを指で揺らすと、中心にあるガラスがきらきらと、電球の光を吸って輝くのでクラムはじっと見ていた。

「欲しいかい?」

  商品の並ぶテーブルの台を挟んで反対側の通路にいた先生が聞いてきた。クラムは首を横に振る。先生は片眉を上げた。

  今は村の中央の広場からほど近いところにある、行きつけの商屋に来ている。服や靴、生活の小物を先生はいつもこの店で買っていた。理由はこの店の主人にある。

「痛っ」

 声のした方を見ると、頭を抑えながらパーテーションを片手の甲で上げ、一人の女性が入ってくる。

「また頭を打ったのかい。そそっかしいね」

  先生に嫌味を言われて「うるさいよっ」と返す彼女こそ、この店の主人だ。名をアンジェリカと言い、古い先祖が魔女だったという。その繋がりで、先生とも関わりがあるのだそうだった。背が高いので、よくいろんなところに頭をぶつけてしまうらしい。

「大丈夫ですか?」

 クラムが問うと、子猫を見つけたように目を輝かせて近づいてくる。伸ばした両手で頬を挟まれぐりぐりとしたまま腕に抱き込まれる。潰される衝撃でウゥッと軽くうめく。

「かわいいね〜この子は。心配してくれんのはもうクラムだけだよ」

  うりうりとかわいがられ目を空に向けていると、先生が呆れたようにため息をつきながらこちらへ来る。

「やめてくれないかい、うちの猫に変な香りがつくだろう」

「じゃあ私の子になってしまうかい?」

  頬に手を添えてぐいと顔を向かされ目をぱちくりすると、パシッとその手が払われた。「痛ぁ」とアンジェリカが衝撃のあった場所をさする。先生はクラムとアンジェリカの間に入り、クラムを背にすっぽり隠してしまう。

「やめてくれ、クラムが私の元を離れることはない」

 先生の広い背中が、衣が鼻先に当たりそうなほど目の前で、クラムは先生の頭の方を見上げた。先生も背が高い。表情はちょうど見えない。

「わぁってるよ、ちょっとからかっただけだろ?」

  まったく、と目についた商品のずれを直しながら、先ほどはたかれて手の赤くなったところをさすっている。聞こえた音よりも実際の衝撃は強かったらしい。

「それよりも、頼んだものはできてるのかい」

「ああ、できてるよ。クラム」

  ちょいちょいと笑顔で手招きされる。先生を見ると、もう怒ってはないらしく、言っておいでと目で促される。アンジェリカさんの方に行くと、肩に腕を回される。

「じゃ、奥に行こうか」

「あんまり触らないでくれよ」

  後ろから聞こえる声にわあったって!と答えながら、腕を回すのはやめない。

「まったく、アンタも大変だねぇ、あんなのに好かれて」

  最初に彼女の入ってきたパーテーションをくぐり廊下をさらに進んでいく。クラムははあ、とぎこちなく答える。

「好かれてますか?」

  クラムがポツリと言った言葉にアンジェリカはギョッと目を丸くした。回していた腕を離し両手でガッと肩を掴まれる。

「自覚ないのかい? 思わないかい」

 軽く揺さぶられながら声も揺れる。

「いえその、心は開いてくれたかもとは思います、当初よりは」

 正直に言うとアンジェリカはああと天井を見上げた。

「どんだけ最初の印象を悪くしたんだアイツは」

 項垂れるように言い、しかし次の瞬間には「まあ面白いからいいや」と、また腕を肩に回して引き連れながら廊下を進む。

「今日はアイツに頼まれごとされててさ、でも逆に驚かそうと思うんだよ。協力してくれるかい?」

  先生を驚かす、という新鮮な言葉の響きに惹かれた。何かもわからないままに「はい」とクラムは答える。アンジェリカさんだし、心配する必要もないだろう。よしよし、と彼女は見たことないくらいニコニコしていた。


 通されたのは、服の部屋だった。服の部屋、と呼んだのは、びっしりと両の壁際に服がかかっているからだ。あとあるのは姿鏡と、ドレッサーが1つだった。上の方に一つだけある小さなはめ込み窓から、太陽の光が一筋差し込んで、床まで真っ直ぐに落ちている。

 アンジェリカはクラムをこの部屋に通すと一度出て行ってしまった。一人で部屋の真ん中で立っていると、一着だけ壁に掛かっている紺の服が目に入った。式服のようにきちんとしたワンピースで、都にいた頃、学校に通う学生たちが着ていたものに似ていると感じた。けれどそれよりも施された装飾は多い。

 とてもかわいいな、と、クラムは純粋に思った。しばらくそのまま、クラムはその服を見つめていた。

 ドアがガチャリと開き、アンジェリカが戻ってくる。手には何か細かくキラキラしたものがたくさん入った箱を持っていた。

「お、それ気に入ってくれたかい」

  クラムは最初、何を対象としてそれを言われたかわからなかったが、すぐに自分の立っている位置からして壁のワンピースのことを言っているとわかった。

「そのワンピース、着てみてもらえるかい?」

「え?」

  いきなりのことに、拍子抜けした声を出すと、着方がわからないかい?と尋ねられる。

「い、いえ。多分大丈夫だと思います……」

「そうかい、ならよかった」

 アンジェリカはニカっと笑い、持ってきた箱を下に置くとその蓋を開けた。

「それと、着終わったらここからいくつか好きなのを選んどくれ」

  中に入っていたのは、沢山の装飾品だった。髪飾りに、ネックレス、ブレスレット、イヤリング、指輪、全て揃っている。

「まあ、合わすなら三つくらいがいいかもね。よくわかんなかったら私が一緒に合わすから」

  じゃあ終わったら呼んでねと手を振って颯爽と部屋からまた出て行ってしまう。クラムはとりあえず、言われた通り壁にかけられたワンピースに着替えるため手を伸ばした。


 商屋の店側に残っていたグラスバードは、カウンターそばに置かれている椅子に座り、先ほど受け取った紙面を読んでいた。

「呪解かい」

  アンジェリカは戻ってきて、グラスバードの手元の古びた紙を見るなり言った。その手には紙袋を持っている。

「はいこっち、頼まれた品」

  ああ、と受け取る。先ほどの言葉に対しては「そうだよ」と返した。

 アンジェリカは先ほどのクラムとのやりとりもあり、呆れたように近くの台に頬杖をついてグラスバードを見た。

「聞いたことなかったけどアンタ最初どんなだったんだい、あの子に対して」

 グラスバードは紙を一枚を捲る。

「なぜそんなことを聞く?」

「あの子アンタに好かれてるのよくわかってないみたいだからさ、こんななのに」

  こんなというのは失礼な言い方だが、まあ最初の頃のことは自分に非があるのでグラスバードも特に反論はしない。

「七日野宿させたね。食事も出さなかった」

 アンジェリカが愕然とした顔をした。グラスバードは紙を閉じ尖った視線を向ける。

「当時の私の心理は知っているだろう」

「あの子逃げなかったのかい」

  続けて問われたがそれには答えなかった。現状がそのままの答えだ。

 普通の人間が相手なら、ここで自分を痛烈に罵倒してくるだろうが、魔女の末裔として事情を知るアンジェリカは、別の思考に走り口元に手を当て、しばらく何かを考えるようにした。

 目だけでグラスバードを見る。

「呪解、できると思ってるのかい」

「『やる』んだ、それしかない」

 そんな言葉をグラスバードが言ったことは初めてだ。それだけで、彼が本気だとわかる。決意に対しても、クラムに対しても。

 アンジェリカはそれ以上そのことには何も言わなかった。

「仲のとりもちなんて私はできる柄じゃないからやんないけど、まあ応援はしてるよ。あの子は私も気に入ってるしね」

  ヒラヒラと手を泳がせて彼女はまた店の奥に入って行った。グラスバードは少しの間その方を見ていたが、何ごともなかったように、再び紙束を手に取り、目を通していった。


 クラムは鏡で自分の姿を見る。足元を揃え、少し背中の方を向けて、後ろもおかしくないか左右確認する。大丈夫だろうと判断して、机の上を見た。箱から選んだ、自分の好きだと思った三つの装飾品の輝きを見て。目を瞬かせてから、部屋のドアを開けに行った。

「アンジェリカさん」

 廊下を覗いて、誰もいない空間が続く中で、少し不安になりながら店主の名前を呼ぶと、はいはい、と階段から降りてくる。

「着れたかい?」

「はい、たぶん」

 今までにないボタンの位置と数に迷う部分があったので、多少不安の混じった答えになった。入ってきたアンジェリカはクラムの肩に手を置き回り込みながら全身を見る。

「大丈夫だね、ちゃんと着れてる」

 安心したように笑顔になる。

「似合ってるじゃないか、キツくないかい?」

「あ、はい。ちょうどいいです」

  自分が可愛いと感じた服を似合ってる、と言われたことに恥ずかしさと戸惑いを覚えながら、着心地には問題ないことを伝える。

  アンジェリカは服のことがひと段落すると、クラムをドレッサーの方へ促した。椅子に座らせてから、机の上の選ばれた装飾品を手に取る。

「こういった系統が好きなんだね、合うと思うよ」

  クラムは口元が緩むのを抑えた。普段から、また今までも、服は常に戦闘ができるようにしているから、着飾る物事には詳しくない。本当は今こうしていることも、いけないのではという感覚がどこかにある。それでも、素敵だと思ったこと、綺麗だと感じたこと、その心は存在しているから。アンジェリカの、服飾に関する自分の感覚を肯定してくれる言葉は、嬉しいと感じた。

「これをつける前に、先に顔やっていくね」

  え? と鏡越しに彼女を見ると、ニヤッと笑う表情が見えた。彼女はクラムの背中越しに手を伸ばしてきて、鏡に手をかける。開くと思っていなかった鏡面が戸のように開いて、目を開く。裏には沢山の化粧道具が詰まっていた。


 紙面を見終わり、紐を括りなおして懐へしまうと、グラスバードは腕組みをし、静かに息をついた。

 呪いというものの定義は様々だ。が、グラスバードやアンジェリカが使うその言葉が示すものは共通していた。それは、「自分の自由を奪うもの」であるということ。

 自分の心の自由を奪われる。普通はそのことに反発し、そうさせてくる対象を拒絶する。なのに、人間の社会の中で、都合よく育てられられるうち、信頼からそのことに気づかず、自分の心を失っていく者がいる。失わせる育て方をしたものは、その後の責任なんて取らないのに。いっときの自分の都合、状況のためにそれをする。「自分のため」を相手に「相手のため」とすり込ませ、行わせる。その後の人生のことは何も知らないと手を離して。後になって追求したところで、過去のこと、判断できなかったあなたが悪い、そう言うだけだ。

 当たり前のことだ。けれど、それで済ませるわけにはいかない子供たちがいる。言うことを聞く子を生み出しているのに、望み通りそうなったのに、潰れてしまう、潰されてしまう人。

 その人たちを救う最後の場所が、協会だ。

 その異質なほどの善性から、普通と呼ばれる民たちは距離を取り関わらない存在だ。彼らの信じているものは、普通とは違う思考を彼らに与えることがあるから。それでも、一つの団体として、社会には存在している。彼らを潰してしまえば、社会としては自分が本当の悪になるからだ。「普通の民」は自分を悪と捉えられることを嫌う。

 グラスバードはずっと考えていた。今までずっと関わってきていながら、自分の人生に付きまとうその存在を忌み嫌いながら、考えたことのなかったことを、初めて真剣に思っていた。

 クラムに、その場所を抜けてほしい。

 賢人をアーバンリキュガルという悪魔から守ることができる唯一の存在として、社会の中に成り立っているその場所は、優しく賢く、そして潰れた人間の唯一の行く宛だ。

 現状の社会には、協会以外に彼らのような人を受け入れ、社会の中で一人前に生きてゆける力を与えられる場所が他にはない。だから自分の本意ではなくても、関わりのみは許可してきた。

 だが、クラムは違う。

 協会の人間を近づけることを辞めていた時期に出会った。当初はそばに置く気はなかった。けれど。


 廊下の奥から足音と話し声がする。

「靴大丈夫?」

「はい、何とか」

 アンジェリカの物でない硬い靴の足音がして、グラスバードはそちらを向いた。アンジェリカが笑いながら入ってきて、その後ろから固い靴音の主は入ってきた。グラスバードはその姿を見て、思わず体をさらにそちらに向ける。パーテーションをくぐりこちらを見たクラムと目が合う。と、照れたように少し顔を赤らめ、その様子にどうしていいかわからず少し口元を歪める。

 クラムは手に持っていた大きな紙袋、おそらく着替えた元の自分の服を床に置くと、いつもの如く姿勢良く立ち、体の正面で手の指を組んでやっと言葉を発した。

「お待たせしました……」

  うっすらと色づいた口元と目元。

「化粧をしたのか」

  服のこともあるのだろうが、いつもより大人びて見えた。

「アンジェリカさんがやってくれました。……似合いませんか?」

  アンジェリカの方に目をやると「似合うだろ」という目で圧をかけてきている。思わず少し引いて、またクラムへ目をやった。少し不安そうにしていて、言葉を待っているのだとわかった。

 体の思うまま立ち上がり、クラムの前に立つ。肩に手をかけられるほどそばに行って、止まった。いつもなら肩に手をかけているが、今の姿のクラムには憚られた。

「先生?」

  クラムが不思議そうに見上げてくる。何も思わないようにした、この場はアンジェリカがいて何事もやりずらい。アンジェリカは「別に何していただいてもいいんだよ」という感じで後ろでニヤニヤしている。いいわけがない。

「外に行くよ」

 それだけ言って踵を返す。え、とクラムの声がしたが、座っていた椅子のそばに立てかけていた杖を手に取る。

「でも、服返さないと」

「それは買ったんだよ、キミに」

  え、とクラムはアンジェリカを振り返る。はっきりときれいなウインクを返される。

「ちょっと、待ってください。お金は」

「支払いは済んでいる」

「そうじゃなくて、この服すごく高価ですよね」

  そのくらいはクラムにもわかった。繊細な細工もそうだが、材質がかなりしっかりしている。着ていてわかる。グラスバードは振り返った。

「いいものを買ったんだ。キミの仕事と働きに対して当然のことだと思って、もらっておきなさい」

  でも……とクラムが言い淀む。

「この服で外には出られません。仕事がありますから」

  クラムは戦闘のことを考えた。どんなときも、どんな時間でも、それは頭のどこかになければならない思考なのだ。アンジェリカが壁にもたれかかったまま口を開く。

「スカートの下にヴァロッタは履いてるだろう?」

 ヴァロッタとはタイツのような物で、それよりは服寄りに頑丈な、革のベルトの巻きついた、足の動きを補助する役目も持つ物だ。最初着たときには何故これも履くんだろうと思ったけれど、私のために考えられていたのかと気づく。

「履いてはいますが、でも……」

  続く言葉を二人の大人は待った。グラスバードは、服そのものを嫌がっているのかと危惧したが。

「この服、すごく綺麗だから」

 続いた言葉に杞憂だったとわかる。アンジェリカが「ありがとね」と答えて続ける。

「都の騎士様たちだって、飾られた綺麗な服を着てるだろう? 」

 その言葉にはクラムも腑に落ちて、そっか…という風に顎に指を当て黙ってしまう。アンジェリカはそっと笑った。

「優しい子だね。まだ十六なのに。自分の素敵だと思った服を着て遊ぶことも、やってみてごらん。ちゃんとアンタの仕事を蔑ろにはしないものを作ったからさ。その服はアンタを守る。今までよりもずっとね」

  アンジェリカの言葉に、クラムはグラスバードを見た。深い紺の色が優しい目で、魔法使いは少女を見る。

「クラム、外へ出よう。話はそれからするよ」

 クラムはグラスバードの言葉に頷いた。床に置いていた紙袋を手に取り、アンジェリカの方へ向き直る。

「あの、ありがとうございました」

  アンジェリカが優しい笑顔を見せる。

「驚かせちまって、悪かったね。その服はアンタが過ごしやすいように、丹精込めて作ったんだ。まあ、あまり気負わず、よろしく着てやっておくれ。いくらでもボロボロにして、それを口実会いにきとくれよ。いくらでも作り直すからさ」

 クラムは少し笑ってもう一度深く頭を下げ、店から出ていく先生の後を追った。アンジェリカは壁にもたれたまま緩く手を振って少女を見送った。


      *


 外へ出ると、もうだいぶ日が下がっていて、穏やかで涼しい風が通り抜けている。空を見上げてから、前を歩く先生へ視線を移す。同じように、遠くの空を見ていた。三つ編みに結われた長い髪も揺れている。

 しばらく何も話さず二人で歩いていた。クラムは少し下を向いていた。先生はアンジェリカのお店を出てから一言も発していない。

 家に挟まれた通りを抜け、村の外れまで来る。村の周りを囲う草原も、同じように風に揺れている。

 その光景を見ていると、足を止めた先生がやっとクラムの方を向いた。じっと見てくるので、思わず視線を下に逸らす。

「似合っているよ」

 穏やかにそう声が聞こえたので、クラムはほっと息を吐いた。

「先生何も言わないから、息が詰まりそうでした」

「すまないね。あそこにはアンジェリカがいたから」

 聞かれるのが嫌だったということだろうか。

「彼女とは彼女の祖母の代からの古い付き合いだが、苦手なんだよ」

  へぇ、とクラムは思う。初耳だった。へへ、と笑って装飾の美しいスカートの裾を掴む。

「ありがとうございます、服。すごくかわいいです」

 先生がにこりとする。嬉しいときの表情だ。

「よかった。言うとキミは遠慮するかと思ってね。内緒で作っていたから、キミの好みかどうかはわからなくて、心配していたんだよ、これでも」

  気に入ってもらえたようで何よりだ、と先生はまた歩き出す。クラムは横に並んで歩く。聞き慣れない固い靴の足音が並ぶ。

「そうだったんですね。私、アンジェリカさんに『先生を驚かそう』って言われてこれを着たので。でも先生、見せたとき驚いてなかったから、失敗したのかなって焦りました」

 思い出して笑う。先生の反応がない。気になって先生の顔を見上げる。何かを考えるように、遠くを見ている。

「……驚いていたよ」

 先生の言葉に「え?」と呟くと、先生がクラムを見る。

「言ったろう、アンジェリカがいるから何も言わなかったんだよ。少しの反応も」

 言葉なんて特に、聞かれたくないからね、と。

 先生が足を止めたので、クラムも足を止める。二人の伸びた影がそよぐ草の上に落ちている。先生の瞳が、生まれたての夕陽の光に透き通って見えた。

「とても似合っている。かわいいよ」

  何故か、自分でもわからないけれど目元が潤む。頬が、熱くなるのがわかり、思わず目を逸らす。何かを言おうと口を開きかけ、でも声は出てこない。

「私の願いは、キミに楽しんでもらうことだったのだけど。思いがけず、私だけ良くなってしまったかもしれないね」

  言葉に、クラムは首を横に振る。

「いえ……私も、楽しかったです」

  出てきた声はいつもよりか細くて、どうしてしまったのだろう、と。首元に手の甲を当てる。

「ずっと、化粧にも、綺麗な服にも……少しだけ、興味があったので」

  先生は目を細める。「ああ、知っているよ」と。先生を見上げると、再び視線が交わる。穏やかで優しい目だ。見上げていると、グラスバードはかすかに笑って、また道の方を向く。

「今日はそういう一日だからね。行こうか」

 歩いていく先生の後ろについていく。さっきまでとは違う理由から、クラムはしゃべることはなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ