後編 光は、とどく
押し入れの奥で見つけた日記が、
忘れていた夢を連れ戻してくれた話です。
全3話完結済みです。
十一月になった
凪沙は進路調査票を前にして、長い間、ペンを止めていた
担任の先生は来週までに出すようにと言っていた クラスメートたちはとっくに書き終えているらしく、 休み時間に志望校の話をしている声が聞こえてきた
凪沙だけが、まだ何も書けないでいた
書けない理由は、わかっていた
書くのが、怖かった
夢を書いたら、本物になる 本物になったら、叶わなかったときに、本当に傷つく それが怖くて、ずっとぼんやりとした霞の向こうに夢を置いてきた
でも凪沙はあの夜、星を見た そして父の言葉を思い出した
とおくても、ひかりはとどくんだ
凪沙はペンを持った
手が、少し震えた
それでも、書いた
「天文学部のある大学へ進学し、宇宙物理学を学ぶ」
一文字ずつ、押しつけるように あの日記の字みたいに、丸くて不格好でも、一生懸命に
書き終えて、凪沙はその文字をしばらく見つめた
紙の上に並んだそれは、たった二十字ほどのものなのに、 なぜかとても重くて、でも不思議なくらい、軽かった
放課後、凪沙は屋上へ出た
学校の屋上は普段は施錠されているが、 天文部の部員は鍵を借りることができる
凪沙はまだ天文部に入っていなかった でもあの日から図書室で天文学の本を読み続けていた凪沙を見て、 司書の先生が顧問の先生に話をしてくれて、 今日だけ特別に鍵を貸してくれた
空は夕暮れの色をしていた
オレンジと紫が溶け合って、世界の端が燃えているみたいだった 風が凪沙の髪を撫でた、 空の手のひらが、そっと頬に触れるみたいに
凪沙は欄干に手をついて、空を見上げた
まだ星は見えない 空が明るすぎて、星たちは息をひそめている でも凪沙にはわかった
ちゃんとそこにいる 昼間だって、雨の日だって、ずっとそこにいる、 見えないだけで
「見えないだけで、あるんだよね」
誰もいない屋上で、凪沙は独り言を言った
夢も、そうだったのかもしれない
凪沙が気づかないでいた間も、夢はずっとそこにあった 八歳の自分が星空の下で泣いたあの夜から、 ずっと、ちゃんと光り続けていた
ただ凪沙が、別の方向を向いていただけで
空が少しずつ暗くなっていく
そして、最初の星が現れた
一番星
凪沙の目が、熱くなった こらえようとしたけれど、無駄だった 涙は空からの贈り物みたいに、静かに頬を伝っていった
ただただ、泣いた
悲しいわけじゃなかった 嬉しいわけでもない
ただ、長い間どこかへ行っていたものが、ようやく帰ってきたような、 その感覚が、あまりにも温かくて、 胸が溢れた
凪沙はポケットから日記を取り出した
今日持ってきたのは、意味があった
最後のページに、こう書いてあったから
おとなになっても、ほしをみようとおもう ほしをみるたびに、わたしはわたしでいられるきがするから
八歳の自分が、ちゃんと知っていた
大人になると忘れてしまうようなことを、 あの子はちゃんと知っていて、ちゃんと書き残してくれていた
まるで、いつか迷子になる未来の自分へ向けた、手紙みたいに
凪沙は日記を閉じて、空を見上げた
星が、増えていた
一つ、二つ、三つ 数えようとしたらきりがなかった 光の粒たちが、夜空に咲く花みたいに、次々と顔を出していた
「ただいま」
凪沙はもう一度、そう言った
今度は誰に言うのか、わかっていた
あの八歳の自分に、言っていた 星空の下で泣きながらとおくても、ひかりはとどく、と信じていたあの小さな自分に
そして、夢に
ずっとそこにあってくれた、空気みたいな、星みたいな、夢に
凪沙が屋上を後にしたのは、空がすっかり夜になってからだった
階段を降りながら、進路調査票のことを考えた 明日、先生に提出しよう 震える手で書いたあの文字が、今はもう、ちゃんと自分の言葉に感じられた
玄関を出ると、冷たい夜気が頬を包んだ
凪沙は立ち止まって、もう一度だけ空を見上げた
星は、ある
遠い、どこまでも遠い場所で、でもちゃんとそこで光っている
夢もきっとそういうものだ、と凪沙は思った
手を伸ばしても届かないくらい遠くて、 掴もうとすると消えてしまいそうな空気みたいな存在 でも確かにそこにあって、 凪沙の呼吸の中にずっとあった
だから大丈夫だ
届かなくてもいい 届こうとし続ければいい
光は、とどく
凪沙は歩き出した 冷たい夜道を、星明かりを道連れに、一歩ずつ、前へ
星たちがちゃんと見ていた
了
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