前編 日記は、埃の匂いがした
押し入れの奥で見つけた日記が、
忘れていた夢を連れ戻してくれた話です。
全3話完結済みです。
夢って、なんだろう、と思ったのは、 押し入れの奥で見つけたあの小さなノートを 手にした瞬間だった
雨が窓を叩いていた、いや、違う、空が泣いていた まるでずっと我慢していたものをやっと吐き出すみたいに、 しとしとと
あの日の午後、世界はやわらかく濡れていた
凪沙は膝を折って段ボールの山をかき分けながら、 自分でも気づかないうちに息を止めていた
指先に触れたそのノートの表紙は、色褪せた水色で、 右下に金色のシールが貼ってあった―― 星のかたちの、安っぽくて、でもどこか愛しい、あのシール
十七歳の秋は、灰色だった
色がないわけじゃない 木々はちゃんと燃えるように赤く染まっていたし、 空は晴れた日には突き刺さるくらい青かった
でも凪沙の目の奥には、フィルターがかかっているみたいで、 何を見ても、どこか遠かった
学校へ行って、授業を受けて、友達と笑って、家へ帰る その繰り返しの中で、何かが少しずつすり減っていくような感覚を、 彼女はずっと見て見ぬふりをしてきた
「凪沙、押し入れ片付けといてね」
母の声が階下から届いて、凪沙はため息をついた
年末でもないのに大掃除を思い立つ母を、 少しだけ恨めしく思いながら、 それでも従ったのは、部屋にいても何もする気になれなかったからだ
段ボールの中には、昔のものがたくさん詰まっていた 使い古した色鉛筆の缶、折り紙で折ったぐちゃぐちゃの鶴、 小学校のときに作った粘土の皿
どれも記憶の縁にひっかかるようでいて、 ちゃんと思い出せない、そんなものたちだった
そして、ノートを見つけた
表紙に、ひらがなで書いてあった――「なぎさのひみつのにっき」
凪沙は少しの間、そのノートを手の中で転がすように見つめた 開くのを、躊躇っていた 何故かはわからない
ただ、これを開いたら何かが変わるような、 そんな予感が、胸の奥で静かに灯っていた
窓の外で、空がまた泣き声を上げた
凪沙はゆっくりと、ページを開いた
最初のページには、日付があった 九年前、凪沙が八歳のときに書いたものだ
字は丸くて、へたくそで、行が斜めにずれていた でも一字一字、一生懸命に押しつけるように書いてあって、 そのひたむきさが、今の凪沙の胸にじわりと染みた
きょう、はじめてほしをみた おとうさんとやまにのぼって、 よるになったらそらがまっくろになってほしがぜんぶでてきた わたし、びっくりしてないた おとうさんがわらってた でもなみだがとまらなかった あんなにきれいなものがあるんだって
凪沙は読みながら、あのときのことを思い出した 山の頂上で、父に抱きかかえられながら見上げた夜空
光の粒が、数えきれないほど散らばっていて、 その一粒一粒がまるで誰かの声みたいに、 凪沙に向かって囁いているようだった
あのとき、八歳の凪沙は何を感じたのだろう
今の凪沙には、もうその感覚が、遠かった
日記はページをめくるごとに、いろんな「なぎさ」を見せてくれた
遠足で転んで膝を擦りむいたこと、 給食の揚げパンが大好きだったこと、 友達とけんかして三日間口をきかなかったこと
どれも小さな、でも当時の凪沙には世界のすべてだったような出来事が、 丸い字でぎっしりと書いてあった
そして、ある日のページで、凪沙の指が止まった
しょうらいのゆめ、みつけた てんもんがくしゃになりたい ほしのことをぜんぶしりたい ほしはなんであんなにきれいなの ほしはなんであんなにとおいの しりたい、しりたい、しりたいよ
天文学者
その四文字を見た瞬間、凪沙の胸のどこかで、何かが音を立てた ガラスのひびが入るような、静かで繊細な音だった
そうだ、と思った そうだった
いつ、忘れたんだろう
凪沙は天井を見上げた 押し入れの中は薄暗くて、 外の雨音だけが世界の声みたいに響いていた
指先がかすかに震えていることに、自分でも驚いた
いつから、星を見なくなったんだろう
中学に上がって、勉強が難しくなって、 理科は得意じゃなかった というより、得意じゃないと思い込んだ
周りの子が難しそうな問題をすらすら解くのを見て、 自分には無理だと、そっと蓋をした
夢という言葉が、どんどん遠くなっていった 気づいたときには、もう夢という概念ごと、 押し入れの奥に仕舞い込んでいた
あの日記と一緒に
読んでくれてありがとうございます。
続きもよろしくお願いします。




