試験
翌日の三の刻。ハーゲンは約束通りに来た。
昨日と同じ紺の上着。胸元のギルド紋章。背筋の伸びた姿勢。だが今日は手に何も持っていない。昨日は報告書に目を通す視察だった。今日は——対話だけで来ている。
「お邪魔します。今日もよろしくお願いしますな」
「……どうぞ」
ノエルは応対スペースの椅子にハーゲンを通し、自分も向かいに座った。テーブルの上にはシフの装置がある。振動膜がわずかに振動しているのは、音量を最小に絞った待機状態だ。
昨夜、二人で打ち合わせた手順はこうだ。ハーゲンの質問にノエルがまず答える。答えに詰まったら、シフがハーゲンに聞こえない音量で補足を入れる。ノエルはそれを自分の言葉に置き換えて返す。
試験のカンニングと何が違うのかと聞かれたら、違わない。
「さっそくですが」
ハーゲンが茶を一口飲み、カップを置いた。灰色の目がノエルに向く。昨日と同じ穏やかな顔だが、目の奥にある品定めの光は隠しようがなかった。
「昨日の報告書、改めてじっくり拝見しました。よくまとまっている。特に地域課題の分析は感心した」
「……ありがとうございます」
「そこで聞きたいのですが。南街区の排水路の問題、報告書には『衛生リスク』と書いてありましたな。先生から見て、あれはどの程度の深刻さですか」
排水路。南街区。シフの報告書に書いてあった項目だ。依頼人から聞いた断片的な情報をシフが統合したもので、ノエル自身は現場を見ていない。
口を開きかけて、止まった。答えられない。排水路の構造も、詰まりの原因も、衛生リスクの具体的な数値も知らない。
沈黙が一秒。二秒。
テーブルの上から、極めて小さな音が届いた。
「——南街区の排水路は石組み。築四十年超。詰まりの主因は鍛冶区画からの魔導合金の廃液の堆積。放置すれば雨季に溢水し、井戸水への混入が起こりうる」
ハーゲンには聞こえていない。彼の耳は振動膜から椅子二つ分の距離がある。ノエルはテーブルのすぐ横だ。
「……南街区の排水路は、構造自体が古いんです。四十年以上前の石組みで、もともと排水量に余裕がない。そこに鍛冶区画からの魔導合金の廃液が長年堆積している。残留魔力を含んだ金属成分ですから、井戸水に混入すれば飲用に適さなくなります」
ハーゲンの目が細くなった。
「具体的ですな。現場を見に行かれたのですか」
「いえ、依頼で来た方々の話を総合した分析です。実際に確認するなら、一度現場を見る必要がありますが」
嘘は言っていない。総合分析をしたのはシフだが、情報源が依頼人の話であることは事実だ。
「なるほど。——では、もう一つ。鍛冶師組合の炉の温度管理問題。報告書には魔導具の設計限界とありましたが、先生ならどう対処されますか」
これは答えられる。あの鍛冶師の温度計を実際に診た。
「刻印の許容量を超える魔力が流れていることが原因です。核の出力を弄って上限を無理に上げている職人が多い。対処としては、刻印自体の設計を見直すべきです。単一刻印では限界がありますが——」
言いかけて、気づいた。二層構造の話に踏み込もうとしている。まだ仮説段階の理論だ。ハーゲンの前で話すべきかどうか。
「——ですが、現行の刻印設計の範囲内でも、配合比の調整で多少の改善は見込めます。根本解決には新しい設計思想が要りますが、それは研究段階です」
「二層構造、でしたかな。昨日の報告書にあった」
覚えている。もちろん覚えている。ギルドの支部長がそんな細部を見落とすはずがない。
「ええ。ただ、まだ仮説の検証中です。実用化の目処は——」
「楽しみにしています」
ハーゲンは笑った。深追いしなかった。これが怖い。追及するより、「楽しみにしている」の方がよほど逃げ場がない。
「では次に——」
質問が続いた。農地の土壌劣化。季節による魔力の変動。ポーションの品質基準。魔道具の耐用年数と検査制度。
半分はノエルの知識で答えられた。残り半分は、テーブルの上から届く小声が支えた。
シフの補足は的確だった。数値、固有名詞、技術的な背景——ノエルが知らない情報を、ハーゲンの耳には絶対に届かない音量で、必要最小限の単語だけ伝えてくる。ノエルはそれを自分の文脈に組み込んで答える。窓から差す午後の光が少しずつ傾いていく。ハーゲンは茶を飲みながら質問の合間に報告書をめくり、ノエルは背筋を伸ばしたまま、耳の片方をテーブルに傾けていた。
問題は、組み込む作業が思った以上に難しいことだった。
シフが「レーゲン近郊の表土層は人の背丈ほどの深さで粘土質に切り替わる」と伝えてきたとき、ノエルは一瞬詰まった。聞いたばかりの情報を、自分の知識のように自然に話に織り込まなければならない。
「——表土層の深さにもよりますが、この辺りは比較的浅いところで粘土質に切り替わるので、保水力に偏りが出やすい」
具体的な数字を避けた。自分で確かめていない数値を、さも知っているように言うのは——気持ちが悪い。
ハーゲンはうなずいた。メモを取っている様子はないが、目の動きで分かる。全部覚えている。
七つ目の質問が来たとき、ノエルの喉は乾いていた。
「先生。もう一つだけ。——先ほどから、助手殿が何か言っているようですが」
心臓が止まった。
ハーゲンの灰色の目が、テーブルの上の振動膜を見ていた。
「振動膜がわずかに動いている。私の耳には聞こえませんが、先生にだけ聞こえる音量で何かを伝えているのではないかと」
沈黙が降りた。ノエルの脳裏を、いくつもの言い訳が走り抜けた。装置の動作音です。待機状態の振動です。仕様です。
どれも嘘だ。
「……ええ」
認めた。嘘をつく気力が、なかった。
「補足を入れてもらっていました。俺の知識だけでは答えられない質問がありましたので」
ハーゲンはノエルを見つめた。三秒。五秒。表情が読めない。
それから、声を出して笑った。
「正直な方だ」
「……すみません」
「いや、謝ることではない。むしろ安心しました」
安心。何が安心なのか。
「昨日の報告書を見て、少し疑問だったのです。あれだけの分野をカバーしていて、全て先生お一人の知識なのか、と。助手殿が情報の大半を処理しているのではないか、とも思いました」
見抜かれていた。最初から。
「今日お話しして確信しました。先生は、ご自分の知識の範囲を正確に把握しておられる。分かることは自分で答え、分からないことは助手を使う。その切り分けが的確だ」
的確ではない。単に答えられなかっただけだ。
「錬金術師に必要なのは、全てを知っていることではありません。何を知っていて何を知らないかを把握し、足りない部分を補う手段を持っていることです。先生には、それがある」
ノエルは口を開いたが、言葉が出なかった。
褒められている。だがこれは——ハーゲンの言っていることは、正しいのか。俺がやっていたのは、そんな立派なことだったか。ただ、シフに助けてもらっていただけだ。
「ご主人様」
シフの声が、今度は普通の音量で響いた。
「ハーゲン支部長のご評価は、客観的に見て正当です。ご主人様が私の補足を採用する際、不確かな数値を省き、ご自身で検証可能な表現に言い換えておられたことを、私は記録しております」
——表土層の深さを聞いたまま繰り返さず、「比較的浅いところで」と自分の言葉に置き換えたこと。確かめていない情報を断定しなかったこと。
シフはそれを見ていた。
「まあ、そういうことです」
ハーゲンがカップの茶を飲み干し、テーブルに戻した。その動作に区切りがあった。ここまでが質問の時間で、ここからが本題だ。
「ヴァイス先生。本題に入ってもよろしいですかな」
来た。
「ギルドの顧問をお引き受けいただきたい」
短く、真っ直ぐな言葉だった。回りくどい前置きがないだけに、余計に重い。
「顧問、ですか」
「レーゲン支部の技術顧問です。月に一度か二度、ギルドに寄せられた技術的な案件について、助言をいただく。報酬はもちろんお支払いします。ただ——正直に申し上げれば、報酬より先生の知見をお借りしたいのが本音です」
月に一度か二度。それだけ聞けば大した負担には思えない。だがノエルは知っている。「月に一度」で始まったものが、いつまでも月に一度で済んだ例はない。
「ギルドの窓口に来る相談の質が変わってきておりましてな。排水路にしろ鍛冶師の炉にしろ、個別の修理依頼ではなく、町の仕組みに関わる問題が増えている。うちの職員では手に負えんのです」
だから、個別案件を構造的に分析できる工房——つまりシフの能力——をギルドの仕組みに組み込みたい。ハーゲンの狙いは、昨日の時点で見えていた通りだ。
「……少し考えさせてください」
「もちろんです。お返事は——」
「お引き受けいたします」
シフの声が、テーブルの上から響いた。
普通の音量。はっきりとした口調。ハーゲンに向けた、正式な応答の声だ。
ノエルの思考が、一瞬停止した。
「ご主人様は常々、『自分の技術が町の役に立つなら、それは研究の延長だ』とおっしゃっておりました。顧問としてのお仕事は、ご主人様の研究と町の課題を接続する理想的な枠組みかと存じます」
言っていない。一度も言っていない。
ハーゲンが目を丸くしたのは、一瞬だけだった。すぐに笑った。今度は目尻にまで皺が寄る、本物の笑いだ。
「助手殿が受けてくれたようですな」
「待ってください。俺はまだ——」
「ご主人様。顧問の業務で発生する技術的案件は、地域課題の実地データとして研究にも活用可能です。受諾することで研究機会は減少せず、むしろ拡大いたします」
理屈が通っている。通っているから腹が立つ。
「シフ。なぜ勝手に受けた」
「ご主人様がお断りになる場合の展開を予測しました。ハーゲン支部長は再考を促し、数日後にもう一度お見えになります。その間、ご主人様は断る理由を探しながら研究に集中できず、結局お引き受けになります。過程を省略いたしました」
「過程を省略するな」
「効率化です」
「それは効率化とは言わない」
ハーゲンが立ち上がった。まだ笑っている。
「ヴァイス先生。助手殿の判断は、先生のお気持ちを代弁していると受け取ってよろしいですかな」
ノエルはハーゲンの顔を見た。それからテーブルの上のシフの装置を見た。振動膜は静かに待機している。何食わぬ顔で。顔はないが。
断る言葉を探した。俺は研究がしたいだけだ。顧問なんて柄じゃない。月に一度が二度になり、二度が毎週になり、気がつけば研究どころではなくなる。
だがシフの言った「過程を省略した」が、妙に引っかかった。断って、考えて、結局受ける。確かにそうなる未来が見える。自分でも分かっている。
「……月に一度で。それ以上は無理です」
「十分です。ありがとうございます」
ハーゲンが深く頭を下げた。節くれ立った手がテーブルに置かれ、錬成炉の前に立っていた頃の名残が見えた。この人も、かつては現場にいた人間なのだ。
「近日中に正式な書面をお届けします。まずは秋の収穫祭までに、南街区の排水路の件でご相談させてください」
もう具体的な案件が入ってきている。月に一度とは何だったのか。
ハーゲンが帰り、工房に静寂が戻った。
「シフ」
「はい、ご主人様」
「二度とやるな」
「どの行為を指しておられますか」
「全部だ」
「記録しました。なお、ご主人様の心拍数が安定したことを確認いたしましたので、本日の来客対応を再開いたします」
心拍数まで測っているのか。
ノエルは奥の作業机に戻り、仮説五番の素材を前にして、しばらく動けなかった。顧問。ギルドの技術顧問。月に一度。南街区の排水路。秋の収穫祭まで。
研究がしたいだけなのに。
それでも、ペンを手に取った。二層構造の検証。外層の配合比を変えたときの干渉波形。これだけは、誰にも邪魔させない。
——「月に一度」が「月に一度」で済む未来を、ノエルはまだ信じていた。




