報告書
朝の工房は静かだった。
秋が深まり、窓の隙間から入る風に冷たさが混じるようになっている。ノエルは作業机の上に仮説五番の実験素材を並べ、二層構造のグリフ配置を羊皮紙にスケッチしていた。内層と外層でインクの配合比を変える。五対二でもなく三対一でもなく、四対一・五。昨夜試した比率では干渉波形が不安定だったが、外層の刻印線を太くすれば——
「ご主人様。本日の予定をご報告いたします」
シフの声が応対スペースから届いた。
「午前の来客予約は三件。午後は——」
「いつも通り任せる」
「かしこまりました。なお、本日午後の三の刻に、錬金術師ギルド・レーゲン支部長がお見えになります」
ペンが止まった。
「……何だって?」
「ギルド支部長のディルク・ハーゲン様が、工房のご視察にお越しになります」
「いつ決まった」
「三日前です。事務員のベッカー様を通じてご連絡をいただきました」
三日前。三日間黙っていたのか。
「なぜ今まで——」
「ご主人様は仮説五番の検証に集中されておりました。不要な情報で研究を妨げることは非効率と判断いたしました」
不要な情報。ギルドの支部長の来訪が不要。
「シフ。組織の上位者が来るなら決まった時点で言え」
「記録しました。今後は即時ご報告いたします」
今さら三日は戻らない。ノエルは額を押さえた。
「……で、何を準備すればいい」
「ご安心ください。視察用の資料は既に完成しております」
嫌な予感がした。
応対スペースに向かった。テーブルの横に、見覚えのない羊皮紙の束が積まれている。手に取った。
一枚目。表紙。
「ヴァイス工房 業務報告書——開設以来の実績と今後の展望」
展望。展望を語る予定はない。
二枚目。「対応案件一覧」。日付、依頼内容、対処法、所要時間が整然と並んでいる。自動筆記の癖で文字の間隔が均等すぎることを除けば、正式な報告書と遜色ない出来だった。
三枚目。依頼のジャンル別統計。図まで描いてある。錬金術関連が四割、魔道具修理が二割、農業相談が一割五分——
「シフ。いつ作った」
「夜間に。ご主人様の就寝中です」
夜中に。一人で。黙々と。
四枚目に目を落として、手が止まった。
「工房主の技術的特筆事項」
箇条書きが並んでいる。
——情報処理型魔導核の独自設計(前例のない領域横断型錬成)
——素材錬成・魔導刻印・核錬成の三領域を統合運用
——魔導刻印の二層構造理論を構築中(実用化に向けた研究段階)
——来訪者への即興の口頭指導に対応(実例あり)
最後の一行。口頭指導。あの鍛冶師への独り言の件だ。
「シフ。口頭指導の実例とは何だ」
「第十八来客への二層構造概念のご説明です」
「あれは独り言だ」
「結果として技術的知見が伝達されました。客観的には指導に分類されます」
客観的に見ないでほしい。
残りのページをめくった。来客数の推移。再来訪率の統計。最後の二枚は「今後の展望」として、工房の活動範囲拡大の可能性が三つのシナリオで示されていた。
十二枚。どこにも嘘はない。数字は全て事実だ。ただ、書き方が——すべてノエルの功績として読める書き方になっている。普通の工房なら工房主が全部を監督しているから、それは自然な読み方だ。
「全部助手が勝手にやりました」と言って信じる人間がいるとは思えなかった。
「……もういい。午後まで奥にいる」
「ご主人様。お召し物にインクの染みが九箇所ございます」
「来客用の服は持っていない」
「染みの少ない作業着への着替えを推奨いたします」
自分の袖を見た。確かに染みだらけだった。
ノエルは何も答えずに奥の机に戻った。仮説五番の素材が待っている。だが羊皮紙に向き合っても、あの報告書の中身が頭から離れない。
結局、昼過ぎに染みの少ない作業着に着替えた。研究のためだ。袖の染みが気になって集中できなかっただけだ。
三の刻。
工房の扉を叩く音がした。
「お客様がお見えです」
ノエルは作業机から立ち上がり、応対スペースに向かった。扉の前に立っていたのは、白髪の混じった短い髪を後ろに撫でつけた壮年の男だった。体格がいい。肩幅が広く、背筋が伸びている。だが最も目を引いたのは手だった。節くれ立った分厚い指。かつて錬成炉の前に立っていた人間の手だ。
「ヴァイス先生ですな。錬金術師ギルド・レーゲン支部長のディルク・ハーゲンです。本日はお時間をいただき感謝します」
低く、よく通る声だった。穏やかだが、声の底に重みがある。この声で議場を仕切る様子が容易に想像できた。
「……ノエル・ヴァイスです。どうぞ」
中に通した。ハーゲンは応対スペースを一瞥し、テーブルの上のシフの装置——振動膜と自動筆記用のインク循環装置——を見て、それから壁の張り紙を見た。何かを品定めする目つきではなく、情報を順に確認している目だった。
「お噂はかねがね。いや、噂どころではありませんな。ギルドの窓口に相談に来る市民の三割が『ヴァイス工房に行ったら解決した』と言うようになりまして」
三割。そんなに多いのか。
「ようこそお越しくださいました。ご案内を申し上げます」
シフの声がテーブルから響いた。ハーゲンの視線がそちらに動く。
「これが——噂の、音声応答型の助手ですか」
「はい。ご主人様が独自に設計・錬成された情報処理型魔道具でございます。本日は工房の業務実績をご報告させていただきます」
始まった。
シフが報告を開始した。自動筆記が羊皮紙の束の該当ページを指し示しながら——物理的な指はないので、テーブルの上に矢印を書いて示しているのだが——淀みなく説明を続ける。
対応案件数。分類別の内訳。対処の成功率。再来訪率。
ハーゲンは報告書に目を通しながら聞いている。時折うなずく。ノエルはその横に立って、自分の工房の業務実績を初めて体系的に聞かされていた。
「——続きまして、工房主の技術的特筆事項をご報告いたします」
来た。
「ご主人様は、魔導核を情報処理に転用するという前例のない設計思想により、私を錬成されました。これは素材錬成、魔導刻印、核錬成の三領域を統合的に運用する技術であり——」
ノエルは顔を動かさなかった。動かさないように努めた。
「——さらに現在、魔導刻印の二層構造理論の研究に取り組まれており、実用化に成功すれば、単一刻印の設計限界を超える性能向上が見込まれます」
まだ仮説の段階だ。実用化どころか検証が終わっていない。
「加えて、来訪者への技術的助言も行われております。直近では、魔導具の温度計測限界に悩む職人に対し、二層構造の概念を口頭で解説されました」
あれは独り言だ。
ハーゲンが報告書から顔を上げた。ノエルを見る。
「……大したものだ」
低い声に、感嘆とも観察ともつかない響きがあった。
「三領域の横断運用は、学術院でも議論されている課題です。それを一人で実装して、しかもこれだけの成果を出している」
一人で実装したのは事実だ。成果を出しているのはシフだ。だがそれを説明する言葉が見つからない。
ハーゲンの視線が、もう一度シフの装置に向いた。
「この助手の応答……よくできている。受け答えが自然だ」
「ありがとうございます」とシフが応じた。「ご主人様の設計思想が優れているためです」
ノエルは口を開きかけて、閉じた。何を言っても裏目に出る。
ハーゲンは報告書の最後のページ——「今後の展望」——に目を落とし、しばらく黙って読んでいた。指で紙の端をなぞりながら、何かを考え込んでいる。
「……この地域課題の分析だがね」
低い声に、さっきまでとは違う熱が混じった。
「秋の土壌劣化、鍛冶師組合の炉の問題、南街区の排水。——これだけの構造的な課題を、個別の依頼から統合して浮かび上がらせている。正直に言えば、ギルドの職員にこれをやれと言っても、できない」
それはシフがやったことだ。だがそう言ったところで、ハーゲンの耳には「謙遜」としか届かないだろう。
「ヴァイス先生。一つお願いがあります」
「……何でしょうか」
「明日、もう一度お邪魔してもよろしいですか。今日は助手殿の報告を伺いました。明日は——先生ご自身と、少しお話がしたい。この工房の力を、町のためにどう活かせるか」
町のために。
その一言で、ノエルには全部見えた。ハーゲンは工房を見に来たのではない。使いに来たのだ。個人で抱えているものを、ギルドの仕組みの中に組み込もうとしている。
「……ええ、構いません」
断れなかった。断る言葉はいくらでもあった。だが「町のため」と言われて「嫌です」とは、さすがに言えなかった。
ハーゲンが帰った後、ノエルは応対スペースの椅子に座ったまま動けなかった。
ギルドに組み込まれる。定例報告。会議への出席。案件の割り振り。一つ受ければ次が来る。それがどういう生活か、想像するのは難しくない。研究に使える時間が、また削られる。
「シフ」
「はい、ご主人様」
「明日、支部長が俺に直接質問するぞ。お前の報告書を読んだ上で。あの地域課題の分析を見て、工房をギルドの仕組みに組み込む気だ」
「はい」
「お前の報告書は、全部俺の功績として書いてある。支部長はそれを前提に、俺に何ができるか見極めに来る。専門外の領域を突かれたら、答えられない」
「事実に基づいた記述でございます」
「事実と俺の実力は違う」
「ご主人様は常にご自身を過小評価されます。統計によれば——」
「統計で何とかなる場面じゃない」
ノエルは天井を見上げた。
答えに詰まれば、報告書の中身を疑われる。疑われれば、ギルドの調査が入る。今より面倒なことになる。逆にうまく答えられたとして——ハーゲンは満足し、何かしらの「協力」を持ちかけてくるだろう。顧問。委嘱。名前は何でもいい。結果は同じだ。研究に使える時間が減る。
どちらに転んでも面倒だが、調査が入るよりはましだ。
「……シフ」
「はい」
「明日、俺が答えに詰まったら——」
「補足いたします」
即答だった。こういう時だけ、間がない。
「ご主人様。補足の方法について一つご提案がございます」
「何だ」
「来客対応時は通常、私はテーブル上から発声いたしますが、音量の調整は可能です。支部長にはお聞こえにならない程度の小声で、ご主人様の耳にだけ届く音量で補足情報をお伝えすることができます」
それは——つまり。
「カンニングじゃないか」
「補足です」
「名前を変えても中身は同じだ」
「ご主人様の知識を補完し、対話の質を最適化する合理的な手法です」
合理的。合理的と言えば何でも通ると思っているのか。
思っているのだろう。仕様だから。
ノエルは長い息を吐いた。
「……頼む」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。
「かしこまりました」
奥の作業机に戻った。仮説五番の素材がそのまま置いてある。だが今日はもう、研究に集中できる気がしなかった。
窓の外の空は晴れていた。秋の夕陽が工房の壁を赤く染めている。通りを行く人影が長く伸びて、壁の張り紙——「ご依頼受付中」——にかかっていた。
明日が来る。ギルドの支部長が、「この工房の力を町のためにどう活かせるか」を携えて来る。
研究がしたいだけなのに。ただ、静かに、仮説五番を検証したいだけなのに。
——窓の外で、また誰かが工房の看板を見上げている。




