通訳
インクが切れた。
自動筆記用ではない。ノエルが研究メモに使っている、自分で調合した特製インクだ。魔導刻印の試し書きにも使うので減りが早い。替えの瓶は素材棚にある。素材棚は工房の中ほど——つまり、シフの応対スペースのすぐ奥だ。
奥の机から耳を澄ます。シフの声は聞こえない。来客の間の空白か。
ノエルは立ち上がり、素材棚に向かった。
中ほどまで来て、足が止まった。
応対スペースが変わっている。
十日前に振動膜と自動筆記をテーブルに置いただけの簡素な配置だったはずが、テーブルの横に小さな棚が増えていた。棚には過去の依頼を綴じた羊皮紙の束が並んでいる。受付票の用紙が積まれた箱がテーブルの端にある。壁にはシフが自動筆記で出力したらしい張り紙——「ご依頼受付中」と丁寧な文字で書かれている——が貼ってあった。
いつの間に内装を整えたんだ。肉体がないのにどうやって。
棚の位置や張り紙の高さから察するに、来客の誰かに頼んだのだろう。「先生の工房をもっと使いやすくしたい」とでも言えば、喜んで手伝う客はいくらでもいる。
……考えるのをやめよう。インクを取って戻る。それだけだ。
素材棚に手を伸ばしたとき、工房の扉が開いた。
「すみません、こちらがヴァイス先生の——」
声が止まった。
ノエルは振り返った。扉の前に、革のエプロンをつけた中年の男が立っている。手に壊れた魔導具らしきものを抱えていた。日に焼けた腕に、火傷の古い痕がいくつかある。鍛冶師か、それに近い職人だろう。
目が合った。
男がノエルを見て、それからテーブルの上のシフの装置を見て、もう一度ノエルを見た。
「あの……先生、ですか」
逃げ場がない。シフに任せようにも、本人が目の前に立ってしまった。ここで「違います」と言って奥に引っ込むのは、さすがに不自然だ。
「……ええ、まあ」
曖昧に答えた。最悪の出だしだ。
「こ、これなんですが」
男がおずおずと魔導具を差し出した。手のひらに収まるサイズの円盤型で、表面に刻印が施されている。刻印の一部が焼け焦げて断線していた。
「鍛冶で使う温度計なんです。炉の温度を測るやつで。先月から数値がおかしくなって、この前ついに動かなくなりまして」
ノエルは反射的に受け取っていた。手に取った瞬間、指先に微かな魔力の残滓を感じる。核はまだ生きている。刻印の断線が原因なら、繋ぎ直せば動く。
だが断線の仕方が気になった。焼け焦げている。通常の劣化なら刻印が薄れるだけで、焦げることはない。内側から過負荷がかかったような焼け方だ。
「……これ、核の出力を上げませんでしたか」
「え?」
「この焦げ方は、刻印の許容量を超える魔力が流れた痕です。温度の上限を上げようとして、核の出力を弄ったんじゃないですか」
男の顔が固まった。図星だ。
「いや、その、もうちょっと高い温度も測れたらと思って……」
「刻印の設計上限は、理由があって決まっています。上限を上げたいなら、刻印自体を描き直さないと——」
ノエルはそこで言葉を切った。描き直す。刻印の設計変更。
仮説五番が頭をよぎった。
魔導刻印の重ね書き。インクの配合比で干渉パターンが変わる。五対二では干渉が大きすぎて安定しない。だが三対一に戻すのではなく、内側の刻印と外側の刻印で配合比を変えたら——二層構造で、それぞれの層が異なる出力帯域を担当する——
「……二層にすればいいのか」
小さく呟いた。依頼人に向けた言葉ではない。完全に独り言だ。
「に、二層?」
男が聞き返した。しまった。声に出ていた。
「いえ、何でも——」
「補足いたします」
シフの声がテーブルの上から響いた。
「ご主人様が今おっしゃったのは、魔導刻印の二層構造設計です。一枚の刻印に全ての負荷を集中させるのではなく、二枚の刻印で負荷を分担させます。これにより、単一刻印の設計上限を超える温度測定が可能になり、お客様のご要望であった高温域への対応と、既存の精度の維持を両立できます」
ノエルは固まった。
今の独り言から、そこまで引き出すか。
「ご主人様はこの分野の最先端の研究をされておりますので、お客様の魔導具を拝見した瞬間に最適な改良案が浮かんだものと存じます」
浮かんでいない。仮説五番の検証中に、たまたま関連する発想が出ただけだ。
「す、すごい……先生、やっぱり直接お会いすると違いますな。こちらの声だけでもありがたかったですが、先生ご自身は次元が違う」
次元は同じだ。同じ次元にいる。
「ちなみに補足ですが、ご主人様は普段このような助言を直接なさることはございません。本日はお客様の魔導具に特別な関心を持たれたためです」
特別な関心を持っていない。インクを取りに来ただけだ。
「先生に直接診ていただけるなんて……これは知り合いにも教えてやらないと」
「お客様のお心遣い、ご主人様もお喜びになるかと存じます」
喜んでいない。教えないでくれ。これ以上来客が増える。
だが男の顔は輝いていた。壊れた温度計を抱えて来た不安な表情が、今は完全に消えている。
ノエルは小さく息を吐いた。
「……修理は三日後に。刻印の描き直しも含めて、銀貨五枚で」
「ありがとうございます!」
男が頭を下げて帰っていった。扉が閉まる。通りに出た男が、すぐ隣の店の前で誰かに話しかけているのが窓越しに見えた。身振り手振りが大きい。何を話しているかは聞こえなくても分かる。
「シフ」
「はい、ご主人様」
「俺は二層構造の話をしたか?」
「はい。『二層にすればいいのか』とおっしゃいました」
「それだけだ。それだけしか言ってない」
「はい。残りは私が補足いたしました。ご主人様の発言を最も合理的に解釈した結果です」
「独り言を合理的に解釈するな」
「ご主人様の独り言には、常に技術的洞察が含まれています。記録によれば、独り言の八十七パーセントが後に有効な仮説に発展しています」
「統計を取るな」
「仕様です」
ノエルはインクの瓶を素材棚から取り、奥の作業机に戻った。
座って、瓶を開けて、ペンを持った。仮説五番。二層構造。あの鍛冶師の温度計で思いついたことは、実は仮説五番の突破口になるかもしれない。内層と外層で配合比を変える。干渉を回避するのではなく、干渉を層ごとに制御する。
ペンが走り始めた。面白い。これは面白い。
——だが、あの鍛冶師が通りで何を広めているかは、考えないことにした。
翌日、来客数が十二件になった。シフの報告によれば、三件が「先生に直接診てもらえるかもしれない」という期待で来たらしい。
診ない。俺は奥にいる。昨日はインクを取りに行っただけだ。
「ご主人様。本日の来客の中に、錬金術師ギルドの職員がいらっしゃいました」
「……何の用だ」
「『最近評判の工房があると聞いて、ご挨拶に』とのことです。名刺を置いていかれました」
ノエルは名刺を見た。レーゲン支部の事務員だった。ギルド長の名前は書かれていない。だが、事務員が「挨拶」に来るということは、支部として工房を認知したということだ。
「シフ。ギルドには余計なことを言っていないだろうな」
「ご主人様の業績を正確にお伝えしました」
「正確の定義が俺とお前で違う気がする」
「仕様です」
仕様じゃない。
ノエルは名刺を机の隅に置いた。ギルドが動き始めている。噂が、もう個人の口コミの域を超えている。
窓の外に目をやった。秋の夕暮れが早い。通りの影が長く伸びる中、工房の前を通る人の数が、十日前より明らかに多かった。足を止めて看板を見上げる人がいる。あの傾いた看板を、そのうち直した方がいいかもしれない。
いや、直したら「営業する気がある」と思われる。このままでいい。
ノエルは窓から目を逸らし、仮説五番のメモに向き直った。二層構造の検証。明日の分の研究テーマは決まった。
来客が何件来ようと、研究は進める。それだけは変わらない。
——変わらないはずだった。




