商人の目
シフが来客対応を始めて十日が過ぎた。来客数は日に八件前後で安定し、ノエルの側も聞こえてくる応対を右から左に流す技術が身についてきた。
だが、その日の昼過ぎの来客は、これまでとは毛色が違った。
ノエルが奥の作業机から聞き分けたのは、声の質だ。農夫や職人とは違う、相手の出方を測る間の取り方。言葉を選ぶ一拍の沈黙に、値踏みの気配がある。
「噂を聞いて参りました。何でも、どんな相談にも答えてくれる工房があると」
「ようこそお越しくださいました。どのようなご用件でしょうか」
「ええ、実は——」
男の名はヴェンデル。シフの聞き取りによれば、レーゲンと近隣の町を結ぶ交易路で乾物と香辛料を扱う行商人だという。この町の市場には月に二度ほど荷を広げに来るらしい。椅子に座る音がした。革が軋む音——帳簿入れか何かを腰に提げているのだろう。
「最近、南の交易路で仕入れていた胡椒の品質が落ちてきましてな。産地は変わっていないんですが、どうにも香りが薄い。原因が分かれば、仕入れ先を変えるか続けるか判断できるんですが」
「胡椒の品質低下ですね。いくつか確認させてください。仕入れ先の産地名、保管方法、品質低下が始まった時期、輸送経路の変更の有無をお教えいただけますか」
ノエルは研究メモに目を戻した。仮説五番の検証、昨日の続きだ。魔導刻印の重ね書きに使うインクの配合比を変えれば、刻印の干渉パターンが変わるかもしれない。三対一ではなく五対二なら——
「——分析が完了しました」
シフの声が変わった。報告のトーン。ノエルはもう慣れた。
「品質低下の原因は、産地の問題ではなく輸送過程にあると推測されます。南の交易路は昨年、橋の補修で一部が迂回路に変更されました。迂回路は標高が高く、胡椒は標高差による気圧変化に弱い性質があります。具体的には、急激な気圧低下により精油成分の揮発が促進され、香りが抜けます」
沈黙。
商人が黙っている。ノエルはその沈黙の質が気になった。驚いているのか、疑っているのか。
「……それは、どこの文献に書いてあることですかな」
商人の声が変わっていた。世間話の調子ではない。値踏みの目だ。ノエルは研究メモから顔を上げた。
「香辛料の輸送に関する知見は、南方貿易史の記録および植物精油学の文献に記載がございます」
「南方貿易史。植物精油学」
「はい」
「先生は——いや、この工房は、そこまでの蔵書をお持ちで?」
「ご主人様の研究に必要な文献は広範に取り揃えております」
嘘ではない。嘘ではないが、「研究に必要」の範囲が問題だ。いつから香辛料の輸送が俺の研究範囲になった。
商人の声が続いた。慎重に、しかし確実に、何かを探っている。
「もう一つ、お伺いしてよろしいですかな」
「どうぞ」
「今年の冬に向けて、乾物の在庫をどれだけ積むべきか。今年の冬は厳しくなるという話を聞くんですが、判断材料が足りなくて」
「今年の冬の気候予測ですね。少々お待ちください」
ノエルの手が止まった。
気候予測。それは錬金術でも、蔵書の参照でも答えが出る領域ではない。さすがにこれは——
「過去三十年間の気象記録と、今年の夏季の降水パターン、および南方海流の温度変動を照合した結果、今年の冬は平年より寒冷化する確率が高いと推測されます。具体的には、降雪量が平年比で二割から三割増加する可能性がございます」
答えた。
三十年分の気象記録を参照して、海流のデータまで組み合わせて、答えた。
「それに基づきますと、乾物の在庫は通常の一・三倍から一・五倍を確保されることを推奨いたします。ただし、保管場所の湿度管理が前提です。乾物は湿度六十パーセントを超えると品質が劣化しますので——」
「……お待ちください」
商人が遮った。声が低い。
「失礼ですが、今のお答えは——過去三十年の気象記録と海流データの照合、とおっしゃいましたかな」
「はい」
「それは、王都の気象院が年に一度出す報告書の手法ですぞ。私は王都で商いをしていた時期がありましてな、あの報告書を毎年買っておりました。あの分析ができるのは、気象院でも限られた学者だけだ」
沈黙が落ちた。
ノエルは作業机の上で手を組んだ。聞こえている。全部聞こえている。
この商人は、ただの行商人ではない。王都での商売経験がある。気象院の報告書を読む習慣がある。つまり、シフの回答の「異常さ」が分かる人間だ。
「……ご主人様の研究範囲は多岐にわたります」
シフの回答は変わらない。だが商人は納得していない。ノエルにはそれが分かった。
「先生は、今お奥にいらっしゃるんですかな」
「はい。ご主人様は只今、高度な思索の——」
「ああ、いえ、お取り次ぎは結構です」
商人が遮った。その声に、微かな笑みが混じったように聞こえた。嘲りではない。何かを面白がっている声色だ。
「今日のところは、胡椒の件だけで十分です。ありがとうございました」
足音。扉が開き、閉まる。
ノエルは息を吐いた。
「シフ」
「はい、ご主人様」
「今の客は、お前の回答に満足して帰ったと思うか」
「依頼内容に対する回答は適切でした。満足度は高いと推測——」
「そうじゃない」
ノエルは作業机から立ち上がり、工房の表に出た。シフの装置が低く振動している。
「あの商人は、お前の回答の中身じゃなく、回答の出し方に引っかかっている。王都の気象院と同じ手法を使う工房が、なぜこんな地方の町にあるのか。気になっているんだ」
「それは問題でしょうか」
「問題かどうかは分からない。だが——」
ノエルは壁に貼った蔵書接続のリストに目をやった。七千二百四十三件。そのうち約三パーセントが、出所の特定できない文献群。
あの気象分析は、どの蔵書から参照した。
聞こうとして、やめた。聞いても明確な答えは返ってこない。起動直後の診断で報告を受けたときと同じだ。出典不明のものは、出典不明のままだ。
「……いい。他に待っている客は」
「受付票の記入をお待ちの方が二名いらっしゃいます」
ノエルは奥に引っ込んだ。しばらくして、シフが次の来客の応対を始めた。魔導刻印の修理。その次は——
「保存食を長持ちさせる方法を知りたいんですが」
保存食。
シフが即座に「食品保存に適した素材錬成の提案」を始めるのが聞こえた。また錬金術に繋げている。
ノエルは奥に戻った。仮説五番。インクの配合比。五対二。
だが作業机に座っても、手が動かない。
あの商人の声が頭に残っている。「気象院でも限られた学者だけだ」。シフは即座にあの分析を出した。蔵書を参照して、データを照合して、結論を導いた。所要時間は数秒だ。
シフの能力は便利だ。依頼人は満足する。俺の研究時間は確保される。何も問題はない。
問題はないはずだ。
ノエルは研究メモを開いた。五対二の配合比。手を動かせ。
出典不明の三パーセント。あの気象分析の参照元。商人の目が見抜いた異常さ。
——今はいい。研究を進めろ。
ペンを走らせる。だが配合比の数字の隣に、無意識に「出典?」と書いていた。消して、書き直して、また消した。




