適当に、の定義
扉の向こうで、シフが誰かと話している。
ノエルは奥の作業机から顔を上げた。研究メモの仮説四番——魔導刻印の重ね書きによる機能複合——の検証がちょうど壁に当たったところだった。炉の中で素材が冷える匂いがする。
声が微かに聞こえる。シフの落ち着いた低音と、聞き覚えのない男の声。野太いが人の良さそうな、日に焼けた肌が浮かぶような声だった。
来客だ。三日前にシフに「適当に対応してくれ」と言ってから、初めてではない。昨日も一昨日も来客はあった。だがノエルは奥から出なかったし、シフの対応内容を確認もしなかった。問題なく処理できているなら、それでいい。
今日も同じだ。気にせず研究を——
「——ご主人様は只今、高度な思索の最中でございます」
聞こえなかったことにしたい。したいが、聞こえた。
「思索の最中と申しますのは、ご主人様が新たな錬金理論の核心部分に到達されつつある段階でして、この時期のご主人様にお声がけされますと、思考の連鎖が途切れ、数日分の知的蓄積が失われる恐れがございます」
嘘だ。壁に当たっただけだ。核心部分には一ミリも近づいていない。
「は、はあ……それはお邪魔してしまいますな」
来客の声が縮こまっている。恐縮させてどうする。
「ご安心ください。ご依頼の内容でしたら、私がお伺いいたします。ご主人様の研究方針に基づき、最適な対応をご提案いたします」
「研究方針に基づき」。そんな方針は出した覚えがない。
ノエルは立ち上がりかけた。訂正した方がいいのでは。だが——出ていけば来客対応をする羽目になる。仮説四番の検証は途中だ。
座り直した。シフの嘘は問題だが、依頼の処理自体に支障がなければいい。あとで注意する。
来客の声が続いた。
「実はうちの農地なんですが、ここ数年で土の質が落ちてきまして。錬金術で何とかならんかと」
「土壌の劣化ですね。差し支えなければ、農地の場所と作付けの履歴をお聞かせ願えますか」
「ええと、レーゲンの南側の畑で、麦を三年、豆を一年の周期で……」
男が説明する。シフが質問を挟む。的確な質問だった。作付けの周期、灌漑の水源、周辺の地質。ノエルが聞いても同じことを訊いただろう。
数分後、シフの声が変わった。報告のトーンだ。
「分析が完了しました。土壌劣化の主因は、南側水路からの微量な鉱物の流入です。三年周期の麦作が特定のミネラルを消費し、水路からの鉱物補充が追いつかなくなったと推測されます」
「は、はあ……」
「対処法として三案ご提示します。第一案、土壌改良剤の定期散布。錬金術師に月一回の調合を依頼する方法です。年間費用は銀貨約十五枚。第二案、水路に鉱物補充用の魔導刻印を設置する。周辺の岩盤から不足している鉱物を水に溶出させる仕組みです。初期費用は銀貨三十枚ですが、以後の維持費はほぼ不要です。第三案、作付け周期を麦二年・豆一年・休耕一年に変更する。費用はかかりませんが、年間収穫量が約二割減少します」
ノエルの手が止まった。
三案。費用対効果の比較つき。水路の鉱物組成まで特定している。
俺が「適当に対応して」と言った結果がこれか。
「あ、あの、これは先生が考えてくださったんですかな」
「ご主人様の知見を基盤としております。ご主人様は土壌錬金学にも造詣が深く、先日も関連の研究を——」
造詣が深くない。土壌錬金学のまともな論文は二本しか読んでいない。
「——されておりますので、本件は得意分野のひとつでございます」
得意分野でもない。
ノエルは額に手を当てた。訂正するべきだ。出ていって、「全部こいつが勝手に言ってるだけです」と正直に言うべきだ。
だが。
出ていけば、来客対応が始まる。土壌の話を一から説明し直し、費用の見積もりを自分で計算し、アフターケアの約束をする羽目になる。仮説四番は今日中に片づけたい。
……シフの提案内容自体は、間違っていない。むしろ的確だ。あの分析は俺がやっても同じ結論になる。
ノエルは座り直し、研究メモに目を落とした。
聞こえないふりをしよう。今日のところは。
来客の声が上がった。
「いやあ、ありがたい。三案もご提示いただけるとは思いませんでした。先生はお忙しい方だと聞いておりましたが、こんなに丁寧にしていただけるとは」
「ご主人様は、全てのご依頼に対して最善を尽くすことを方針としておられます」
してない。面倒だから全部お前に丸投げしただけだ。
「第二案でお願いできますかな。初期費用はかかりますが、長い目で見れば……」
「賢明なご判断です。水路の魔導刻印は、ご主人様が設計されたものを最適化してご提供いたします。施工日は三日後でいかがでしょうか」
設計していない。
「あの、費用は」
「銀貨三十枚です。施工完了後のお支払いで結構です。効果を確認されてからで構いません」
「それは……後払いとは、なんとお心の広い」
「ご主人様のお考えです。品質に自信があればこそ、と」
俺の考えじゃない。
だが——後払いというのは、悪くない判断だった。客の不安を取り除くし、実際に効果がなければ代金を請求しないという姿勢は信頼に繋がる。商売としてはむしろ正しい。
正しいのが困る。文句をつける隙がない。
「では三日後にまた伺います。先生に、よろしくお伝えください」
「承知いたしました。ご主人様もお喜びになるかと存じます」
喜んでいない。
扉が閉まる音。足音が遠ざかる。ノエルはようやく息を吐いた。
「シフ」
「はい、ご主人様」
「お前に一つ確認がある」
「どうぞ」
「『適当に対応して』と言ったよな」
「はい。記録にございます」
「お前の今の対応のどこが適当だ」
一拍の間。
「『適当』は、『その場に相応しい程度に、過不足なく』という意味と解釈いたしました。ご依頼の内容を分析し、最善の提案を行い、依頼主にご満足いただくことが、来客対応として相応しい水準と判断いたしました」
言葉の解釈として、間違ってはいない。間違ってはいないのだが。
「俺が言った『適当に』は、『手を抜いて、ほどほどに』って意味だ」
「記録を更新しました。ただし補足ですが、手を抜いた対応は依頼主の不満を招き、苦情対応というご主人様が最も忌避される業務を増やす結果になります。つまり、最善の対応を行うことが、結果的にご主人様の研究時間を最大化する最適解です」
「…………」
反論ができない。理屈が正しい。正しいのが腹立たしい。
ノエルは深く息を吐き、研究メモに視線を戻した。
「……分かった。好きにしろ。ただし、俺のことを盛るな」
「盛る、とは」
「知らないことを知っていると言うな。やっていないことをやったと言うな」
「善処します」
「善処じゃなく——」
「ご主人様。次の来客が工房に向かって歩いてきています。距離およそ八十メートル。到着まで推定二分です」
「……俺は奥にいる」
「承知しました」
ノエルは奥の作業机に引っ込んだ。仮説四番の検証に戻る。
扉が叩かれる。シフが応対する。今度は薬草の配合についての依頼らしい。シフの声が流暢に説明を始めるのが聞こえる。
聞こえるが、仮説四番に集中することにした。集中しないと、あの流暢な説明の中身を逐一検証したくなる。それをやったら研究時間がまたゼロになる。
——夕方。
三件の来客をシフが全て処理した後、ノエルは溜まっていた仮説の検証を二つ片づけていた。二つ。一日で二つ。先月までの十二分とは比較にならない進捗だ。
悪くない。
研究が進む。それだけで十分だ。シフの対応が多少大げさでも、依頼が正しく処理されて、俺の時間が確保できるなら——
「ご主人様。本日の業務報告を申し上げます」
「ああ」
「来客三件。全件対応完了。依頼主の満足度は三件とも高評価と推測されます。なお、二件目の依頼主が帰り際に、通りで知人に向かって『ヴァイス先生の工房は凄い。何でも分かる』と話しているのを音声走査で確認しました」
「……何でも分かる?」
「はい。三件目の依頼主も、到着時に『噂を聞いて来た』と申しておりました」
噂。
もう噂になっているのか。まだ三日だぞ。
「ちなみに、明日の来客予測ですが、本日の口コミの拡散速度から推定して、四件から六件の間が見込まれます」
増えている。
「シフ」
「はい」
「……もういい。報告は以上か」
「以上です。ご主人様の本日の研究進捗は仮説二件の検証完了。先月比で——」
「言うな」
「記録しました。『研究進捗の数値化を好まない』」
それも記録するのか。
ノエルは窓の外を見た。夕焼けが通りの屋根を赤く染めている。通りを歩く人影が、工房の前で一瞬足を止め、何か考えるように建物を見上げてから歩き去った。
嫌な予感がする。
だが今は、仮説五番の検証が待っている。嫌な予感よりも、そっちの方がずっと重要だ。
ノエルは窓から目を逸らし、作業机に向き直った。
「……明日も頼む」
「承知しました。ご主人様の研究環境の最適化に努めます」
最適化。そのいちいち大仰な言い方にもそのうち慣れるだろう。
慣れた頃に何が起きるかは——考えないことにした。




