第40話:一ノ瀬直也
「保奈美、折角だから、化粧室で着替えてきなよ」
買ったばかりの服の紙袋を手渡すと、保奈美は「えぇ……」と戸惑いながらも、しぶしぶ扉の向こうに消えていった。
数分後。
姿を現した彼女を見て、思わず息を呑んだ。
――似合う。いや、似合いすぎる。
さっきまで制服姿でしか見たことのなかった彼女が、目の前で大人びた雰囲気を纏っている。
まるで雑誌から抜け出してきたみたいな――そんな印象だった。
「……どう?」
恥ずかしそうに頬を赤らめながら、裾を指でつまむ保奈美。
「すごくいい。似合ってるよ」
率直に言葉を返すと、彼女は一気に笑顔をはじけさせた。
ただ――問題は、あまりにも目立つことだ。
銀座の街に出れば、すれ違う人が皆、ちらりと彼女に視線を送る。
そのたびに保奈美は、ぎゅっとオレの手を恋人握りして離さなかった。
「……なんか、すごく人に見られてる気がするね」
「ハハハ。それは仕方ない。保奈美が可愛いからだよ」
「ちょ、直也さん……そういうこと、恥ずかしいから言わないでよ」
照れながらも、指先の力は更に強くなった。
――まるで「絶対に離さない」と言っているかのように。
そのまま銀座通りを歩き、並ぶブランドショップを見て回った。
オレは足を止め、ふと彼女に声をかけた。
「せっかくだから、ハンドバッグをひとつ選ぼう」
「えっ? ハンドバッグ?」
驚いたように目を瞬かせる。
「いくらなんでも勿体ないよ。そんなの私には……」
「勿体なくなんかないよ」
きっぱり言い切る。
「これから加賀谷さんの時みたいに、他所にお伺いする場面も増える。そういうときにきちんとした物を持っていなきゃね。これは必要経費なんだよ」
保奈美は少し口を尖らせたが、次第に納得したように頷いた。
そしてもう一つ。
「それと、リングも選ぼう」
「……えっ? り、リング?」
保奈美の声が裏返る。
「いやいや、いくらなんでも要らないでしょ。さすがにそれは……」
「いや、必要だ」
オレは低い声で言った。
「これは“虫除け”にもなる。それじゃなくても、保奈美に付きまとってくるヤツもいるからな。……こういう服装の時なんかは絶対必要だ」
加賀谷さんの家に伺った際に、保奈美が付け文されていた事を知ってから、実はかなり気にしていた。学校への登下校の際は制服だから学校側の管理が行き届いている限りはまだいい。だが今みたいに、それなりの格好を保奈美がしていた場合には、悪い男が寄ってこないようにしておかないとダメだ。
保奈美はきょとんとした顔でオレを見つめ、それから堪えきれずに笑った。
「ぷっ……そんな理由でリング選ぶ人、初めて聞いたよ」
「変かな?」
「ううん。……でも、直也さんらしいね」
そう言って頷いた彼女の笑顔は、街のどんなブランドの輝きよりも眩しかった。
その後、ティファニーの店内で、二人並んでショーケースを覗き込む。
きらめくリングの数々に、保奈美は何度も目を瞬かせながら、指先でガラスをなぞるように見ていた。
「……これ、可愛い」
小さな声でそう呟いたリングを、オレはすぐに店員に頼んだ。
「それを、お願いします」
――これでいい。
彼女を守るための、小さな盾だ。
手を取り合って銀座を歩く。
指先に光るそのリングが、街灯に反射してきらりと光った。
銀座通りを一通り歩き、いくつかのブランドショップを見て回ったあと、オレたちは丸の内の高層ビルに足を向けた。
夜景が広がる高層階のレストラン――窓際の席からは、丸の内の灯りと日本橋の方の高層ビル街のシルエットが見える。
「……すごい」
保奈美が思わず小さな声を漏らす。普段の制服の彼女を知る人間なら、いま目の前にいる姿が信じられないだろう。ハイブランドの冬物ワンピースにティファニーのリング、そして少し緊張を隠しきれない表情。
オレはメニューを開きながら、ちらりと彼女の様子を伺った。
――こういう機会を、もっと意図的に作っておくべきだな。
別に贅沢させたいわけじゃない。
ただ、これから先、否応なくこうした場に同席させられることが増える。
GAIALINQが進むほどに、オレが社内外で露出する機会は増えている。それに伴い、会食やレセプションは避けられない事になる。そして、オレの唯一の家族という事で、隣に保奈美が座る可能性も、もう想定しておかなければならない。
そのとき、経験があるかないかで差は歴然だ。
料理の出され方、グラスの扱い方、ナプキンの置き方。形式に縛られすぎる必要はないが、落ち着いて対応できるかどうかで印象は決定的に変わる。
「直也さん……これ、どれを頼めばいいんですか?」
メニューを見つめる保奈美が、不安げに目を上げる。
「大丈夫。前菜はこのコースで頼んでおいたから、あとはメインを好きに選んでいいよ」
「え、いいの?」
「うん。こういう場ではね、迷ったらまず“自分が食べたいもの”を選ぶのが一番いい。遠慮ばかりしてたら、相手も気を遣うから」
説明すると、保奈美は小さく頷き、真剣な顔でメニューを見直した。
――こういう一つ一つの場数が、彼女を確実に成長させるのだ。
料理が運ばれてきた。
銀のカトラリーが光を反射し、皿には美しい盛り付け。保奈美は一瞬ためらったが、オレがフォークを軽く持ち上げて見せると、すぐに真似をして笑みを浮かべた。
「……こういうの、慣れないけど、楽しいな」
「だろ? 慣れておくと、どんな場に出ても大丈夫になる」
窓の外に視線を移すと、街の灯りが瞬いていた。
――守るだけじゃない。育てることも、オレの役目だ。
保奈美がこれから直面するかもしれない社会的な場に、彼女が堂々と立てるように。
そのために、今日という時間は必要だったんだと、オレは思った。