第6話 竜司祭(四)
同じ頃、ムーンは天幕の外で、月明かりを頼りに矢筒の中身を確かめていた。何かに集中していないと、落ち着かない夜だった。
矢羽根をなぞる指先が、ふと止まる。
二年前、里を出た夜も、こうして矢を数えていた。
母の仇と、帰らない父。追うべきものは二つあるのに、手がかりはどちらも深い霧の向こうにあった。
「地下都市ノリリスクに、滅びたはずの蛇人がいる」
ルバートの酒場で、勝ち戦に談笑する傭兵達の口からそう聞いた。その噂だけを頼りに、ムーンはこの戦場に立っている。だが魔神と刃を交える日々の中で、その影を見たことは、まだ一度もなかった。あの日の事を思い出すと、目の奥が焼けるように熱くなった。
「まだ起きてたの?」
声をかけてきたのは、アウロラだった。彼女もまた、明日の支度のためか、旅の荷物を広げて念入りに確認している。
「……ああ」
ムーンは短く答えると、また矢の羽根に指を這わせた。癖のようなものだった。
アウロラは、彼の隣にそっと腰を下ろした。
「昨日のパピーの話……本当なの? シルフに好かれてるって」
「さあな。俺には、よく分からない」
「自覚、ないんだ」
アウロラは、小さく笑った。
「私、エルフの精霊使いのくせに、シルフの気配を読むのが下手なの。エルフなら誰でも得意なはずなのに……私だけ、いつも上手くいかなくて」
その声には、自嘲めいた、けれど隠しきれない悔しさが滲んでいた。
「だから、少し……羨ましいのかも。精霊使いでない貴方が、あんなにシルフに好かれてるなんて」
ムーンは、矢を磨く手を止めた。
「……得意なものが違うだけだろう」
ぶっきらぼうな返し方だったが、アウロラは意外そうに彼を見た。
「お前は、水の精霊には好かれているよ。気配で解る。得意なんだろう。俺は、それができない」
それだけ言うと、ムーンはまた矢に視線を戻した。
アウロラは、しばらく彼の横顔を見つめていたが、やがて、小さく微笑んで、自分の旅の支度へと戻った。
そして不意に夜風が、二人の間を静かに通り抜けていった。
その夜風に紛れるようにして、パピーは天幕の外を漂っていた。
「あら、こんばんは」
闇の中、ふわりと寄り添うように現れたのは、輪郭の定まらない、渦を巻く小さな風の塊、シルフだった。
何体も、パピーの周りに集まってきては、じゃれるように彼女の髪を揺らしていく。
「明日、遠くまで行くのよ。あなた達も、来る?」
パピーの問いかけに、シルフ達は答える代わりに、くるくると彼女の周りを回った。まるで、それが答えだと言わんばかりに。
「ふふ、そう。じゃあ、よろしくね」
パピーは満足そうに笑うと、ひとつ大きく伸びをして、天幕の中へと戻っていった。
夜の静寂の中、しばらくの間、小さな風だけが、誰もいない場所で戯れ続けていた。
ひとり天幕の隅で、ティロネはもらったばかりの腕輪を、灯りにかざしていた。
金の細工が、ランプの光を受けて、淡く輝く。
「……試してみようかな」
小さく呟くと、腕輪を左手にはめ、腕輪の魔力を解放する真名をそっと詠唱を始めた。
物体を浮遊させる、ごく初歩の魔法が発動した。
いつもより明らかに軽やかに、そして心なしか、いつもはある、詠唱の後の軽い疲労感も殆ど感じなかった。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
おもむろにティロネは、まとっていたワインレッドのローブを、静かに肩から滑らせた。
ローブの下から現れたのは、豊かな曲線を描く肢体だった。
肌着だけを纏った姿は、いつもの厚手のローブに包まれている時とは、まるで印象が違う。露わになった透き通るような白い肌のあちこちには、これまで積み重ねてきた”忘却”の記憶を留めるための、無数の紋様が刻まれていた。
忘却の呪い。
ティロネ自身が、そう呼んでいる。
かつて、禁じられた書物の中に見つけた、ひとつの術があった。それは、知りたいことを何でも教えてくれた。その代わりに、彼女から、少しずつ何かを奪っていった。
気づいたのは、ある朝のことだった。
学友に名を呼ばれ、振り返ろうとして、それが自分の名だと分からなかった。
「……あぁ、親しい友人が私をティロネと呼ぶなら、私名前はティロネなんだな……」
ぼんやりと、そう考えた自分の思考が恐ろしかった。
それ以来、ティロネは、忘れてはならないものを、直接肌に刻むようになった。
記憶から消えても、それを即座に思い出せるように。
彼女は、樫の杖の先端に小さな光を灯すと、傍らの柱に立て掛けた。
淡く、しかし温かみを帯びた魔力の光が、天幕の中を、ぼんやりと照らし出す。
もう一方の手には、小さな道具入れ。中から取り出したのは、細く尖った、彫るための針と、使い込んだインク壺だった。
彼女は、右腕を膝の上に載せると、腕輪の内側に刻まれた紋様を、じっと見つめた。
この魔力の恩恵の真名を、決して忘れないように。その一心で、彼女は針の先を、自らの肌へと近づけていく。
息を、一度だけ深く吸い込む。
杖先の光が手元を照らすよう角度を整えながら、彼女は、古代語の一文字目を、そっと肌に刻み始めた。
針が肌を割るたびに、微かな痛みに、白い喉が仰け反る。汗ばんだ肌に張り付く赤毛の一房を、彼女は煩わしそうに、耳へとかき上げた。豊かな胸元が、呼吸のたびに、緩やかに上下している。
一文字、また一文字。
痛みに眉根を寄せながらも、その表情はどこか恍惚としていた。
知識を、自分自身の一部として刻み込んでいく、この行為そのものへの、抑えきれない喜びが滲んでいるかのように。
やがて、右腕の内側に、古代語で綴られた、短い一節が浮かび上がった。
彼女は、汗の滲んだ肌を、そっと指先でなぞりながら、満足げに小さく息をついた。
これでまた一つ、彼女だけの”記録”が、消えない形で、この身に刻まれた。
忘却の呪いに打ち勝つ、私だけの儀式。
その満足した感触に、ふと、昨日の記憶が蘇る。
空を薙ぎ払った、あの熱線。誰もが「竜騎士の援護」だと信じて疑わなかった、あの光。
(あれは……絶対に、魔法だった)
ティロネは、腕輪を撫でながら、確信を強めていく。
あの一瞬、確かに感じ取った「魔法の残滓」単なる肉体的な自然現象である竜のブレスに、あんな気配が宿るはずがない。
なら、あの魔法は誰が。
脳裏に浮かんだのは、ある人物の顔だった。だが、その考えを、彼女はすぐには言葉にしなかった。
確信はある。だが、確証はまだ無い。
ティロネは、腕輪の輝きと腕に刻んだ記憶の記録をもう一度見つめると、明日の事を考えながらゆっくりと目を閉じた。




