第16話 樹海(三)
森の奥から絶叫が聞こえた。
「……助けて……誰か……」
絶叫の後、その声が森の奥から、途切れ途切れに響いてきた。
「!」
その声に反応し、ユルトが、真っ先に地を蹴ろうとした。
「待て!」
鋭くそれを制したのは、ムーンだった。
「声が!」
アウロラもムーンに訴えかける。
「……なんだ、ムーン。今のは」
「三四郎だ」
その名を口にする、ムーンの声は硬かった。
「骨喰み三四郎。……人語を話し、声を真似る、深部の獣だ。捕らえた獲物を使って、助けに来た者を、次々と誘い込む」
「罠、というのか」
「間違いない」
助けを求める声は、なおも森にこだまし続けていた。同じ声が、右から、左から、あちこちから重なって聞こえてくる。まるで、森そのものが、悲鳴を上げているかのようだった。
「……っ」
アウロラの顔から、みるみる血の気が引いていく。隣で、ティロネもまた、唇を強く噛み締めたまま、動けずにいた。
「聞きたくない……」
パピーが、小さな両手で、耳を塞いでいた。アウロラの外套の中に、逃げるように滑り込む。いつもの気まぐれさは、欠片も残っていなかった。
ユルトは、重い沈黙の後、エルへと視線を向けた。
「……エル。どうする」
エルは、しばし目を伏せていたが、やがて、静かに顔を上げた。
「行きます。……あれが、今、私達に残された唯一の手がかりです」
その声には、迷いと、それでも進む覚悟が、同時に滲んでいた。
ムーンは、拳を強く握り締めた。その額からは冷たい汗が滴っていた。
油断すれば、命を落とす。故郷で幾度となく聞かされてきた、あの獣の恐ろしさが、脳裏に蘇る。それでも、
「行こう」
短く、そう言い切った。覚悟は、既に固まっていた。
少し開けた広場の脇、ひときわ大きな大木にもたれかかるようにして、そのダークエルフは座り込んでいた。
木々の影から、ムーンはその様子を窺う。
呼吸は浅い。辛うじて、命の灯が繋がっているのが分かる程度だった。顔色は、土気色を通り越して、もはや灰に近い。毒が、確実に体の奥深くまで蝕んでいる証だった。
(……時間がない)
三四郎は、必ずどこかから、この光景を見ている。ムーンには、それが分かっていた。
あの獣の身のこなしは、決して素早くはない。だからこそ、獲物の声を騙り、罠に誘い込む戦法を取る。
注意すべきは、あの顎だ。一度食らいつかれれば、あの臼歯に、骨ごとすり潰される。
ムーンは、後方に控えるユルトとエルへ視線を送った。二人は、無言のまま頷いた。
「【竜鱗の加護】——ドラゴンスケイル」
エルが、静かに詠唱する。淡い光と共に、彼女とユルトの鎧の表面に、無数の竜の鱗のようなものが浮かび上がり、貼り付いていく。魔法の竜鱗がもたらす防御は、通常の比ではなかった。
「マジックウェポン」
ティロネの声と共に、ユルトのバスタードソードと、エルのドラゴンテイルの刃に、青白い光が纏わりついた。
アウロラは、目を閉じ、静かに意識を森へと向けていた。
(小川の巨木の君……トレント……お願い、力を貸して)
森の上位精霊【トレント】へと語りかける。アウロラはこの森限定であるが、上位精霊との契約を完了していた。
ざわり、と、周囲の木々が僅かに揺れた気がした。
「……見つけた!」
アウロラが、目を見開いた。
ユルトから見て斜め前、四メートルほど先。そこに立つ大木の輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。まるで、木そのものの硬度が、一瞬にして失われたかのように。
「そこ!」
叫んだ瞬間、十メートルはある大木がまるで人型のような形を取った。
次の瞬間、トレントは巨大なハンマーのような太い枝を振りかぶり、力任せに茂みに向かって、巨大な拳のような枝を叩きつけた。
「ギャン!!」
甲高い悲鳴と共に、牛ほどの体軀を持つ赤い犬のような魔獣三四郎が、トレントに殴り飛ばされ、広場の中央へと転がるように躍り出た。
既に、ユルトとエルは動き出していた。
あの位置、ライトニングは駄目だ。ダークエルフを巻き込んでしまう。ティロネは瞬時に魔法を切り替えた。
「マジックアロー!」
三本の光が、迷いなく放たれる。一本目が顎を、二本目が胴体を、三本目が右足を撃ち抜いた。
三四郎は全く怯まない。
その隙に、ムーンは既に木の上へと身を移していた。
音もなく、軽業のような身のこなしで枝から枝へと渡り、頭上からの狙撃位置を確保する。矢が、間断なく三四郎の頭部へと飛んだ。
矢は深々と、耳の後ろと背中あたりに命中した。
ムーンの矢を受け、三四郎の動きが鈍った。
その隙を見逃さずエルが、近づく勢いのまま、盾を構え体当たりを敢行する。竜鱗の鎧を纏った肩と盾が、三四郎の横面へと叩き込まれた。
三四郎はその衝撃を押し返そうと、その場で力を込め踏ん張る。
その一瞬の硬直を逃さず、ユルトが右前足を斬りつける。
「浅い!」
ユルトが、舌打ちと共に叫んだ。三四郎の筋肉の層は、想像以上に厚かった。斬撃が皮膚を裂いても、その動きを止めるまでには至らない。
「トレント!」
アウロラの声に応え、十メートルはあろうかという大木が、再びハンマーのような枝を振り下ろす。
三四郎は、間一髪でそれをかわした。
だが、その着地の隙を、エルが見逃さなかった。
「——ッ!」
メイスの一撃が、再び横面へと叩き込まれる。
だが、三四郎はその一撃を顔面で受け止めると、反撃にと噛みついた。鈍い音と共に、エルのメイスがその顎に咥え込まれ、動きを封じられる。
「……っ」
力任せに引かれ、エルの体勢が崩れかける。だが、彼女は表情一つ変えなかった。
咥えられたまま、柄を素早く捻る。
次の瞬間。無骨なメイスの内側から、八本の刃が一斉に飛び出した。
三四郎の口内が、瞬く間にズタズタに引き裂かれる。
「グルァアアッ!!」
堪らず、三四郎はメイスから顎を離した。
三四郎が仰け反り、動きが止まった。
木の上から放たれたムーンの正確な矢が、寸分違わず、左目へと突き刺さった。
「ギャアアアアッ!!」
絶叫が、森中に響き渡る。
「今だ!」
ユルトのバスタードソードが、先ほどと同じ箇所、右前足へと再び振り下ろされた。
今度は、確かな手応えがあった。肉を裂く一撃。三四郎の動きが明らかに鈍った。
三四郎は、たまらず後方へと飛び退いた。
その、片目を失った双眸が、忌々しげに、木の上の男を捉える。
「……ッ」
次の瞬間、三四郎は足元に転がっていた、別のダークエルフの亡骸を、大きな口で咥え上げた。
そして、力の限り、それをムーンへと投げつけた。
「なっ——」
不意を突かれ、避けきれなかった。ダークエルフの死体が直撃し、ムーンの体勢が大きく崩れる。木から、そのまま落下した。
とっさに身を捻り、頭から落ちることだけは避けた。だが、完全に体勢は崩れきっていた。
地面に叩きつけられ、意識が一瞬、白く霞む。
その視界の端に、怒りにまかせ飛びかかろうとする、赤い影が映った。
(……間に合わない)
誰も、反応できなかった。
その瞬間だった。
巨大な影が、横合いから疾った。
三四郎よりも、一回りは大きい、漆黒の大狼が、その巨躯を三四郎の側面へと叩きつける。
「ギャンッ!!」
悲鳴と共に、三四郎の体が、勢いよく吹き飛ばされた。
三四郎は地面を転がり、大狼を見上げる。
新月の夜を思わせる漆黒の毛並みを持つ大狼は、右足を一度踏み鳴らし、下がれ下郎! とばかりに三四郎を睨みつける。
「……かえして……かえしてぇ……」
三四郎が、気味の悪い声で、譫言のようにそう繰り返す。
大狼は、一度低く唸り、再び飛びかかろうとゆっくりと身を沈めた。
その気配を察したのだろう、骨喰み三四郎は、踵を返すようにして、悲しげな声を上げながら森の闇の奥へと、姿を消していった。
漆黒の大狼は、地に伏したままのムーンへと、ゆっくりと近づいた。
「ハティ」
ムーンは自分にだけ聞こえるくらいの声量で呟いた。
そして、ハティはまるで匂いを刻みつけるかのように、体をぐるりと寄せながら、彼の周りを一周する。柔らかな、それでいて確かな重みのある毛並みが、ムーンの肩を掠めていった。
それだけを終えると、ハティは踵を返し、音もなく森の奥へと消えていった。
誰も、しばらく動けなかった。
「……今のは?」
ようやく口を開いたのは、ティロネだった。
「巨狼族だよな……。あんなのが、この森に」
ユルトがまだ信じられないという口調で、ハティが去っていった方向を凝視している。
今や、外の世界では見ることが無い消えゆく種族。年経た個体は言葉を解し、美しい毛並みと高い社会性を持つ種族。ひとつの群れであれば、ドラゴンでさえ対峙を怯むと言われる種族である。
「村の守り神みたいなものかな」
ムーンは答えながら立ち上がり、大木に身を任せ寄りかかるようにしているダークエルフへ駆け寄る。
既にエルが神聖魔法を唱えていたが既に手遅れのようであった。
ムーンが近づくと、毒に侵され瀕死のダークエルフは手を伸ばしムーンに語りかける。
「良かった……無事だったか……」
出血も多く、毒に侵され、意識が混濁し、ムーンを仲間と混同しているようだった。
「……あぁ無事だ」
ムーンはその手を取り優しく語りかけた。
「……俺はもう駄目だ……お前が……に伝えるんだ……魔大公は生きてる……」
その言葉に一行は驚愕した。皆が考えていた少ない可能性、その中でも最悪の可能性だった。
「……の言うとおり……深部に……を……」
血に咽せ、言葉に詰まりながら必死に語る。
「……俺達の都を……」
ここまで話すとダークエルフの手先から微かに感じていた力が消え、強靭な意志で繋ぎ止めていた僅かな命の灯火も消えた。
魔大公が生きている。一行はこの事実を容易に受け入れる事ができなかった。
「……俺の村に行こう。戦闘で大きな音を出した、ここも危ない」
ムーンはダークエルフの目を閉じさせると、歩き出した。
エルは軽く祈りを捧げ、ムーンの後に続く。それにアウロラ、ティロネが続いた。
ユルトは最後に名も知らぬダークエルフに近づき、首から下がっている帝国の紋章を象ったネックレスを引きちぎると、それを懐にしまった。
その顔には慚愧の念が色濃く浮かんでいた。




