第15話 樹海(ニ)
馬に乗っての移動は、これまでの徒歩の強行軍とは比較にならないほど速かった。
蹄が地を蹴るたび、木々が瞬く間に後方へと流れていく。
この数日、必死に歩いて縮めてきた差が、半日と経たぬうちに大きく詰まっていくのが、誰の目にも明らかだった。
ただし、馬で駆けながら地面の痕跡を探すことなど、土台無理な話だった。あの巧妙に隠されたダークエルフの足跡を、馬上から見つけ出すなど到底できはしない。
そこで一行は、まだ明瞭に残るダークエルフ一行が追跡する、四人組の痕跡だけを頼りに、道を選んでいくことにした。
もっとも、その判断は的外れではなかった。四人組の痕跡は、追う側であるダークエルフ達が既に踏み荒らした後でもある。二重に刻まれたその道筋を辿ることは、遠回りにはならなかった。
そして、何より雄弁だったのは、その痕跡の「乱れ」だった。
村を過ぎたあたりから、明らかに踏みしめる場所を選ぶ余裕も、迂回する手間も、もはや見受けられない。
迅速に目的地に向かうという事に、意識のすべてが向けられ、後方を警戒する余力など、既に残されていないかのようだった。
「……余裕がなくなってきてる、ってことか」
馬上から地面を見下ろしながら、ムーンが呟いた。
「痕跡を隠すどころじゃない。……追い詰めてる、あるいは、追い詰められてるかだ」
「悪くない兆候だな」
ユルトが、手綱を握り直しながら言った。
一夜を越し、村を発って二日目の昼前には、既に大樹の森の入り口が見える場所までたどり着いた。
鬱蒼とした木々が視界を覆い始める場所であった。
「……ここから先は、馬では入れません」
村の若者の一人が、森を見上げながら言った。
「木々が密集しすぎてて、蹄を取られます」
「分かった」
ユルトは頷くと、馬を降り、若者達へと向き直った。
「ここまでで十分だ。……世話になった」
そう言って、懐から幾らかの銀貨を取り出すと、若者達の手に、しっかりと握らせた。
「え、こんなに……」
「受け取ってくれ。命懸けで馬を出してもらったんだ、これくらいは当然だ」
若者達は、恐縮したように頭を下げた。
「……お気をつけて」
「ああ。村までの帰り道、気をつけてな」
村の若者は二頭の馬に跨り、そして器用に他の馬の手綱を連れ、村へと戻る道を引き返していった。
その背が木々の向こうに消えるのを見送ってから、一行は改めて、森の奥へと足を踏み入れた。
森の中は鬱蒼と茂る木々により、太陽の光が遮られ、体感温度が数度は下がっていた。
肌寒さを感じ、ティロネは、まくっていたローブの袖を下ろす。
時折、聞いた事のない動物の声が響くが、人の気配がない静かな森だった。
ムーンは、この複雑な森の中を迷いなく先頭を進んでいる。
道中、皆は彼がこの森で育った事を聞いていた。
アウロラは【大樹の国】出身、ムーンは【大樹の森】出身。この言葉は同じように聞こえるが、意味は根本的にちがう。
大樹の森は、中心に【世界樹】と呼ばれる巨木が聳え立っている。
樹齢は数千年と言われ、この大樹の森の象徴である。
この森は、世界樹を中心に円を描くように、【深部】と言われる世界樹に近い場所と、【表層】と言われる世界樹から遠い場所に分けられる。
大樹の国は、森の表層をぐるっと円を描くように存在している。そこには、色々な部族が居を構え、最大の集落を持つのがエルフの街【エルフィード】である。主な住人はエルフと森人との間にできたハーフエルフである。
その昔、ダークエルフも、大樹の国において、エルフと双璧を成す種族であったが、ある事件をきっかけにこの国から追放されている。
そのことからか、エルフや大樹の森の人々は、未だにダークエルフを裏切り者として、蔑む人が多かった。
エルフという種族では、アウロラのような偏見を持たない考え方をするエルフの方が珍しかった。
大樹の森は、【表層】以外にも【深部】が存在する事は前述した。
大樹の森出身とは、その深部と表層ギリギリのところで暮らす人々のことを指している。
なぜ深部に大樹の国はないのか? なぜ深部に人は住まないのか?
深部には、決して人を寄せ付けぬ他の住人達が、その生を謳歌しているからであった。
大樹の森は広大だ。
しばらく進んだところで、最初の異変に行き当たった。
巨大な何かと、激しく渡り合った跡だった。
木々はへし折れ、木々が焼け、肉の焦げた匂い。地面は幾筋にも抉れている。そして、その中心に転がっていたのは、見たこともない異形の骸だった。
複数の獣の特徴が、歪に一つの体へと縫い合わされている。双頭の片方は山羊の頭、もう片方は獅子頭に大きな顎、獅子の胴体に、蛇の尾。
「でかいな……キマイラか」
ユルトが、低く呻いた。非常に珍しい魔獣だ。ユルトも、この大きさのキマイラを見るのは初めてだった。
「これは……」
アウロラが、その骸に刺さったままの矢と、焼け爛れた山羊の頭に目を留めた。
「炎の精霊魔法の跡だわ」
「矢もある」
ムーンもまた、地面に転がる折れた矢を拾い上げた。見覚えのある作りだった。
「帝国兵と同じ型式の矢だ。見たことがある」
二人の顔に、驚きと、そして僅かな敬意が浮かんだ。
キマイラは、大樹の森表層では、最強の魔獣のひとつだ。
山羊の頭は暗黒魔法を使い、獅子の頭は強力な炎のブレスも吐く。尾の蛇の毒は非常に強く、手当が遅れれば命に関わる危険な毒であった。
「これだけの傷を負わせて、仕留めきった……のか」
ユルトが、キマイラの骸を見渡しながら呟いた。
「五人がかりとはいえ、大した腕だ」
その強さは、紛れもなく本物だった。
追跡の相手はかなり危険な相手だ。皆のキマイラの屍を見る視線がそう物語っている。
だが、ムーンだけはそのキマイラの屍を尻目に、既に森の中へと歩き出していた。
キマイラとの戦いは、五人が死力を尽くして決着した。こんな強力な魔獣といきなり出くわすとは運がないと皆が思った。
しかし、彼らは帝国ダークエルフ部隊でも若き精鋭だった。
皆、その腕には自信があった。
戦闘で大きな音を出した。そしてかなり消耗した。他の魔獣を呼び寄せるかも知れないという懸念から、ダークエルフパーティーはキマイラの屍から少し距離を取っていた。
だが、勝利には代償が伴った。仕留めたはずのキマイラの、蛇の頭を持つ尾が、隊の一人の腕に牙を突き立てていたのだ。傷は浅い。だが、そこから注ぎ込まれた毒が、彼の体を静かに蝕み始めていた。
「……くそ、痺れが」
「動くな。今、毒抜きをする」
仲間の一人が、膝をつき、鞄から治療道具を取り出し、傷口を手当する。他の三人は、周囲を警戒しながら、その様子を見守っていた。
その時だった。
「——ッ!?」
治療にあたっていた男の悲鳴が、森に木霊した。
振り返った仲間達が見たのは、右腕を、肘から先を、何かに食い千切られ、血を撒き散らしながら、木々の奥へと引きずられていく男の姿だった。
「フォルド!」
誰かが叫んだ。だが、姿を捉える間もなく、フォルドの体は、木々の合間に呑まれるようにして消えていった。
残された四人は、武器を構え、闇へと視線を凝らした。
姿は見えない。ただ、何か大きなものが、周囲を静かに移動している気配だけが、肌を舐めるように伝わってくる。
「……何なんだ、今のは」
誰も、答えられなかった。
毒に蝕まれた男を庇いながら、三人は背中を合わせ、円陣を組んだ。安易に動くべきではない。それは、誰もが分かっていた。
やがて、声が聞こえた。
「……痛い……助けて……」
左方から。フォルドの声だった。
誰も、動かなかった。
「……こっちだ……早く……」
今度は、右方から。同じ声だった。
背筋に、冷たいものが走った。
「……声が、二つ……いや」
前方からも。後方からも。
同じ声が、何重にも、四方八方から響き始めた。方角も、距離も、めちゃくちゃに入り乱れている。
「……くそ、どこにいるんだ、あいつは」
誰かが、震える声で吐き捨てた。誰も、その問いに答えられなかった。声は、森全体から染み出しているかのようだった。囲まれているのか。
毒に蝕まれた男が、荒い息の中で、絞り出すように言った。
「……惑わされるな……あれは、フォルドじゃない……」
言い切る前に、彼の言葉は、途切れた。
背後から伸びた影が、隣に立っていた仲間の体を、一瞬で闇の中へと引きずり込んでいた。悲鳴すら、上げる暇がなかった。
「——!!」
残る二人が、反射的に得物を構えた瞬間、今度は横合いから、何かが疾った。
視界の端に映ったのは、赤い、獣のような影。
一人が、その場に崩れ落ちた。両の足から、鈍く、骨の砕ける音がした。
「ぁ、あ、あああああっ——!!」
絶叫が、森に響き渡る。だが、それも、すぐに引きずられるようにして遠ざかっていった。
残されたのは、毒に蝕まれ、まともに動くこともできない、たった一人のダークエルフだけだった。
「……っ、う、あ……」
彼は、震える手で剣を握ろうとした。だが、その前に、鈍い衝撃と共に、両足に激痛が走った。
骨が、砕かれた音がした。
声にならない悲鳴を上げる彼の前に、赤い影が、ゆっくりと姿を現した。
牛ほどもある体軀。血のように赤い体毛。そして、牙ではなく、人間のように整然と並んだ、白い歯。
その口が、ゆっくりと開いた。
「……ようこそ。ようこそ」
その口元は、人間のように笑っているように見えた。
「……まだ、仲間はいるかい? ……呼んでごらん」
目の前の化け物は、今度ははっきりとニタリと笑った。それは今まで見たどの笑顔よりも邪悪な笑みであった。




