両者暴走中
その翌日、リナリアはかなり真剣な顔で廊下を歩いていた。
その姿は歴戦の勇者の様である…とは、本人が思っている感覚なだけであり、実際はただやる気に満ちた様な顔をしているだけである。
「…やっぱり必要だよね」
リナリアはぽつりと呟く。
昨夜、改めて理解したのだ、ここは蜘蛛族の巣だと、つまり巨大捕食者の本拠地であると。
そして自分は多分、美味しく育成されている最中…これは駄目だ!
リナリアは拳をグッと握り込む。と、同時に小さめな唇もキュッと窄んだ。
「逃走能力を鍛えないと…!」
食べられたくないその一心しかない。
まず必要なのは脚力だ。
兎に角、蜘蛛族は速いのだ、本当、びっくりするくらい速い。
しかもそれだけじゃない。
なんか、壁も天井も走るし、気配もない!
あれに対抗するには、最低限の逃げ切る筋力が必要だ!
そう思ったリナリアは自身の足をチラリと見た。
…リナリアはししゃもの様な細い脚を、最低限子持ちししゃもぐらいにはしていきたいと思った。
「よし…!」
決意を新たにしたリナリアはそっと扉を開けた。
念入りに周囲をきょろきょろ確認する。
天井、誰もいない。
壁、誰もいない。
窓の外、何も動いてる気配ない。
…よし!今だ!
顎を引き、やや上目遣いで周囲を確認したリナリアは走り出す。
もう、それは、全力で、息を殺しながら、気配を消しながら、全力で廊下を走った。
真剣だった、本人はかなり真剣だった。
「…見ましたか?あの番様の凛々しいお姿を」
「はい、しかとこの目に焼き付いております」
「ついに始まりましたね、順調です」
そんなリナリアの珍行動は全て、天井に張り付いていた蜘蛛族達に見られていたのだ。
皆は心からリナリアの珍行動に感動していた。
きっと今ならリナリアが鼻に割り箸を突っ込んだとして笑うものは一人もいないだろう。
「足音を抑えた移動」
「静かな走行と安全確認」
「これは完全に」
沈黙。
「「「幼体を起こさない夜間移動訓練ですね!!!」」」
全員が深く頷き合う。
「順調に進んでおりますね」
「素晴らしい母性愛」
「きっと領主様との未来は夏の日差しより眩しいですね」
リナリアは知らない。
今この瞬間、館中で『番様、領主様へ育児能力を見せつけ中』という噂が駆け巡っていることを。
その頃の執務室、アシュヴァルは胃薬が無くなったので、ビートに買ってくる様に頼んだ後の事。
「…リナリアが走っている?」
胃を抑えながら、アシュヴァルが顔を上げた。
「はい!とても真剣に走っておられました!」
「館内を軽やかに!まるで妖精の様な美しさで!」
「かなり真剣なご様子で見せつけております!!」
アシュヴァルへと報告する蜘蛛族達は大興奮である。
「…誰と?」
けれどアシュヴァルからの返事は低い声を震わせながらの一言。
蜘蛛族達はきょとんとした。
言ってる意味が全く、これっぽっちも、わからなかったからである。
予想外の返答に一同困惑である。
「はい?」
「だから…!誰と居たんだ…!」
静かな声だけれど、その声音にはものすごい圧があった。
そんな圧をかけられても困るだけである。
「え、えっと…?」
「番様お一人でしたが…?」
「誰ととは、一体?」
困惑しながらもそれぞれが返答を返した。
寧ろこの一言しか言えることはない。
「………そうか」
アシュヴァルは静かに視線を落とす。
背中が痛い。
きっと胃に穴が空き始めているのだろう。
まだ一人か、その返答にアシュヴァルは少し安心した。
…安心してしまった自分に更に落ち込む。
何を考えているんだ俺は…?
番だから独占したい?でも怖がらせたくない?でも他の男を想像すると嫌だ?
いつからこんなに他者へと、自身の感情を押し付けたがるようになってしまったんだ?
己の感情が忙しすぎる。
もう、過労死してしまいそうだ。
労働基準法は仕事をしてくれない。
「アシュヴァル様」
いつの間にやら帰ってきていたビートが呆れた声を出す。
左手には新しい小瓶、右手には水を持ち、ゆっくりと近づいてくる。
その表情は自身の巣に絡まった獲物がもがいてる姿を眺めている時の様な顔をしている。
不敬でしかないが、胃薬があるので飲み込むとしよう。
「今、まだ一人かって顔してましたよ」
蜘蛛脚は正直だった。
内心を見透かすようなビートの発言に対し、ぴこぴこ動いてしまっている。
いつの間に出たのだこの脚は。
「非常に機嫌が良さそうですね」
蜘蛛脚が出ているのだ、内心はほぼ隠せていない。
その頃のリナリアは次なる訓練へ移行していた。
「次は隠密!」
これも必要な訓練である。
逃げるだけでは駄目なのだ、見つからない技術も必要になるだろう。
備えはしても損はないのだ、やらないで後悔するよりはやっておく方が精神
なのでリナリアは現在カーテンの裏にいた。
「…………」
真顔だった。
息を殺し、自身の気配をどんどん内側へと持っていく様に消してゆく…
付近の空気感を感じ、呼吸も最低限、ゆっくりと、周りの空気の動きに合わせるように…自然に…自然に…
本人は完璧に隠れているつもりだった。
だが、やはり、奴等はいのだ。
「番様」
「ひぃっ!?」
後は壁なはずなのに、何故か真後ろから声がした。
リナリアは恐る恐る振り返る。
驚きすぎて指先はジンジンと淡く痺れている。
そこには蜘蛛族がいた。
「な、なんで!?完璧だったのに!?」
「番様、足が、見えております…」
リナリアは絶望した。
蝋で羽を作り空を飛んだあの人の様に。
高く飛びすぎて落下してしまった気分だった。
そんなリナリアの事はいざ知らず、蜘蛛族は優しく微笑んだ。
リナリアの心の叫びは誰にも聞こえないまま、内側で爆発するだけだった。
「なんと献身的な愛でしょう」
「素晴らしい母性…素晴らしい…」
「領主様がヘタレているばっかりに…」
「番様だけは順調ですねぇ…」
意識が飛んでいるリナリアには聞こえない。
そしていつもの様に蜘蛛族達は涙ぐんでいた。
なんとか正気を取り戻したリナリアは頭を抱える。
なんで毎回すぐ見つかるの!?
これはかなり深刻な問題であった。
そしてその日の午後、ついにリナリアは気付いてしまった。
「…もしかして私、監視されてる?」
廊下の角で小声で呟く。
素早く左右に視線を走らせる。
「…誰かいる?!!」
上下に視線を走らせる。
「…。」
最近ずっとそうだ。
これは見張りなんて生優しいものではない、きっと、監視だ。
隠れても見つかる。
逃げても何故か先回りされる。
物陰へ入った瞬間に「番様」と声がする。
おかしい、絶対おかしい、これはもう偶然ではない。
リナリアは上下左右と前後に視線を素早く動かし、呟いてみた。
「あーコマッタナァー」
「どうなさいました?」
その瞬間、蜘蛛族が何処からか隣へとやってきていた。
そう、やって来たんじゃない。
やって来ていたのだ。
つまり蜘蛛族って狩りが超絶得意なんだ…!
リナリアは酷く青ざめる。
獲物を追跡する習性。
気配を読む能力。
壁や天井も含む立体的な監視体制。
これは完全に捕食者!
弱肉強食の強の部分!!
ぞわぞわっと鳥肌が立つ。
「負けないんだから…!」
「え?番様?え?」
リナリアはぎゅっと拳を握り、真横にいる侍女へと宣戦布告をした。
もちろん侍女は困惑したまま、何度もチラチラとリナリアを見ながら、天井へと上がってゆき、消えた。
目で追っていたのに消えた蜘蛛族に、リナリアは早くも完全敗北を悟るのだった。
一方その頃の蜘蛛族側はいつもの如く、盛大に勘違いしていた。
「おめぇら!目玉をかっぽじってみたか?!」
「へぇ!!!!」
「番様がついにやりやがった!!!」
蜘蛛族達は感動に震えていた。
感動しすぎて過呼吸になった蜘蛛族は、まるで殺虫剤をかけられた虫の様に蜘蛛脚も含め裏返りピクピクと痙攣していた程だ。
「危機管理能力を育て始めましたね!」
「幼体を守るための警戒訓練までなさるとは!」
「母としての自覚が強くて素晴らしい番様です!!」
全員顔を見合わせ、深く頷く。
「順調ですねぇ」
その場に止める人は1人もいなかった。
その頃のリナリアは、逃走を諦め籠城作戦へと移行していた。
かなり本気で対策を考えていた。
それはもう真剣に。
「まず視界を遮る」
現在リナリアはシーツを頭から被っている。
蜘蛛族は視覚が良い、どうするかといえば…ならば視界を切ればいい!!となる。
凄く完璧な作戦だった。
見えなければいいのだ、見せなければ良いのだ。
だが、蜘蛛族は強かった。
弱は強には勝てないと嘲笑うかの如く。
「番様」
「ひゃあああっ!?」
今度は耳のそばから声がした。
その吐息の暖かさにリナリアが飛び上がると、被っていたシーツがはらりと頭から落ちてゆく。
…そこには侍女がいた。
「ど、どうして!?」
「どうしてとは?」
「見えてないはずなのに!?」
「番様…あの、蜘蛛族は振動にも敏感ですので」
「振動…振動…振動…」
リナリアの顔が引きつる。
振動とはこれいかに。
あぁ、もう全てが終わった…完全敗北だ。
人間だもの、生きとし生けるものは心臓の鼓動を止める事はできない定めなのだ。
生きているという事は振動しているのと同義である。
つまりは…逃げられる気がしない。と、いう事。
そんな今日2度目の絶望顔をしているリナリアに向かって侍女は優しく微笑んだ。
リナリアは涙目だった。
その頃の執務室では、胃薬を飲んだアシュヴァルが、世界の理とはなんて愛しいのだと考えていた。
その時、定期報告が入った。
アシュヴァルは痛くない胃を抑えながら話を聞く姿勢をとる。
「…リナリアがシーツを?」
アシュヴァルが絶望的な表情をした。
「はい!とても可愛らしいお姿でした!!」
「完全に包まっておられました!!!」
「安心空間を構築されておりますね!!!」
アシュヴァルは静かに目を閉じた。
安心…。
その単語はアシュヴァルを幸せに導いてくれる神の福音である。
『アシュヴァル様の隣は安心します!すきっ!』
脳内で少し恥じらいながらそう言うリナリア。
世界とはなんと素晴らしいものであろう。
望んだものが見えるのだ。
勿論そんな事はない、妄想だ。
巣、安心、備蓄、環境整備、逃走経路、かくれんぼ、隠密
それら全てが蜘蛛族的には完全に家庭を表せる単語なのである。
だが、突然アシュヴァルの脳に雷が落ちた。
全て…もし俺じゃなかったら?
ぞわり、と本能が騒ぐ。
知らない男蜘蛛族、そいつに笑いかけるリナリア。
そいつのために巣を整えるリナリア。
必死に努力するリナリア。
頬を赤らめ上目遣いで…。
そこまで考えたところで机がミシッと鳴った。
「領主様!?」
「また机が!!」
「やめてください!」
蜘蛛族達が慌てる。
それと同時にアシュヴァルは低い声で呟いた。
「…確認する必要がある」
沈黙。
蜘蛛族達は顔を見合わせた。
何を確認すると言うのかと困惑する蜘蛛族。
意味がわからなすぎて、全員が同じ顔をしていた。
何言ってるんだこの人?と、そんな顔だった。
だがアシュヴァルは真剣だった。
人族は番を認識しづらいと本に書いてあったのだ。
だから、必ず、ほうれん草が大切だと。
ビートは悟った。
重症だな、と。
恋する蜘蛛族領主は、
非常にめんどくさかった。




