EP 10
『奇跡の夜食ケータリング! 倒れたトップアイドルと癒やしの葛雑炊』
高級料亭のVIPルームは、ひりつくようなパニックに包まれていた。
「救急車はまだか!? ツアーの初日が終わったばかりだぞ、明日のメディア取材はどうするんだ!」
「胃薬は効かないのか!? しっかりしろ、月人!」
スーツ姿のマネージャーたちが青ざめた顔で怒鳴り合う中、上座の畳の上で、一人の青年が腹を押さえてうずくまっていた。
数時間前、マリンメッセ福岡のステージで数万人の観客を熱狂の渦に巻き込んでいたトップアイドル――朝倉月人。その華やかなオーラは影を潜め、端正な顔は脂汗に塗れて紙のように青白い。
「どいてくれ。急患の処置をする」
俺はマネージャーたちをかき分け、倒れている月人のそばに膝をついた。
「な、なんだ君は!? 勝手に入ってきて……!」
「素人は黙ってろ」
俺は鋭く言い放ち、前世のTCCC(戦術戦闘死傷者ケア)の知識と、三ツ星フレンチ副料理長としての経験を総動員して、月人の状態を素早く視診・触診する。
脈拍、呼吸音、腹部の硬さ。アナフィラキシーショックや急性アルコール中毒ではない。
(……極度の過労とストレスによる、急性胃痙攣だ。ライブの極限の緊張状態から解放された反動で、自律神経が完全にバグを起こしている。おそらくここ数日、まともな固形物を胃に入れていないな)
「救急車を呼ぶほどの命の危険はない。だが、胃壁が激しく荒れ、痙攣を起こしている。冷たい水や市販の胃薬を流し込んでも、かえって胃を刺激して吐き戻すだけだ」
俺の的確な診断に、マネージャーたちが息を呑んで顔を見合わせた。
「な、ならどうすれば……。明日は東京に戻って、絶対に外せない生放送の仕事があるんだぞ……!」
「――俺に厨房を貸してくれ」
俺は振り返り、戸口で震えている女将さんに言った。
「俺はプロの料理人だ。彼の痙攣を止め、一瞬で体力を回復させる『特効薬』を作る。さっきの水炊きのスープがまだ残っているはずだ」
「は、はい! 厨房ならどうぞお使いください!」
女将さんは俺の只者ではない気迫に押され、即座に頷いた。
俺が立ち上がろうとした、その時だった。
「つ…………月人、く…………」
「あ、あ、あああぁぁ…………尊、尊い…………」
バタッ、バタッ!!
俺の背後で、重たいものが二つ、連続して畳に倒れ込む音がした。
振り返ると、漆黒のライブ特注法被を着た魔王ラスティアと女神ルチアナが、白目を剥いて卒倒していた。
数時間前までステージの彼方にいた『推し』が、わずか数メートルの距離で倒れているという圧倒的現実に、神と魔王の許容量が完全にオーバーショートして気絶したのだ。
「……キャルル、キュララ。あのポンコツ二人を廊下へ引きずり出しておいてくれ。邪魔だ」
「うん、分かった!」
「了解〜。神様も魔王も、推しの前じゃタダの限界オタクだね〜」
キャルルたちが二人の両足を持ってズルズルと廊下へ回収していくのを見届け、俺は料亭の厨房へと向かった。
後を追ってきたヴァルキュリアが、眼鏡の奥で興味深そうに俺を見つめている。
「……治癒魔法を使わないのですね? あなたの魔法の腕なら、直接痛みを消すことも可能でしょうに」
「あいつの不調は呪いでも外傷でもない。極限まで心身をすり減らした『疲労』だ。魔法で痛みを誤魔化しても、根本的な解決にはならない。疲れた胃袋と魂を救うのは、いつだって温かい料理なんだよ」
俺は厨房に立つと、魔法ポーチの中からアナステシア世界の特級食材を取り出した。
『月見大根』――満月のように真ん丸に肥大化する、水分と糖度が極めて高い大根。
『サンライス(米麦草)』――大陸中の農村で主食とされる、米と小麦の性質を併せ持つ奇跡の万能穀物。
『陽薬草』――太陽光のマナを蓄え、胃腸を整え疲労を瞬時に回復させるエメラルドグリーンの野生ハーブ。
(……博多水炊きの濃厚なコラーゲンスープをベースに、大根のジアスターゼで消化を助け、陽薬草で胃壁の痙攣を物理的に強制鎮火させる)
俺の三ツ星の包丁『白雪』が、まな板の上で目にも留まらぬ速さで月見大根を極細の千切りにしていく。
土鍋に水炊きの白濁スープを移し、火にかける。沸騰する直前で火を弱め、サンライスを投入して柔らかく煮込んでいく。そこへ、千切りにした月見大根を加える。大根がスープの旨味を吸い込み、透き通るような飴色に変わった。
味付けは、先ほどヴァルキュリアを落とした自家製橙ポン酢を数滴垂らし、塩気を極限まで抑える。
最後に、すり鉢で粉末状にした『陽薬草』を、ほんのひとつまみだけ鍋に落とした。
――パァァッ。
鍋底から、一瞬だけ淡い緑色のマナの光が立ち上り、スープ全体に溶け込んでいく。
「完成だ。『博多地鶏と月見大根の薬膳葛雑炊』だ」
俺は熱々の雑炊を漆塗りの椀によそい、お盆に乗せてVIPルームへと急ぎ足で戻った。
部屋に戻ると、月人はまだ腹を押さえて苦しげな呼吸を繰り返していた。
マネージャーが俺の持ってきた椀を見て、血相を変える。
「ば、馬鹿な! こんな状態の彼に、食べ物を食べさせる気か!? 吐いて余計に悪化するぞ!」
「いいから黙って見ていろ。これはただのメシじゃない、『薬』だ」
俺は月人のそばに座り、椀から立ち上る湯気を彼の鼻先へそっと漂わせた。
月人の閉じていた瞼が、ピクリと動いた。
鶏肉と昆布の深い出汁の香り。柑橘の爽やかな酸味。そして、アナステシアの大地が育んだ、心を落ち着かせるハーブ(陽薬草)の清涼感。
それは、暴走していた自律神経を強制的にリセットする、圧倒的な『癒やし』の芳香だった。
「……あ、あたたかい……匂い……」
月人が、うわ言のように呟き、ゆっくりと目を開けた。
「食べられるか?」
俺が声をかけると、彼は脂汗を浮かべながらも、コクンと小さく頷いた。
俺はレンゲで雑炊を掬い、少し冷ましてから月人の口元へ運んだ。
彼がゆっくりとそれを飲み込む。
――ゴクリ。
その瞬間だった。
月人の体内に流れ込んだ『陽薬草』の生体マナと、水炊きスープの爆発的な栄養素が、荒れ狂っていた胃壁の痙攣を一瞬にして鎮静化させた。
さらに、月見大根の甘みが血糖値を穏やかに引き上げ、極限状態だった脳の疲労を急速に洗い流していく。
「……っ!!」
月人の瞳に、明確な光が戻った。
青白かった顔色に、みるみると血の気が差していく。
「お、美味しい……。なんだこれ……胃が、全然痛くない。それどころか、お腹の底から、じんわりと温かい力が湧いてくる……っ」
月人は身を起こし、俺の手から椀を受け取ると、自らレンゲを握って夢中で雑炊を啜り始めた。
ハフッ、ハフッ、と音を立てて、決して行儀が良いとは言えない勢いで、あっという間に椀を空にしていく。
「お、おい! 月人!? 大丈夫なのか!?」
マネージャーが信じられないものを見たという顔で叫ぶ。
「……ふぅっ」
最後の一滴まで飲み干した月人は、深く、満ち足りた息を吐き出した。
彼は腹を押さえていた手を下ろし、自力でしっかりと正座の姿勢に直った。脂汗は完全に引き、その顔には数時間前のステージ上で見せていた、あの圧倒的なアイドルとしての精悍さが戻っていた。
「信じられない……。あんなに痛かった胃の痙攣が嘘みたいに消えた。体も、ライブ前より軽いくらいだ……。あ、あの、あなたは一体……?」
月人が、尊敬の念を込めた瞳で俺を見上げてくる。
「ただの通りすがりの料理人さ。あんたのステージ、見させてもらったよ。数万人を熱狂させるのは大したもんだが、自分の胃袋の管理もプロの仕事のうちだぜ」
俺がニヤリと笑って言うと、月人は少しだけ恥ずかしそうに頬を掻き、深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。この恩は一生忘れません。あの……この雑炊、なんだか僕の魂の底まで救ってくれたような、不思議な温かさがありました」
その時。
「ずっっ……ずるぅぅううい!! 私も! 私も月人君にそんな優しい顔で話しかけられたいわぁぁぁ!!」
「リアン! 代わりなさい! 私が月人君の脈を診るわ! 魔王の権能で全身隅々まで健康診断してあげるからぁっ!」
廊下から、意識を取り戻したルチアナとラスティアが、襖の隙間から顔をねじ込んで絶叫していた。
二人とも、漆黒の法被を着て、月人の顔写真入りうちわを握りしめている。
月人は、そんな完全に不審者(限界オタク)な二人を見て、ふっと優しく微笑んだ。
「あ、その法被と、僕のうちわ……。もしかして、今日のライブに来てくれてたんですか?」
「っ……!!??」
ルチアナとラスティアの呼吸が、同時に止まった。
「今日のライブは、僕にとっても特別な夜でした。でも、ライブの後でこんなに素敵な人たちに助けてもらえるなんて、もっと特別な日になりました。……この雑炊の温もり、そして皆さんの優しさ。なんだか、次の新曲の歌詞が浮かんできそうです」
月人が、数万人のファンを魅了する、あの輝くような『100万ボルトの笑顔』を、ルチアナとラスティアの二人にピンポイントで直撃させた。
「『暗闇の中で倒れそうになった時、優しく温かい光が僕を救ってくれた』……そんな歌を、作ってもいいですか?」
「…………〜〜〜〜ッッ!!!!」
声にならない悲鳴を上げ、神と魔王はついに両手を天に掲げ、そのまま後方へバタァッと倒れ込んで完全に沈黙(二度目の失神)した。
推しからの『ファンサ(認知+新曲のモチーフ宣言)』という、オタクにとって致死量の過剰供給に、彼女たちの精神は完全に成仏してしまったのだ。
「……やれやれ。アイドルの破壊力ってのは、神や魔王をも凌駕するらしいな」
俺は呆れながらも、魔法ポーチに空の椀をしまい、立ち上がった。
時計を見れば、時刻はすでに深夜を回っている。
ルチアナが開いた因果律のゲートの制限時間は、明日の昼までだ。
「それじゃあな、トップアイドル。体に気をつけて、これからもいい歌を歌ってくれ。……あの二人が、うるさいくらいに応援してるからな」
「はい! 本当に、ありがとうございました!」
月人とマネージャーたちに深く頭を下げられながら、俺たちは料亭を後にした。
外に出ると、ヴァルキュリアが静かに夜空を見上げていた。
「……見事な手際でした。物理的な傷ではなく、魂の疲労を癒やす料理。……あなたたちがいれば、ルチアナ様の世界も、そう簡単には滅びないかもしれませんね」
「買い被りすぎだ。俺は自分のクランと、村の連中が美味い飯を食えればそれでいい」
俺は眠りこけたルチアナとラスティアをキャルルたちに担がせながら、博多の夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「さあ、明日は早起きだぞ。合羽橋(厨房機器店)の博多支店と、業務用スーパーを根こそぎ買い占める。……ポポロ村に帰ったら、忙しくなるぞ」
異世界の天災たちを巻き込んだ福岡の狂乱の夜は、極上の水炊きとアイドルの笑顔によって、大満足のうちに幕を閉じたのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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