EP 9
『極上水炊き懐石! 鉄血の天使長を胃袋で完全買収』
中洲の喧騒から少し離れた、静かな路地裏。
打ち水がされた石畳の先に、上品な白木の看板と暖簾を掲げた老舗料亭があった。ここは博多が全国に誇るもう一つの食の頂点、『水炊き』の名店である。
案内された奥の広い個室(VIPルーム)は、い草の香りが漂う純和風の座敷だった。
だが、その部屋の空気は、北極圏のブリザードのように冷え切っていた。
「…………」
「ひぃぃっ……! す、すいませんでしたぁ……!」
上座に背筋をピンと伸ばして正座する天使族長ヴァルキュリア。彼女の放つ無言のプレッシャー(神聖雷の余波)を前に、小豆色の芋ジャージを着た世界神ルチアナが、座布団から転げ落ちんばかりの勢いで土下座をしている。
隣では魔王ラスティアが「わ、私は誘われただけで……」と目を泳がせ、他の嫁たちも部屋の隅で息を潜めていた。
「ルチアナ様。あなたが横領した予算は、我々カスハラ部が天界のクレーマー対応で血反吐を吐きながら積み立てた、血と涙の結晶です。それを、あろうことか地球の男のアイドルのアクリルスタンドと、ライブのSS席チケットに変換したと?」
ヴァルキュリアの眼鏡の奥が、ピキリと危険な光を放った。
「弁解の余地はありませんね。直ちに時空監査部へ引き渡し――」
「まあ待て、部長さん。仕事の話は後回しだ。まずは冷えた体を温めようじゃないか」
ガラッ、と襖が開き、仲居さんが大きな土鍋とカセットコンロを運んできた。
鍋の中には、白濁した濃厚な鶏のスープがたっぷりと張られ、骨付きのぶつ切り鶏肉がゴロゴロと沈んでいる。
「……リアン・クライン。先ほどから申し上げていますが、私は神格公務員です。下界の食事などで、職務に対する買収には応じませんよ」
ヴァルキュリアが冷たく言い放つ。
「買収だなんて人聞きの悪い。これはただの『おもてなし』だ」
俺は仲居さんに「あとは俺がやるから下がっていい」と告げ、自ら鍋の前に陣取った。
前世の三ツ星フレンチ副料理長としての血が騒ぐ。もつ鍋やラーメンのようなジャンクフードも最高だが、こういう繊細な『引き算の料理』こそ、プロの腕の見せ所だ。
「博多の水炊きは、ただ鍋を煮るだけの料理じゃない。まずは、このスープだけを味わうのが作法だ」
コンロに火を入れ、スープがふつふつと沸き立つのを見計らう。
俺は小さな湯呑みに、ほんのひとつまみの『塩』と、刻んだ青ネギを入れた。この塩は、ポポロ村の地下深くで採掘された、不純物ゼロの高純度岩塩だ。
そこに、鍋から掬い上げた熱々の鶏スープを注ぐ。
「ほら、まずは一口飲んでみてくれ」
俺は湯呑みをヴァルキュリアの前に差し出した。
「……何度も言いますが、私は」
「いいから。毒なんて入ってないさ。それとも、人間の作ったスープが怖いか?」
俺の軽い挑発に、ヴァルキュリアはピクリと眉を動かし、警戒しながらも湯呑みを手に取った。
彼女の美しい唇が湯呑みの縁に触れ、琥珀色がかった白濁スープが流れ込む。
「……っ!?」
その瞬間、ヴァルキュリアの瞳孔が限界まで開いた。
「な……なんですか、これは……!?」
彼女の口内に広がったのは、圧倒的な『鶏の旨味』の奔流だった。
数時間かけて骨の髄まで炊き出されたコラーゲンとアミノ酸。それが、ポポロ村の岩塩の鋭い塩味によって、輪郭をくっきりと縁取られている。
臭みは一切なく、ただひたすらに濃厚で、それでいて後味は信じられないほどクリアだ。
「美味いだろう。だが、本番はこれからだ」
俺は鍋の火加減をミリ単位で調整し、中の骨付き肉が最も柔らかくなる『八十度から八十五度』の絶妙な温度帯をキープする。グラグラと沸騰させれば肉はパサつくからだ。
そして、魔法ポーチの中から小さなガラス瓶を取り出した。
「それは……?」
「俺の自家製『橙ポン酢』だ」
日本の柑橘類である橙の搾り汁に、九州特有の甘口醤油、そして昆布と鰹の出汁を絶妙な比率で配合したものだ。市販の酸っぱいだけのポン酢とは次元が違う。
俺は小鉢にポン酢を注ぎ、鍋から最高の状態に仕上がった鶏肉を引き上げてポン酢に絡め、ヴァルキュリアへ差し出した。
「食ってみろ」
ヴァルキュリアは、まるで魔法にでもかけられたかのように、無言で箸を動かした。
ホロリと骨から外れた鶏肉を口に運ぶ。
――サクッ、ジュワッ。
「あ…………ぁ……」
ヴァルキュリアの口から、抑えきれない吐息が漏れた。
極限まで柔らかく煮込まれた鶏もも肉から、濃厚な肉汁が溢れ出す。
それを、自家製ポン酢のまろやかな酸味と、柑橘の爽やかな香りが優しく包み込む。
濃厚なのに、さっぱりしている。いくらでも食べられそうな、無限のループ。
それは、彼女が数千年の神生の中で味わったことのない、究極の『癒やし』の味だった。
「……あ、美味しい……すごく、美味しい……」
ヴァルキュリアの眼鏡の奥から、ポロリと、大粒の涙が零れ落ちた。
「ぶ、部長……!?」
ルチアナが信じられないものを見たという顔で絶叫する。あの鉄血の天使長が、人前で涙を流すなどあり得ないことだった。
「私……私、ずっと……ずっと頑張ってきたんです……」
ヴァルキュリアは箸を持ったまま、ポロポロと涙を流し始めた。彼女の心のダムが、極上の水炊きによって完全に決壊したのだ。
「毎日毎日……下界の人間からの無茶な祈祷の処理をして……上の神々からは『もっと数字(PV)を稼げ』と急かされて……。休日は溜まった始末書の処理で潰れて、せっかくの慰安旅行の積み立ても、このポンコツ女神に横領されて……っ!」
「ひぃぃっ! ごめんなさい! ごめんなさい!!」
「私だって……私だって、本当は可愛い服を着て、美味しいものを食べて、普通に恋だってしてみたいのに……! なんで私ばっかり、いつも怒り役をやらなきゃいけないんですかぁぁっ!」
わぁぁぁん! と、見た目は十七歳の美少女である天使長が、ついに子供のように泣きじゃくり始めた。
「よしよし、辛かったな。いっぱい食え」
俺は苦笑しながら、追加の鶏肉と、鶏の旨味をたっぷり吸い込んだキャベツや豆腐を次々と彼女の小鉢に取り分けてやる。
「うっ、ひぐっ……美味しいです……このキャベツ、甘いですぅ……」
ヴァルキュリアは涙と鼻水を拭いながら、夢中で水炊きを胃袋へ流し込んでいく。
「あの鉄の女を、料理ひとつで完全にメスガキ……いや、泣き虫の女の子に変えちゃった……」
キュララがドン引きした顔で俺を見ている。
「さすがリアン君……胃袋を掴むスキルが神話級だよ……」
キャルルも感心したように頷いていた。
三十分後。
鍋の中身を締めの『雑炊』まで一粒残らず完食したヴァルキュリアは、すっかり憑き物が落ちたような、スッキリとした表情で温かいお茶を啜っていた。
「……お見苦しいところをお見せしました、リアン・クライン公爵」
「気にするな。誰にでも限界はある。……で? ルチアナの処遇はどうなる?」
俺が尋ねると、ヴァルキュリアは少しだけ気まずそうに視線を逸らし、コホンと咳払いをした。
「……今回の件は、ルナミス帝国公爵であるあなたからの要請に基づく、『下界・異界の治安維持および食文化交流の視察研修』であったと、事後報告として処理いたします」
「助かった。慰安旅行の横領分は、明日、ポポロ村の口座経由で、セレスティアのカスハラ部宛てに『特別研修協力費』名目で振り込んでおく。利子もつけてな」
「……恩に着ます。これで、部下の天使たちにも顔が立ちます」
交渉成立(完全買収完了)だ。
俺の簿記一級の会計工作と、三ツ星の料理スキルが見事に神界の法をハックした瞬間だった。
「やったぁぁぁっ! 助かったわぁ! さすがリアン! 大好き!」
ルチアナが歓喜の声を上げて俺に抱きつこうとしたが、キャルルのタローマン特注安全靴による無言の牽制(床踏み抜き)を見て、ピタッと止まった。
「さて、神界の監査も丸め込んだことだし、あとはホテルに戻って明日の買い出しに備える――」
俺がそう言って立ち上がろうとした、その時だった。
バンッ!!
「す、すいません!! どなたか、どなたかお医者様はいらっしゃいませんか!?」
個室の襖が勢いよく開き、顔面を蒼白にした料亭の女将さんが飛び込んできた。
その尋常ではないパニックぶりに、部屋の空気が一変する。
「どうした、女将さん」
俺が前に出ると、女将さんはすがるように俺の袖を掴んだ。
「お、お隣のVIPルームにいらっしゃるお客様が、急に胃を押さえて倒れられまして……! 救急車は呼びましたが、到着まで時間がかかると……!」
「胃痙攣か、あるいはアナフィラキシーか。……俺が診よう。一応、救命の知識はある」
「ほ、本当ですか! お願いします!」
俺はTCCC(戦術戦闘死傷者ケア)の知識を脳内で引き出しながら、隣の部屋へと急行した。
ルチアナやラスティアたちも、心配そうにゾロゾロと後を付いてくる。
隣のVIPルームは、俺たちの部屋よりもさらに広く、豪奢な作りだった。
その部屋の上座で、一人の青年がうずくまり、苦しそうに脂汗を流している。周囲にはマネージャーらしきスーツの男たちがパニックに陥っていた。
「どいてくれ、急患の処置をする」
俺はマネージャーたちを押しのけ、倒れている青年の顔を覗き込んだ。
「――――えっ?」
「うそっ!?」
俺の背後で、魔王ラスティアと女神ルチアナが、同時に素っ頓狂な悲鳴を上げた。
無理もない。
うずくまり、苦悶の表情を浮かべているその青年は――数時間前、マリンメッセ福岡のステージで数万人を熱狂させていた、あのトップアイドル。
朝倉月人、その人だったのだ。
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