EP 26
急性幻覚症状。目覚めよ、俺の中の勇者の血(ただの泥酔)
コチ……コチ……コチ……。
俺の手元で、ストップウォッチの秒針が冷徹に時を刻む。
完食から、およそ三分。
それは、空腹の胃袋に流し込まれた『度数40%の沸騰したスピリッツ(イモッカ)』が、腸壁から爆発的なスピードで血中へと吸収され、脳髄に到達するまでのタイムラグであった。
「……はぁっ、はぁっ……! な、なんだ……? 急に、体が……燃えるように……っ!」
特許査察官アーノルド(A氏)が、喉をかきむしるようにしてテーブルに突っ伏した。
その顔色は、茹でダコのような赤から、青白く、そして最後は土気色へと目まぐるしく変化している。額からは大粒の汗がボタボタと滴り落ち、豪華なベルベットの外套を濡らしていた。
「査察官様? いかがなさいましたか? 当店の『極上ラーメン』の旨味が、全身を駆け巡っておりますでしょうか?」
俺は、接客業の完璧なスマイルを崩さずに声をかけた。
「う……うおぉ……! ち、違う! 違うぞ! この熱さは……ただの熱さではない! 俺の、俺の中の血が……っ!」
「おや? もしかして、あなたの体内に眠る『勇者の血』が、ポポロ亭の飯のエネルギーによって覚醒しようとしているのでは?」
俺は、悪魔のような囁き(ガスライティング)を彼の耳元へ吹き込んだ。
「ゆ、勇者の……血……!?」
A氏の目が、バキバキに血走り、限界まで見開かれた。
高濃度のアルコールによる急性酩酊状態。脳のストッパーが完全に吹き飛び、彼の思考は今、自らの強烈な自己愛とファンタジー(幻覚)の世界へと完全にトリップしていた。
「あ、ああ……! 見える! 見えるぞ……! 神が、神が俺に語りかけているゥゥッ!!」
ガタァッ!!
A氏が、勢いよく立ち上がった。その拍子に椅子が後方へと吹っ飛ぶ。
「A氏様!? どうなされたのですか!?」
護衛の帝国騎士たちが慌てて駆け寄ろうとするが、A氏は彼らを力任せに払い除けた。
「触るな、洗脳されし哀れな村人どもめ! 見えないのか! この店は……いや、この村全体が、魔王軍の巨大なミミック(擬態魔物)の腹の中だということに!!」
「「「は……?」」」
騎士たちが呆気にとられる中、A氏の幻覚症状(ただの泥酔)はさらに加速していく。
「はぁっ、はぁっ……! 瘴気が濃い! 闇の呪縛が、俺の聖なるオーラを蝕もうとしている! ……ええい、この呪われた重装備(高級外套)が邪魔だ!」
ビリィッ!!
A氏は、金糸の刺繍が施された何十万ガメルもするベルベットの外套を、自らの手で乱暴に引き裂き、床に投げ捨てた。
さらに、シルクのシャツのボタンを引きちぎり、半裸になる。
「まだだ! 魔界の沼が俺の足を引っ張っている! 呪いの手枷足枷め、外れろォォッ!!」
「ちょ、A氏様!? 何をなさって……ああっ、ズボンまで! ズボンまで脱いではなりません!!」
騎士たちの制止も虚しく、A氏はベルトを引き抜き、高級なスラックスをその場で勢いよく脱ぎ捨てた。
バサッ。
ポポロ亭のVIP席のど真ん中に、革靴と靴下、そして『純白のシルク製ボクサーパンツ一丁』という、絵に描いたような変態(狂人)が完成した。
「……ふぅ。これで体が軽くなった。さぁ来い、魔王軍の眷属ども! この勇者アーノルドが、一人残らず浄化してやるわァァッ!!」
厨房のドアの隙間からその光景を覗き見ていた花嫁たちは、あまりの惨状に腹を抱えていた。
「ひぃっ、ひぃぃぃっ! お、お腹痛いですわーっ! まさか本当にパンツ一丁になるとは……っ!」
リーザが笑い転げて床を転げ回っている。
「……あれが、私を倒した勇者の末裔? マジで? 吐き気がするんだけど」
ラスティア(現役魔王)は、ドン引きして冷や汗を流していた。
「キュララ、ドローン回してるか?」
俺が小声でインカムに囁く。
「はいはーいっ! 『特許庁査察官、深夜のパンツ一丁ストリップショー』、バッチリ4K画質で録画中でーすっ☆ これでいつでも帝都の新聞社にリーク(脅迫)できますよーっ!」
上空を飛ぶ超小型ドローンが、A氏の狂態を様々なアングルから完璧に記録していた。
「よぉし。あとは『器物破損』の証拠(既成事実)を作らせるだけだ」
俺は、腕を組んで高みの見物を決め込んだ。
パンツ一丁のA氏は、幻覚の中で見えない敵と戦い始めていた。
「喰らえ! 聖剣エクス・スラッシュ!!」
ドゴォォォンッ!!
A氏が叫びながら全力の回し蹴りを放ち、ポポロ亭の木製テーブルをへし折った。
「あいたぁぁっ!? ……いや、痛くない! さすが俺の聖剣だ、魔族の盾(ただの机)を粉砕したぞ!」
高濃度のアルコールが痛覚すらも麻痺させている。彼は次々と椅子や観葉植物に襲いかかり、店内を破壊し始めた。
「魔物め! 魔物め! ポポロ亭ごと浄化してやるゥゥッ!!」
「A氏様、おやめください! それはただの椅子です!!」
「うるさい! 俺は勇者だ! 俺がルールだァァッ!」
止めに入った護衛騎士の顔面に、A氏の裏拳がクリーンヒットする。
「ぐふっ!?」と鼻血を吹いて倒れる騎士。公務執行妨害および傷害罪、追加で一丁上がりである。
店内が阿鼻叫喚の地獄絵図と化したのを見計らい、俺は頃合いだと判断した。
「……あー、査察官様。大変申し訳ありませんが、当店はそろそろ閉店のお時間でして」
俺は、破壊されたテーブルの破片を踏み越え、パンツ一丁で息巻いているA氏に歩み寄った。
そして、恭しく『お会計の伝票』を差し出す。
「本日のご飲食代、ならびに『極上ラーメンの深夜特別料金』を合わせまして……金貨一枚となりますが、お支払いは如何なさいますか?」
「あ……? 支払いだと……?」
A氏は、焦点の合っていない血走った目で俺を睨みつけた。
「俺は勇者だぞ! 勇者の飲食代は国が持つのが当然だろうが! ええい、うっとうしい下民め、これで釣りを取っておけ!!」
チャリンッ!!
A氏は、幻覚の中で自分のアイテムボックス(虚空)から何かを取り出すような仕草をし、俺の顔面に向かって一枚の硬貨を力一杯投げつけた。
俺はそれを片手でパシッと受け止める。
それは――俺が事前に彼の服のポケットにこっそり忍ばせておいた、この異世界には絶対に存在しないはずの硬貨。
真ん中に穴の空いた、前世の『金ピカの五円玉』であった。
「釣りは要らねー! とっておきな!!」
A氏は、パンツ一丁のまま、ヒーローのようなキメ顔で親指を立てた。
「ではな! 俺はこれから、魔王城(隣の畑)へ出陣する!!」
「A氏様ぁぁっ! お待ちくださいぃぃっ!」
バタバタバタッ!
A氏は、夜の冷気が吹き込むポポロ村の広場へ向かって、パンツ一丁で猛ダッシュしていった。その後を、鼻血を出した護衛騎士たちが泣きながら追いかけていく。
「…………ぷっ」
静まり返った店内で、俺は手元に残された五円玉を見つめ、ついに堪えきれずに吹き出した。
「あー、はっはっはっはっ!! 釣りは要らねー、とっておきな、じゃねぇよ! 幻覚見て異世界の硬貨を生み出してんじゃねぇよ!!」
「ひぃぃぃっ! 腹筋が、腹筋がちぎれますわーっ!!」
厨房から嫁たちが飛び出してきて、床を転げ回って爆笑している。
俺は、笑い涙を拭いながら、破壊された店内を見渡した。
「……よし。役満(完璧)だ。これで明日の朝、帝国の駐在騎士を呼んで『完璧な被害者』を演じれば、あの不良債権は二度と社会復帰できない」
度数40%のイモッカと、ワンカップ・ラーメンのジャンクな引力。
ポポロ・コーポレーションの生み出した悪魔の発明品は、特許を横取りしようとした傲慢な権力者を、ただの一滴の血も流させず、法的に、かつ圧倒的にみじめな形で完全粉砕したのである。
「さぁて、明日の『事情聴取』に向けて、泣き真似の練習でもしとくか」
深夜のポポロ亭に、ブラック企業経営者のドス黒く、そして最高に楽しげな笑い声が響き渡っていた。
読んでいただきありがとうございます。
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